第二十六話 呪われた血
目が覚めたとき、聖夜が最初に見たのは夜空だった。
月明かりに輝きを奪われながらも、星たちは懸命に瞬いている。
本来ならば星たちの出す光の方がはるかに強い。
なのに距離が遠いだけで、自ら輝くことのない月の方が夜空を明るく照らす。
強い光に惑わされて、真実を見失ってはならない。
夜空を眺めながら、聖夜はそのようなことを考えていた。
夜風が頬をなで体温を奪う。冬枯れの木々がざわめく。
冷たさが、聖夜の意識を回復させる。
(ここは……?)
聖夜は、自分の置かれた状況を訝しく感じた。
ゆっくりと顔を動かし、自分のいる場所を確認する。
(夜の公園……ぼくは仰向けに倒れている……?)
この状況になった理由を思い出せないまま、聖夜は上半身を起こした。
途端に世界がぐるぐると回り始め、ひどい吐き気を催す。
気力を振り絞って起き上がると、やがて目眩はおさまった。
全身がしびれて動きにくさを感じたが、それもすぐに消える。
代りに身体の隅々まで、強い生命力が宿っているのを実感した。
「ぼくは……どうしてこんな場所にいるんだ?」
聖夜はむせ返るような血の匂いに気づき視線を移す。
あちこちに血だまりが残り、着ている服には左肩のあたりを中心に、多くの血が滲んでいた。
「うっ!」
再び激しい頭痛に襲われると同時に、頭の中で断片的な記憶がスライド写真のようにフラッシュした。
ナイフを首筋に突きつけられた若い男。
肩にうけた衝撃。
あとから現れた人物。
広がる血だまり。
遠ざかる車の音。
唐突に記憶がよみがえった。
「ぼくは……生きてるのか?」
失血死してもおかしくないレベルの負傷だった。
撃たれたはずの左肩の傷は、かすかな痕跡を残すのみで、それが銃痕だと指摘されても信じ難い。
ナイフで刺された腹部の傷は、跡形もなく完治している。
傷はどこにもないのに、血の跡とぼろぼろになった服が残っている。
妙な光景だった。
「なぜ、こんなことに……?」
刺されて倒れたところで、記憶は途絶えている。
(何が起こっているんだ?)
自分の倒れていた場所から少し離れたところに、横たわる少女を見つけた。
「か、加織ちゃん?」
聖夜の胸に不吉な予感が広がる。
それを抑えながら、聖夜は加織のそばまで駆け寄り、倒れた彼女を抱き起こした。
体温は残っており、浅いながらも呼吸がしっかりしている。
「よかった……」
生きていることに感謝して、聖夜は加織を起こそうとした。
だがいくら揺すっても目を覚まさない。
揺さぶった拍子に、加織の首筋があらわになった。
「え……?」
聖夜は我が目を疑い、目を凝らして加織の首筋を観察する。
「まさか、そんな……」
そこにあるのはふたつの小さな傷、ヴァンパイアの牙がつけた痕だ。
聖夜が倒れている間にヴァンパイアが現れ、加織が襲われた。
そんな考えが最初に浮かんだ。
だがあの場にいた監視者は間違いなく人間だった。
(嘘だ。嘘だ、嘘だ!)
目の前に真実を否定しようにも、聖夜の口の中に血の味が残っている。
一年前の記憶ではなく、たった今味わったものだ。
(まさか……本当にぼくが加織ちゃんを傷つけたのか?)
加織の負った首筋の傷と自らの全身にみなぎる強い躍動感で、聖夜はすべてを悟った。
深い傷を負って瀕死の状態になった聖夜は、それが原因で意識をなくした。
その隙を狙うように、聖夜の身体に半分流れるヴァンパイアの血は、肉体に受けた傷を修復させるために、人間の血を求めた。
聖夜を死に追いやるよりも、生かすためだけに行動させた。
全ては聖夜の意思とはまったく関係なく、その血を絶やさないための本能が起こしたことだった。
(監視者と闘うために、ぼくはヴァンパイアの能力を解放させた。
その結果がこれか?)
大量に血を吸われた加織がこのあとどうなるのか、聖夜には全然解らない。
ヴァンパイアに変化するのか、それともこのまま意識が戻らず、死んでしまうのか。
覚醒のとき,ひとりの少女——聖夜が最も愛した女性——の命を奪ったように。
聖夜は我知らず、加織を強く抱きしめる。
叶うことなら人間のままでいてほしい。
あの健康的なままの姿で。
(そんな都合のいい話がある訳ないだろ)
助かったとしても、この出来事は深い傷になる。
好きになった人が、実は人間ではなく物怪だったのだ。
加織がそんな事実を受け入れられるはずがない。
「せっかくできた友達を失った。
すべてはぼくの責任だ。
自分の力を過信したぼくが悪いんだ」
聖夜の全身が震える。
大切な友を奪う魔性の血に怒り、二度と会えなくなったことに深い悲しみを覚える。
——忌むべき存在。呪われし者。
自分は他者の血を命の糧とし、夜に生きる魔物だ。
生きているだけで周りを不幸にさせる恐ろしい生き物なのだ。
自ら命を絶つことができたら、どんなに楽だろう。
だが死ぬことはできない。
命を断とうにも、聖夜が意識を失ったらすぐにヴァンパイアの血が覚醒し、また新しい犠牲者を生む。
「ぼくは、どうすればいいんだ?」
人間でありながら、ヴァンパイアの生き方も受け入れなくてはならないのか。
命をつなぐためには、ときとして彼らと同じことをしなくてはならないのか。
人間の心を残しているから、他人を犠牲にすることに嫌悪する。
夜の世界に入ってしまえば、胸を痛めることなど、なくなるのだろうか……?
