Ⅰ 4-4
人間の活動のこの高度な形態が正に集合的な起源を持っている事に関連して、その活動の目的もまた同じく集合的な性質を帯びている。其れが生じてきたのは社会の中からであり、其れはまた社会と強く結びついている。当然の事ながらというよりは、寧ろ、此の高度な形態が我々各人に体現され、個人化されている社会そのものなのである。
そして、此の活動が、我々の眼に存在理由をもって映ずる為には、其れの目指している目的が我々にとって無縁のものであってはならない。
人間は社会と結びついている限りにおいてはじめて其の高度な形態の活動に参加することが出来る。逆に謂えば、参加出来なければ、参加していると実感出来ていなければ、人は社会から乖離している、或いは切り離されていると感じ、其の思いを強くすれば強くする程、それだけ社会を――人の繋がりを――根拠とも目的ともしている生から切り離されていくことになる。人々にありとあらゆるある種犠牲を強いている道徳的規範、法の定め、人々を拘束する宗教的教義等、若し我々個人以外何ら仕えるべき存在――我々自身も其処には結びついている――をもたなかったのならば、我々人というものはどうして存在し得ようか? どうして知識が、それ自身の為に存在し得ようか? だとしたら、知識の蓄積によって構築された文明、其処から醸造された産物とも謂える文化とは一体何なのか? 芸術とは、文明や文化に付随して醸し出せれただけの――薄っすらと纏い付けだけのものに過ぎないのか?
否!
断じて否である。
芸術は常に癒しとし傍らに添うていた。人に不可欠で、人には不可欠で、分かちがたいものとして。絵画も、彫刻も、そして、音楽も。
若しも知識の効用が専ら人というものの生存機会を増大させるものというだけに尽きるのであれば、数々の労苦を費やして迄其れを極めることは値しまい。何故ならば、本能の方が、まだしも此の役割を余程うまく果たしているのだから。その証拠に動物を見るがいい。一目瞭然である。では一体、本能よりも余程逡巡しがちで、しかも遥かに誤謬に陥りやすい反省――そんなものをする生物は訓練されたことで芸として身に付けたニッポンザルを除けば人間くらいのものであろう――等というものでどうして其れに置き換える必要があるというのか? 反省に伴う呻吟など一体何になるというのか? 若しも、物事の価値が個人本位に評価されるのならば、呻吟等というものは明らかに愚であり悪である。そんなものは償うものが無いだけに始末に負えぬ。理解に苦しむ。しかしながら、信仰をかたく奉じている信者や、家族社会や政治社会の諸関係に強く結ばれている者にとっては、そんな問題は存在しない、といよりも存在し得ない。彼らはおのずから反省に頼る事等無く、自分の存在と其の行為を、其々、教会や其の生きた象徴である神に、或いは自身の家族に、所属する共同体に、己の祖国に、又は党派に一体化する。彼らは自らの苦悩すらも、専ら自分の属する集団の栄光に仕える手段と見做し、其の苦悩は集団の為に捧げられる。其れ以外では有り得ない。其れが社会本位的自我、或いは社会的・集団本位的自我の有り様である。




