Ⅰ 2-2
「ともかく世のため人のため」――そんな温かなオーラを常に放っている人であった。そんな最愛の人物、然も、其の人の職業が警察官とくれば、「じいちゃんこそが社会のルール」にしか成りはしない。「『この人が云うことは全てが正しいんだ』って認識していた。だから、じいちゃんに『それはいいことだ』と言って貰える事が全てだった。空手を習い始めたのも、『自分がやりたい、やりたくない』じゃなくて、『やるとじいちゃんが喜んでくれるから』、それだけだった」。
其れが……。
貴教の人生の序盤に於ける最大の悲劇――其れは謂う迄も無い。 何しろ、万事が万事、そんな具合だったのだから。
癌である事が判明し、通院から入院となり、抗癌剤によってどんどん衰弱してゆく様を目の当たりにするのは本当に辛かった。気丈な人だったからこそ、余計に。入院している時、足を揉んであげようとしたら、以前なら筋骨隆々としていたのに、骨と皮だけみたいになっていたのは、ショック等という生易しいもので無く、ビクっと思わず手を引いたしまった。暮れに手術して正月に一端退院した折に会いに行った時の事は鮮明に憶えている。「あっ、じいちゃんや」と思ったから寄ってって、いつも通り声を掛けたら、いつもなら「おー!」って感じで明るく接してくれる筈なのが、凄い素っ気無くて……。急にバーンと疎遠になった様な感じがして……。
…いたたまれなかった。
いたたまれず帰った。
今ならば解かる。
どう接していいのか解らなかったのだろう。
其の時、貴教は小学五年生、じいちゃんはまだ還暦を少し過ぎたばかり――
一週間泣いて暮らした。
貴教のじいちゃんへの思慕がやむ事は、無い。どれ程月日が流れようとも。ツアーのオープニングに流れる映像にはおじいさんと子供がいるのは…、「自分はそこから始まった……」の思いを込めた。じいちゃんの常に持ち歩いている。無論、ツアー中も。「豪快で明るいじいちゃんが、きっとどこかで見ていてくれるんだろうなぁ」と想いながら……。
「人を導くのが上手な人だった。押しつけないで礼節を教え、優しさもちゃんと伝えた」ーー後日の貴教の母(じいちゃんの娘)の言葉である。“貴教”ーー此の名を付けてくれたのもじいちゃんである。タカノリという響きを与え、意味を込め、“貴”と“教”という感じを選び、字画も詳しく調べた上での、“教えるは、貴し”。メジャーデビューに際し、アーティスト名を決定するに当たり、「“貴教”という名前が素晴らしいから此れを絶対活かしたい」が嚆矢と成り、“貴教”と云う戦士が革命を起こしてゆくーー“makes revolution.(Minakata's revolution.ではなく。ソロデビューしたアーティスト名は確かに後者だけれど)”ーーそんなストーリーが形成されていったのは、また後の物語である。
幼かった頃、ある先生に「お坊さんみたいな名前ですね」と言われた(褒められたのだろうけれども)時には子供心にちょっと傷付いた事もあったのだけれど。




