食虫植物
*
「『六次の隔たり』か」
動きやすいトレーニングウェアに身を包んだ悦次は、職場であるフィットネスジムの控え室で、ひとり呟いた。
「本当にそんなこと、あるのかな。……あったら面白いけど」
先日、神保町で出会った車椅子の女性、伊純が別れ際に教えてくれたのだ。たった六ステップでこの世のあらゆる人に繋がるなんて、にわかには信じがたい。
椅子に座ったまま、悦次は壁の時計を見上げた。もうじき、インストラクターの仕事が始まる時間だ。
悦次は大きく息を吸うと、そっと両目を閉じた。
意識が浮かび上がり、まるで幽体離脱のように、空中から自分を俯瞰しているような感覚。意識が見下ろす自分はうなだれ、どこか寂しそうに背中を丸めている。
そうだ。寂しいのだ。
誰かと一緒にいても、ひとりきりのときも。悦次の心はいつでも、言いようのない寂しさに満たされている。
どうして、こんなにも寂しいのか。
悦次はいつも、それを考えている。
不意に、妻とふたりの子どもたちのことが頭に浮かんだ。自分にとって、なによりも大切な家族。それはたとえば神のような『なにか大きな力』の気まぐれによって、自分の人生に奇跡的に与えられたのだと思っている。
そして……。
神は気まぐれに与え、気まぐれに奪う。
可能性や未来を奪われる理不尽は、この世界にたしかに存在している。
この世界の隅々にある、特権や不平等、不幸や苦しみのイメージが、どこからか流れ込んでくる。自分にも特権があり、知らぬ間に誰かを傷つけているだろう。そのことが、耐え難いほどに苦しい。
どうして、これほどまでに心奪われるのだろう。
自分以外の多くの人は、そんな「どうしようもないこと」に、ここまで悩んだりしないということを、悦次は他者との触れ合いのなかで学んできた。
みんな自分の人生を生きるのに精一杯で、世界や、知らない誰かの不幸について考える余裕など、ないのだと言う。
「だったら、僕は……」
やはりどこかが、おかしいのかもしれない。
自分の人生、その喜びや悲しみを、どこか遠くに感じる。代わりに、この世界に存在する普遍的な理不尽に対して、激しい怒りを感じる。噴出したマグマが冷えて固まるように、悦次の怒りは持続しない。やがて、冷え冷えとした不安に取って変わる。それでもまた定期的に、世界や、神と呼ばれる存在への怒りが湧き出すのだ。
ひょっとすると自分は、自分の人生から逃げているだけなのだろうか。
そんな考えがよぎるのと同時に、なぜか先日出会った桜田伊純のことが、脳裏に浮かんだ。短い時間だったが、彼女は思い描く夢や目標について熱く語ってくれた。その姿を、とても眩しく感じたのだ。
「……ふぅ」
悦次はもう一度、大きく深呼吸をした。
そうだ。
自分は、怖いのだ。大切なものを失うのが、たまらなく怖い。
悦次は目を開いた。心は落ち着くどころか、不規則に揺れている。
肉体をいくら鍛えようとも、自分の内面から湧き出す恐怖を完全に克服することはできない。四十年以上生きてきて、ようやくそれが分かった。
失うのが怖いから。
今ある幸せが自分の手からこぼれ落ちることを、止めることはできないから。
悦次はいつでも明るく笑い、誰かに心からの愛情を注ぐことはない。
たとえそれが、なによりも大切な家族であっても。
「河原崎さんは、リーダーシップについて、どう思います?」
ジム利用者であり、自分のクライアントである大水翔一郎からそう尋ねられ、悦次は言い淀んだ。
翔一郎はレッグプレスのマシンから降りると、傍らのベンチに腰かけた。ハードなトレーニングを終えた直後でも涼し気な顔を崩さない、整った顔立ちの若者だ。
タオルで額の汗を拭きながら、こちらを見上げてくる翔一郎に、悦次は歯切れ悪く答えた。
「……今はあんまり、考えないかな」
その答えでは満足できないというように、翔一郎は身を乗り出してきた。
「またまたぁ。人生の先輩じゃないですか。仕事でいろいろ、経験あるんじゃないですか?」
悦次は頭を掻いて、困ったような顔で笑った。
「どうかな。個人プレーの仕事が多かったしな」
「でも、誰かとは一緒に働くじゃないですか? ここだってそうだし」
翔一郎はフロアをぐるりと見渡した。悦次以外のインストラクターが何人か、利用
者に指導したり、談笑したりしている。
「そうだけど、誰かが牽引してるって感じではないんだよね」
「ふぅん。ちょっとイメージしづらいなぁ。やっぱ組織には、強いリーダーシップが必要だと思うんですよね」
