かすみ草
*
「初めて聞いたなぁ。……『六次の隔たり』って」
戸倉沙侑里は飲んでいた日本酒のお猪口を置くと、ふぅと息を吐いた。
「あたしは今、誰にとっての何次目なんだろう?」
居酒屋の喧騒をBGMに、鼻に抜けるスッキリとした後味を楽しみながら、通りかかった店員を呼び止めた。
「すいませーん。お水いただけますか? 大きめのジョッキで」
「はい! 喜んで!」
藍色の作務衣に金色のおかっぱ髪という男性が、元気よく答えた。よく見れば他の店員と格好が違う。厨房スタッフなのだろうか。
数分後に水を運んできてくれたのも、同じ金髪の彼だった。青年というより少年に近い童顔をしている。
テーブルに置かれたジョッキを見た瞬間、沙侑里の頭にある考えが浮かんだ。
「あの……、すみません。ちょっと訊いてもいいですか?」
「はい? なんでしょうか」
彼は、どこか不安そうに声をひそめた。きっと見た目通り、沙侑里よりずっと若いのだろう。なんとなくそんな気がした。
「ここに花を活けたら……、ダメ、ですか」
「……えっ!?」
「あ、ごめんなさい。やっぱ無し。変ですよね。……あ、そうだ、こっちにします」
沙侑里は慌てて、自分のバッグから飲みかけの水のペットポトルを取り出した。
金髪の彼はしばらく言葉を失っていたが、やがて我に返ったように、口を開いた。
「ああ……。いえ、別にいいっスよ」
「え、でも、やっぱり衛生的に、とかありますよね。ごめんなさい。変なこと言って」
「ちゃんと洗うし、殺菌もするから大丈夫です。……別に、変だとは思わないです。オレは」
「そう……、ですか?」
「はい。いいじゃないですか。せっかく飲んでるんだし。花あるんだし」
金髪の彼は照れくさそうに頭を掻いて、行ってしまった。その背中を見送ってから、沙侑里はぽつりと呟いた。
「よくできた若者だなぁ……」
彼女はジョッキの水を少し飲んで減らすと、そこへ先ほど買ったばかりのかすみ草を何本か活けてみた。テーブルのうえが華やかになり、楽しくなる。
「ふふ……。ソロ花見酒だ。いい感じ」
気分がよくなった沙侑里は、また別の定員を呼び止め、追加で刺身の盛り合わせを注文した。
日本酒を楽しんでいると、先ほどの金髪の彼が料理を運んできてくれた。
「おっ、いいですね、お花。……はい、刺し盛りも、どうぞ」
「ありがとう」
「白いかすみ草の花言葉は、『無邪気』『清らかな心』なんですって」
「詳しいね!」
「ついさっきググりました」
いたずらっぽく笑ってからテーブルを離れる彼を見送って、沙侑里はかすみ草を眺めた。
「清らかな心ねぇ。……尊いとは思うけど、なれるとも、なりたいとも思わないなぁ」
勢いよく流し込んだ日本酒が、喉を焼いた。
数刻後、沙侑里は居酒屋を出てすぐの路上で、シャッターを背にへたり込んでいた。
「……飲みすぎちったなぁ」
信じられないくらい、身体が重い。酔いが醒めるまで、しばらくじっとしていよう。バッグからペットボトルの水を取り出すが、ほとんど残っていなかった。
不意に、先週別れたばかりの恋人との、最後の会話を思い出した。
『……ゴウくんはあたしといて、楽しい?』
五年間付き合った彼は、肺の空気が全部なくなるほど長い息を吐いてから、その目に静かな光をたたえて、涙を流す沙侑里を見た。そしてしばらく黙ったのち、ゆっくりと口を開いた。
『沙侑里は……、自分のことを、つまらないヤツだって思ってるんだね』
『どういう意味?』
『だから、そう訊いたんじゃないの? ちゃんと自分に自信を持ってたら、そんなくだらない質問、しようと思わないでしょ』
彼の顔に、僅かな蔑みの色がよぎった。この人は、自分ならそんな「くだらない質問」をするなんて、万が一にもありえないと思っているのだ。
『ゴウくんはいつもそうやって、一段高いところから、あたしに「正しいことを教えてやってる」って顔をするね。どうしてなの?』
反射的に、彼は苦笑した。
『そんな受け取り方をするなんて歪んでるよ。……鬱屈してる』
『ほら、また。ゴウくんはいつだって、あたしを「評価」する』
『感じたことを、そのまま伝えてるだけさ。評価だなんて……』
沙侑里はどこか冷静に、自分の感情のタガが外れてゆくのを感じていた。
『あたしのことに……、興味がないよね。あたしがどういう気持ちでそう訊いたのか。どんなことを考えているのか。それを知ろうとも、知りたいとも、思ってないよね』
『……それこそ、決めつけじゃないか』
ついに彼は、背中を向けてしまった。何度もその素肌に触れたはずの背中が、いまは途方もなく遠い。
自分の感情は、どうしてこんなにもぐちゃぐちゃなんだろう。
彼との対話が成り立たないから?
自分には、何かを変えるだけの力がないことが、本当は分かっているから?
欲しかった言葉を、もらえなかったから?
自分が持っていないものを、同年代の女友達が、次々と手に入れていくのを横目で見ていたから? それが、羨ましかったから?
……それが、妬ましかったから?
大切だと思っていた人に、自分の価値を認めてもらえないと、悟ったから?
