Ⅰ 4-5
そして、其れは自己本位的自我の現われでは無い。別物である。夢を追い、打ち砕かれた嘗ての貴教では無いし無かった。当然、その様な人間にとっての反省や呻吟等は正に“悪”である。生命活動を継続させる事に対する。夢に希望に満ちていれば、満ち満ちていればいる程に、其れが想うに任せなかった時の落胆はあまりにも絶望的である。光が強く明るく眩しいものであればある程に其れに因ってかたちづくられる影はくっきりとした漆黒である様に。其れは唯でさえ絶望だというのに貴教の場合には更に傷口を抉られる様な彼ならでは特殊性が其れに加わっていた。
其れはまるで自重で首吊りの縄が気管を絞めるが如く。
南方貴教はニッポン人である。「お寺の和尚さんの様な名前」と言われ幼心に実は密かに傷付いたこともあったが、彼自身は此の国の人間に有り勝ちな“無宗教”である。ではあるが、其れは「特定の宗教を信仰してはいないという意味で」はということであり、「何も信仰してはいない」という事とは必ずしも同義では無い。そう。貴教の信仰の対象、其れは音楽――歌である。
「歌に生き、歌に活かされ、歌に仕える」――歌に一生を捧げると決めた。
夢に生きる――実に自己本位的な有り方である。しかし、本来、信仰に生きるというのは集団本位的であり、社会本位的な有り様である。そして、貴教という人は後に大成した事により世間に広く知れ渡ったのであるが、元より彼は世の為人の為に成りたいという資質の人であり、特に其れを歌で――エンターテイナーとしてみんなを喜ばせたい、喜ぶ顔が見たいという人なのである。
其れが今、現実にうちのめされ、“敬虔な信者”の信仰に疑問が芽生え、ヒビが入ってしまっている――漸くメジャーデビューしたバンドから脱退したというよりも、脱落してしまった貴教――
属している宗教・宗派への連帯感が弱まり、其処から離れる様になると、また自分の所属していた世界や社会がよそよそしいものと感じられてしまうと、それだけ自分というものがよくわからなくなり、苛立ち、苦悶し、自問せざるを得なくなる。
「何故、そして一体、何の為に自分は生きているのか?」と。
そこから更に事態は悪化している。最早、「必要とされていない」「自分には需要が無い」と自らの内の深淵に沈んでいるのが此の時の貴教である。
人間とは二重の存在である。何故ならば物理的人間の上に社会的人間というもの重ねられいるのだから。ところで、社会的人間は必ず社会というものの存在を前提とする。自己御本位的でありながら、集団本位的であり、社会本位的でもあり、そういうふうにいられる――彼が表現し、それでいて皆と為に役立ち、みんなを笑顔に出来る世界。そうありたい、そうであって欲しい、そうなって欲しい、そんな世界。其れは貴教にとっての理想郷である。自己本位的でありながらも、集団本位的であり、社会本位的でもある全てに於いて極めて高い意識の自我が夢見る理想の社会である。