悦次は眉を少し動かして、翔一郎の続く言葉を待った。彼がなにかを語りたい顔をしていたからだ。
「メンバー全員が自律的に、目標に向けて最適解を自分の頭で考え行動できるチームが理想ですけど、そんなの、まぁ夢物語ですよね。……実際には、指示されないと何もできない人や、上の決定に文句ばかり言いながら自分じゃ代案すら出せない人、仕事の意図や目的を理解できない貧相な想像力しか持ち合わせていない人、現状や他者への不平不満ばかりで自分は何ら行動や変化を起こさない人、重箱の隅をつつくしか能がない潔癖症、物事の悲観的な側面を見つけ出すことで自分が優秀だと勘違いしてるイタい人……。足を引っ張るタイプは、枚挙にいとまがない。こんなどうしようもない人たちに任せてたら、チームが前に進むはずもありませんよ」
饒舌に語る翔一郎の顔は、活き活きとしている。
「まさに烏合の衆。これを巧みにまとめるのが、リーダーってわけです」
悦次はうんうんと頷いてから、訊いてみた。
「……でも、どうやって?」
「なんだかんだ言って、等しく彼らに響くのは、分かりやすい感情です。感情に訴えかけて、エンパワーメントするわけです」
翔一郎は言葉を切って、悦次の曖昧な表情を見てから、さらに得意げに続けた。
「個人の力って、限界があるじゃないですか。でもチームになれば多様性が生まれる。ひとりじゃできないことも、チームなら達成できる。強い感情で繋がり困難を乗り越えるチームって、とても人間らしくて、尊いと思いませんか? ……とまぁ、こういったストーリーで、案外人は前向きになったりするんですよ」
悦次は慎重に言葉を選んで、相槌を打った。
「翔くんは、そう思うんだね」
「俺、学生のときに生徒会長やってたんです。そのときの経験から導いた結論です」
翔一郎の顔には自信が満ち溢れている。
「チームをひとつにまとめるには、優秀なリーダーが必要ですよね。状況を俯瞰して的確な判断を下したり、メンバーのやる気を鼓舞したり。リーダーには多彩な能力が求められます。だからリーダーが無能だと、そのチームはたいした成果を出せない。でも見渡せば、世の中にはそんなリーダーや組織が溢れかえってると思うんですよ」
「リーダーを務める人は、大変だね」
すると翔一郎は、ニヒルに笑った。
「まぁ、その覚悟やスキルがない人間は、リーダーになれないって話ですよね」
「翔くんは、自信があるんだね」
「視野を広く持とうとは、心がけてます」
悦次は両腕を上に伸ばしてストレッチをしながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「リーダーは、ひとりだとは限らないと思うんだ」
「……どういう意味ですか?」
「トップに立つ人が強い力でチームを引っ張るだけじゃなくて、メンバーひとりひとりが、それぞれのやり方でリーダーシップを発揮して、チームを前に進める感じかな」
翔一郎は怪訝な顔をしてから、薄い笑みを浮かべた。
「へぇ。なんだか、いい感じには聞こえますけど……」
「組織って、建前に縛られたり、保身が優先されたり、するじゃない?」
悦次はあくまで、ゆったりと語る。
「そういったことを優先して、大切なことを見失ったら、組織は先細っていくと思うんだよね」
「大切なこと、っていうと?」
「率直に意見交換できる、多様性を認める、取るべきリスクを取る、機を逃さず挑戦する」
悦次は指折り数えながら、すらすらと答えた。そんな彼を、翔一郎は驚いた顔で見上げている。
「……」
「どれも当たり前にはできないことだけど、そういったことにチームのみんなが真摯に取り組めるようにする全ての振る舞いこそが、リーダーシップだと思うんだ」
遠い昔の会社員時代に感じたことを言葉にしてみただけだが、なんだかそれっぽくまとまった。悦次はひとり満足したが、翔一郎にはあまり響かなかったようだ。
「なるほど! 河原崎さんの人生訓、ためになりますね!」
「そう? それはよかった」
愛想笑いをして、悦次は再び始まった翔一郎のリーダーシップ論に耳を傾けた。彼に熱意があるのは分かるが、内容がちっとも頭に入ってこない。どうやら翔一郎の承認欲求は強く、自分の考えは無条件で他人とも共有できる、と信じているフシがあるようだ。悦次はどこか冷静に、そんな分析を下した。
ひとしきり話し終えて満足した様子で、翔一郎はトレーニングを再開し、最終セットに入った。ときおりアドバイスをしながらそれを最後まで見届ける。