彼の背中が小さくなってゆく。
音もなく、遠ざかってゆく。
沙侑里は身体をくの字に折り曲げて、強く両目を閉じた。
「どーしようもない……、『つまらない』あたしだからこそ、こうして花の清らかさを、引き立てることができるんだよ」
沙侑里はへたり込んだまま、かすみ草の花束を抱いて、くすくすと笑った。。
通行人がちらちらと視線を投げてくる。嫌な男に絡まれたら面倒なので、誰かと電話してるフリでもするか。沙侑里は億劫な気持ちで、スマホを取り出した。
「あの……、大丈夫っスか?」
目の前から声が降ってくる。やば、来るの早いんですけど。
沙侑里は慌ててスマホで一一〇番をタップしてから、通話ボタンに指を近づけたまま、声の主を見上げた。
「あ……、さっきの」
そこにいたのは、作務衣ではなく私服姿の、金髪おかっぱの彼だった。
「そこの自販機で買ったばかりなんですけど……、水、いります?」
冷えたペットボトルを差し出す彼からありがたく受け取ると、沙侑里はキャップを開けて水を飲んだ。意識が少し覚醒する。
「あ、ありがとう。優しいですね」
「店の外で酔っ払い……、あ、いや、お客さんとあんまり関わるなって、店長から言われてるんですけど……。こんな状態で放っておけないっていうか」
わざわざ言わなくても良いことまで正直に口にするその素直さに、むしろ感動しながら、沙侑里は苦笑した。
「言い直さなくても大丈夫なのに。ただの酔っ払いです。ごめんなさい」
沙侑里は申し訳なさと恥ずかしさから、気合いを入れて立ち上がった。その途端めまいに襲われ、倒れそうになる。金髪の彼が、とっさに抱えてくれた。
「っと。あっぶねぇ……」
「ご、ごめん! ホントにごめんなさい」
「……お姉さん、タクシーで帰ったほうがいいっスよ。駅まで送ります」
彼に支えられながら、沙侑里はふらつく足取りで歩き出した。
「なんかもう……。穴があったら入りたいんですけど」
「いいですよ別に。誰だって飲みたいとき、あるんじゃないスか? 知らないけど」
「……なんでそんなに、大人なの?」
「オレ、一九ですよ。酒飲んだことないです」
「えぇっ!」
先ほどとは種類の異なるめまいに襲われ、沙侑里の足取りがおぼつかなくなる。
「嘘でしょ!? あ、いや、ごめんなさい。なんか失礼だ」
「別に? 全然」
一五も歳下の彼に支えられて歩きながら、沙侑里は浅く息をついた。なにか喋っていないと、羞恥心でおかしくなりそうだ。
「お姉さん、お仕事なにしてるんスか?」
すると、金髪の彼がごく自然に、そう訊いてくれた。なんという気遣い、と沙侑里は驚きながら、勢い込んで答えた。
「保育士を、やってます」
「すごい。専門職ですね」
「……専門学校を出たあと、大きな認可園に就職したんだけどね。子どもとじっくり関われないのが嫌で、小規模保育園に転職したの」
「へぇ。自分なりの判断基準があるのって、すごいです。憧れます」
「……どんだけ褒め上手なの」
「いや、シンプルにすごいな、って思って」
彼の言葉には裏表がない。こちらも自然と、素直に言葉が出てくる。
「いまは一歳児の担任なんだけど、子どもの成長に向き合うのが楽しいんだ」
「やりがい、あるんですね」
「そうだねぇ。だから続いてるんだと思うし」
もうすぐ駅だ。それでも彼は急ぐことなく、こちらのペースに合わせて歩いてくれている。その優しさを感じながら、沙侑里は思わずこんなことを口にした。
「保育士って感情労働って言われるくらいだから、繊細な人が多いんだけど……。あたし、全く逆なんだ」
「逆、っていうと?」
「神経が図太くて、ドライでつまんないヤツってことかな。だからこそ職場で、どうしても浮いちゃうんだよね」
駅前に近づいてきた。
「みんな繊細で感情的だと大変そうだから、ドライな人も必要では?」
「ありがとう。……でも、本当はもっと、自分に合った場所や仕事があるのかもな、って、考えることもあるんだ」
考えるだけで、結局は現状維持を選んでいるのは自分なのだが。
今さら羞恥心もなにもない。沙侑里は勢いで言葉を連ねた。
「自分にはなにかを変える力も意気込みもないから……、なにか途方もない大きな力で世界が変わったら面白いのに、って思っちゃうんだよね」
つまらない自分が少しでも『面白く』なるかもしれないと思って、居酒屋で花を活けてみることしかできない自分のことが、惨めで哀れで、でも少しだけ愛しかった。
「……変かな?」
金髪の彼はしばらく黙っていたが、やがて神妙に頷いた。
「なんていうか……。分かりますよ。それ」
駅前ロータリーのタクシー乗り場が見えてくる。
「あの、今日は本当にありがとう。あたし、戸倉沙侑里といいます。……えっと」
「? ……あぁ、玲緒奈です。八澤玲緒奈」
「玲緒奈、くん。お礼にまた、お店行きます。今度は酔っ払わないようにするから」
玲緒奈は可笑しそうに吹き出した。
「居酒屋って、酔うために来るところじゃないの?」
「そ、そうだけどさ!」
支えてもらっていた手を離した途端、忘れていたはずの羞恥心が再び襲いかかってきた。沙侑里はそれを打ち消すために、ことさら大きな声でこう訊いた。
「あ、そうだ玲緒奈くん。こんな話、知ってますか?」