夜空にかかる月を、厚い雲がかくした。
真冬の冷たい夜気が、聖夜の身体から温もりを奪い去る。
このまま深い闇に堕ちていきたい。
善悪の葛藤に苛まれる日々から抜け出したい。
そう願わずにはいられなかった。
そのとき。
聖夜は、木々のざわめきとともに、何かが近づいていることに気づく。
(人の気配のようだが……敵か?)
敵意も殺意も感じられないから、ただの通りすがりかもしれない。
無関係の人にこの状況を見咎められたら、どう説明すればいいのか。
もし相手に騒がれたら、ヴァンパイアの防衛本能が相手を殺しかねない。
聖夜はそれを恐れた。
解放された血を抑える自信がない。
(頼むから、何も見ないで通り過ぎてくれ!)
願いとは裏腹に、人影は聖夜に向かってくる。
(もう逃げられない)
聖夜は顔を見られまいと背を向ける。
その人物は聖夜の背後で立ち止まったまま、何も行動を起こさない。
不自然さに振り返ると、彼は片膝をつき聖夜に対して深々と頭を下げた。
「あ……あの?」
その人物の行動があまりにも意外すぎて、聖夜は戸惑った。
一方で相手の落ち着き払った態度に、聖夜の緊張感は薄れ始める。
男がゆっくりと顔を上げた。
月明かりに頼るまでもなく、聖夜の目は顔を確認できた。
白髪で顎髭を生やした老紳士に、聖夜は見覚えがある。
楽園祭の日、倒れた江莉を迎えにきた人物だ。
「もしかしてあなたは、江莉さんのお祖父さまですか?」
「おっしゃるとおり。
わたしは江莉の祖父、香取栄一と申します」
香取翁は落ち着いて物静かに答えた。
そして聖夜とその腕の中にいる加織をじっと見つめる。
かと思うと、
「それにしても見事な快復力だ。
先ほどは瀕死の状態だったにも関わらず、なんとか命を取り留めただけでなく、ほとんど傷も残っていないとは。
さすがは——」
香取は一度言葉を切り、感嘆のため息をもらした。
「ダンピールだ」
「ま、待ってくださいっ。
あなたは何を言っているのですか?」
聖夜は香取翁の言葉が理解できなかった。
いや、そうではない。
理解が追い付かなかったという方が正しいだろう。
目の前の老人が、どうして自分の素性を知っているのか。
誰にも知られないように隠し続けてきた忌わしい血のことを。
聖夜が意識をなくしている間にしたことを見ただけで、なぜダンピールだと判断できるのか。
目の前にいる老紳士は、少なくともヴァンパイアの存在を知っている。
だが一般人がそんな戯言を信じているとは思えない。
人々にとって、彼ら伝説の魔物は想像上の存在にすぎない。
当事者の聖夜でさえ、あの事件に巻き込まれるまで信じていなかったのに。
それを知ることができるのは、同じ血を見抜くことのできるヴァンパイアたちだ。
だが香取翁は普通の人間だ。
吸血鬼は太陽の下では動けない。
(でも、あの日は大雨だっただけでなく、すでに日も沈んでいた)
それを考えると、あり得ない話ではない。
では事件の犯人は目の前の老紳士かもしれない。
ヴァンパイアと戦ったときの記憶が蘇り、本能的に聖夜は戦闘態勢に入る。
それに気づいた香取翁はおもむろに立ち上がり、手で静止させた。
「心配しなくても大丈夫です。
ご安心ください。
わたしはあなたの敵ではありません」
「じゃあ、あなたはどうしてダンピールを知っているのですか?」
香取翁は変わらず穏やかな口調で話しかけてくる。
でも聖夜は警戒を解けない。
「それは……あなたがあるお方に生き写しだからです」
「ある……お方?」
香取翁は軽く頷いて応える。
「残念ですが、わたしはあのお方のことはほとんど存じ上げません。
もちろん、お会いしたこともない。
何しろ時代が遠すぎる……」
香取翁は目を細くして遠くを見つめた。
そこに敵意はなく、懐かしそうに何かを思い出している姿があるだけだ。
聖夜の警戒心がほんの少しだけ薄れる。
「どうやらいろいろと疑問が湧いてきたようですね。
慌てず、順を追ってお話しします」
「は、はい……」
聖夜は腕の中にいる加織を思わず抱きしめる。
「若いころ、わたしはある組織で働いていました。
そこで偶然見つけた肖像画に、わたしはいつも慰められ、支えられてきたのです。
優しく柔らかに微笑んでいるのに、瞳の奥に深い哀しみをたたえた、あの肖像画の方——」
聖夜の脳裏に、たった一度見たことのある肖像画が浮かんだ。
「月島さん、あなたは瓜二つなのですよ。
伝説に残る、最後のダンピール——ヴァンパイア・ハンターに」
「なんですって!
あなたはどこでその絵を見たのですか?」
驚く聖夜をよそに、香取翁は静かに答えた。
「かつてわたしは、ヴァンパイア・ハンターでした」
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