トレーニングを終えてクールダウンしている翔一郎に向けて、悦次は無意識のうちに、こんなことを口走っていた。
「そういえば、こないだ知り合った人から聞いた話なんだけどね」
*
「『六次の隔たり』? だったっけ。なんか嘘くさいな」
デニム生地のエプロンを着け、白いシャツの袖をまくりあげた翔一郎は、紫陽花の鉢に水をやりながら、そうひとりごちた。
彼は、都市部に展開するフラワーショップの運営会社で働いている。本部企画職、正社員での採用だが、最初の数年はこうして現場である店舗で働くのが、会社のルールだ。
「そんなに世界は狭いかな?」
翔一郎は花や植物全般に興味があり、学生時代から花屋でアルバイトをしていた。そうではない同期たちと比べて、実店舗での仕事は慣れたものだ。それもあってか、ターミナル駅の大型通路にあるこの店舗でも、スタッフたちのリーダーといった役回りを自然と任されるようになっていた。
「大水さん、あの……。こ、この伝票の処理って、どうするんでした……、っけ?」
アルバイトとして働き初めて日の浅い中年女性のスタッフが、恐る恐る、といった様子で訊いてくる。いま店内に出ているのは翔一郎と彼女のふたりだけなので、やむにやまれず、ということだろう。翔一郎はレジ横の時計をちらりと見た。もうひとりの古株の女性アルバイトスタッフは休憩中だ。戻るまであと十分。なんとか休憩を回せそうだが、こんな有様では店内のオペレーションは甚だ不安だ。……まったく、完璧には程遠い。美しくない。ちっともスマートじゃない。
そんなことを一瞬の間に考えながら、彼は答えた。
「社内ポータルに今日、通知が出てたの、見てないんですか? システムのリプレースがあるので、移行期間中の限定マニュアルが公開されてましたよね」
「えっ……、と。すみません、見たような気もするんですけど、よく分からなくて」
しどろもどろになる女性スタッフの情けない表情を見て翔一郎は反射的に苛立ちを覚えたが、それを感情的に表出しないように、ぐっと抑える。意識的に口角を上げると、それはどこかニヒルな笑みとなって彼の顔を彩った。
「見るなら、ちゃんと理解するところまでやりましょう。でないと社内ポータルの意味がないですよ」
「はぁ……。すみません」
「別に謝ってもらいたいわけじゃなくて。スタッフ間の認識を揃えておかないと、属人的になったり、確認の手間がかかったりしますよね。教えるほうにもコストがかかる。それは効率的じゃない、っていう、単純な話です。分かりますか?」
「はい……。あ、わたし、あっちの作業が途中だったんだ。すみません」
女性スタッフは目を泳がせてそう言うと、そそくさと離れていった。その様子を見て、翔一郎は腰に手を当てて、大げさなため息をつく。後ろで、控え室のドアが開き、すぐに閉まる音が聞こえた。おおかた、彼女が休憩中の古株のスタッフのところに、愚痴でも言いにいったのだろう。
「……それが何になるのかねぇ」
そんなことをする暇があるなら、必死でマニュアルを読めばいい。小学生にだって分かるはずだ。自尊心だか何だか知らないが、くだらない感情に負けて非合理的な行動しかできない相手を見ていると、無性に苛立ってしまう。同じチームである以上、いつだってその『しわ寄せ』は、優秀で合理的な人間のほうへ押し付けられるのだ。
翔一郎はもう一度、大きなため息をついた。
その直後、ひとりの女性客が来店したので、翔一郎は自然な立ち居振る舞いを意識しながら姿勢を正して、満面の笑みで挨拶した。
「いらっしゃいませ」
浅葱色のブラウスを着た長い黒髪の女性は店内に入り、首を傾げるようにして小さくお辞儀をすると、冷蔵のショーケースに並ぶ花を眺めている。
「どんな花をお探しですか?」
翔一郎が話しかけると、女性はじっとこちらを見た。その黒い瞳に、引き込まれそうな不思議な輝きを宿している。
「なにか独特な……、面白いヤツを」
落ち着き払った外見からは想像もできないような答えが飛び出し、翔一郎は言い淀んだ。面白い花を探していると答えた客は、初めてだ。
「面白い。例えばどんな面白さ、のイメージですか?」
女性はしばし考え込んでから、ぽつりと答えた。
「……食虫植物とか?」
「申し訳ありません。ハエトリソウ、ウツボカズラ、モウセンゴケといったものは、当店には置いてなくて」
とっさに翔一郎が答えると、女性はくすりと笑った。
「……どうされました?」
「い、いえ。具体的な名前がいっぱい出てきたから。詳しいんですね」
