第三十二話 黒ずくめの男
今回は少し短めです。
「ぼくはこれで失礼します」
若きダンピールはゆっくりと立ち上がり、消え入るような声で香取翁に告げた。
「ならば車で送らせよう。少しお待ちなさい」
香取翁は内線で運転手を呼び出し、その旨を告げた。
そして立ち上がり、聖夜を玄関まで送ろうとする。
「必要ありません。香取さんのお宅は豪邸ですが、この程度で迷うようなぼくではありませんから」
聖夜は立ちあがろうとした香取翁を制止し、ひとりで部屋を出ていった。
一息ついたのち、香取翁は窓から庭を見下ろす。
ちょうど聖夜が車に乗る姿が目に入った。
こうして見ると、なんら普通の青年と変わりない。まだ幼さの残る顔立ちは、少年と言っても差し支えない。
香取翁には聖夜の背中が、心なしか小さく見えた。
(まだ幼いダンピールに、苛立ちをぶつけるとは。
年長者として取る態度ではなかった)
聖夜を乗せた車が走り去るのを見送り、香取翁は俯き加減でカーテンを閉めた。
その足でバーに立ち、新たにふたつグラスを用意する。
「話を聞いていたのだろう?」
氷を入れながら、バーのすぐそばにあるドアに話しかけた。
扉が開き、ふたりの青年が姿を見せる。彼らは慣れた様子で、先ほどまで聖夜の座っていたソファーに腰掛けた。
ひとりは首元にガーゼを貼りつけた、大学生ふうの青年だ。
もうひとりは黒ずくめの服で全身を包み、二十代半ばの年齢とは不釣り合いに杖を使っている。右足がやや不自由な様子だ。
「で、きみたちは月島くんをどう評価する?」
香取翁は姿を見せたふたりに、穏やかに問いかけた。
「彼がダンピールだったんですね。でも能力に関しては、問題外です。
人間にすら簡単に傷つけられて死にかけるようなダンピールが、ヴァンパイアを倒せるとは思えません」
口を開いたのは大学生の方だ。首元の傷は聖夜につけられたものだ。
「だが月島くんは、何も知らずに生きてきた。ヴァンパイアのこともハンターのことも。
今からでも訓練を実施すれば、必ず最強のハンターになれる」
香取翁はソファーに座り、テーブルに並べたグラスにウイスキーを注いだ。
「まだそんな迷いごとを仰いますか。
いったいどこで、ダンピールが無敵だと思い込むようになったのです?」
大学生はグラスを手に、香取翁に冷ややかな視線をむけた。
「迷いごとを言っているのはおまえではないか」
翁が答える前に、黒服が口を挟む。
途端に大学生の背筋が伸び、ゆっくりと声の主に顔を向けた。
「訓練を一切受けていないダンピールに出し抜かれ、傷を負ったものが言えるのか?
おれの助けがなければ、今ごろおまえは死んでいたかも知れない。
いやそれはないか。月島聖夜には、人の命を奪えるほどの決意がない。中途半端な優しさゆえにな」
黒服が冷徹に言い放つ。大学生は「ぐっ」と喉を鳴らした。
「すみません、チーフ。それはおれのミスです。
でもチーフたちの仰るようにダンピールなら……」
「わたしの銃弾は避けられたとでもいうのか。
後からならなんとでも言い訳ができるな」
「そ、そうかもしれませんが、おれもまだ訓練生です。
だからチーフと一緒に行動したのですよ」
「いずれにせよ、おまえに実践は早すぎた。
相手が坊やだったことに感謝するんだな。
彼自身は人間だけでなく、ヴァンパイアさえも殺めることに抵抗がある。よほどのことがない限りは。
まだ自分を人間だと思っているからな」
黒服は大学生に、ここから立ち去るように命令した。
大学生はグラスを置き、そそくさと部屋を出ていく。
あとには黒服と香取翁のふたりだけが残った。
「で、翁殿はどう感じましたか」
「あのダンピール——月島くんのことかね」
「そうです。今の能力はさておき、将来性はどうご覧になられましたか」
香取翁はグラスを手にし、少し考えを巡らせる。
「判断は保留させてもらおう。
一年前まで人間として暮らし、一切訓練を受けていないのに、訓練生とはいえ簡単にねじ伏せおった。確実にヴァンパイアの力を受け継いでおる。
だがきみの存在には気づけず、負傷して生死の境目までたどった。
そこまで隙だらけのダンピールが、よくブラッディ・マスターを倒したものだ。まだ信じられん。
潜在能力と実戦時の差がありすぎて判断に困る」
「わたしも、実際にこの目で見ていなければ同じ意見です。
伸び代はあるが、自由に使いこなせるまでどの程度の時間がかかることか」
「わたしどもが心配しなくとも、短時間で成長するお方でしょうな。
何せ、組織でも一、二を争うハンターのきみを、たった一振りの刃で杖がなくては歩けない身体にしたのだから」
香取翁の言葉を聞いた途端黒服は、思うように動かない右足を睨みつけ、全身を振るわせる。
手にしたグラスを握りつぶすのではないかと、翁は懸念した。
しばらくの間、部屋全体に緊張が走る。息苦しさは黒服の執念だろう。
敵に受けた屈辱をバネに進めるのならいいが、この男はそれを憎しみに変えている。
そういう意味では、黒服は精神的に未熟なハンターだったに違いない。
香取翁は、黒服の意識を過去から現在に戻すために、音を立ててグラスをテーブルに置いた。
男の目から憎しみの色が消え、鋭い視線に戻った。
「月島聖夜のことはあとで考えることにしましょう。彼を見つけたのは本当に偶然で、当初の目的ではありません。
それよりも、エリザベータの件はどう片をつけるつもりですか?」
「エリザベータか……。もうわたしには、あれを倒す術がない」
香取翁は両手を組み、肘を膝の上に置いて俯く。
「あれのやっていることを止めるどころか、きみたちに後始末をさせているのだからな。
ハンターならば止めなくてはならぬのに、それどころか進んで協力しておる」
「あなたの手足となって動いているわたしたちも、似たようなものですよ。最もそれは、あなたの要請ですからね。
組織も秘密裏に行動するためには、いろいろと表にできないことをやっています。
ヴァンパイアが司法の手で裁けるものでない限り、必要悪というものですよ」
「では、最終的な判断まで、もう少し待ってもらえるのかな?」
「この件の主導者は翁殿ですから。あなたの心が決まるまで、わたしたちは待つだけです。
それまではせいぜい、顧問弁護士の仕事と、エリザベータの後始末を続けさせてもらいます」
黒服は右の口角のみを上げ、意味ありげな笑みを浮かべた。
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