翔一郎は焦って目を泳がせた。
「そうですか……。えと、好きなので」
「食虫植物が?」
「いえ。植物が、です」
女性は興味深そうに、翔一郎の顔をのぞき込んだ。
「どんなところが好きなんですか?」
翔一郎は言葉に詰まった。言いたいことはたくさんあって、なにから言葉にすれば良いのか分からなかったのだ。
「……いまの地球って」
「地球!? はい」
「人間もそうですけど、動物が……、植物よりも『強い』みたいなイメージ、ありませんか?」
女性は人差し指をあごに当てて、んー、と宙を見た。
「たしかに、そうかも。栄華を誇っている、っていうか?」
「食べたり、巣の材料に使ったり、栽培したり……。利用してますよね。でも、植物のほうがもっとしたたかに、動物を利用してるんです」
女性はふんふんと頷いて、続きを待っている。
「ハエトリソウみたいにダイレクトに昆虫を捕らえるものもあるし、匂いでおびき寄せたり、受粉の手伝いをさせたり、種子を遠くまで運ばせたり。動物は自分が利用されてるって気づいていないぶん、植物のほうが一枚上手だと思うんです」
「たしかに! 言われてみると、そうですね」
女性の反応に安心して、翔一郎は言葉を連ねた。
「植物は喋らないけど、虫害に遭った木が化学物質を利用して周囲の個体に伝えて、集団を守ることもあるそうです」
「そうなんですか? え、木が? めっちゃすごくないですか?」
「そもそも地球には植物のほうが先に誕生したし、植物がなければ、陸上動物は生まれませんでしたから」
さすがに喋りすぎたかもしれない、と翔一郎は反省し、そこで口をつぐんだ。
「すごいなー。お兄さん、本当に植物が好きなんですね」
女性は満足気に微笑んでいたが、ショーケースに向き直ると、ぱっと表情を明るくした。
「あっ。いいかも。これにします。これください」
彼女が指差したのは、小さな白い花だった。
「かすみ草ですね。ブーケにするなら、どの花と合わせますか?」
「いえ、これだけがいいです。かすみ草の花束にしてください」
「承知しました。では、少しお待ちください」
翔一郎は保存用バケツからかすみ草を取り出すと、カウンターの奥にある作業台でブーケを作り始めた。
引き立て役だと思われがちな花だが、好きな人も多い。この花だけのブーケを作ることも、決して珍しいわけではない。けれども、これを選んだときの女性の顔が、気になった。よくあるような「かわいい」「綺麗」といった感じではなくて……。
「こちら、プレゼント用ですか?」
いいえ、と彼女は首を横に振った。そうなることは分かっていたが、接客上、訊かないわけにもいかない。
客が花を『誰か』のために買うのか、それとも『自分』のために買うのか。いつしか翔一郎は、それが分かるようになった。表情や雰囲気などから、なんとなく感じ取れるのだ。
「おまたせしました。お会計、こちらでお願いします」
女性は手にしていたスマホをカウンターに置いて、バッグのなかから財布を取り出した。代金を支払い、花束を受け取ると、翔一郎に向けてにっこりと微笑む。
「お話、面白かったです。また聞かせてください」
「ありがとうございました」
去ってゆく女性の背中を見ながら、翔一郎は先ほど中断した思考をたぐり寄せた。
彼女があの花を選んだ理由が、もう少しで分かるような気がしたのだ。
そのとき、カウンターに置かれたスマホが目に入った。忘れ物だ。翔一郎はそれを掴むと、店内のスタッフに向けて、休憩に入りますと声をかけてから、女性客を追いかける。
数秒で、駅通路の雑踏を歩く彼女の背中が見えた。
「お客様、忘れ物です」
彼女は足を止め、振り向いて驚いた。翔一郎が差し出したスマホを受け取り、何度も礼を言ってから、花束を抱え直す。あと数秒、店を出て追いかけるのが遅ければ、確実に見失っていたところだ。
それもあって、翔一郎は勢いでこんなことを訊いた。
「あの……、どうして、その花を選ばれたんですか?」
女性は、意外そうな顔をした。
「どうして……? そうだなぁ。この花束を持ってる自分を想像して、ちょっとワクワクしたから、かな」
「……そうじゃないかな、って思ってました。失礼なこと訊いて、すみません」
「とんでもない。お兄さんみたいな面白い人がいるお花屋さん他に知らないから、また来ますね」
彼女から頂戴した言葉の意味を想像しながらも、翔一郎は言葉を続けた。
それは本当に、純粋な思いつきだった。
「面白いといえば、こんな話があるんですが……」




