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六次の隔たりのむこうに  作者: しんちゃん
3/7

蚊帳の外


   *


「『六次の隔たり』かぁ」

 喫茶店を出た桜田(さくらだ)伊純(いずみ)は車椅子のリムを掴んで、神保町の晴れた空を見上げた。

 銀色の箱を見せて説明してくれた男性は、蒼月慧というらしい。『無為不言』という個人書店の店長。伊純は別れ際に彼からもらった名刺を眺めてから、肩にかけた革のポーチにしまった。

「どうしてそんな実験をしようと思ったのかな……」

 最初に箱を慧の店に持ち込んだ老人のことを想って、伊純は呟いた。そして自分が、今やその実験の関係者になったという事実を改めて認識しながら、車椅子を進める。

「でもわたし、話す相手いないしな」

 交友関係は極めて狭く、かろうじて思い浮かぶのは担当編集者の顔くらいだ。彼に話したとて創作のネタとして話が流れ、この実験に真剣に向き合うとは思えない。

 大学生らしき賑やかな四、五人のグループが、伊純のすぐ横を追い抜いてゆく。

 明るく染めたミディアムボブの女子が、ちらりと伊純のことを見た。その一瞬の視線に、微かに憐憫の色がよぎった気がした。

 楽しそうに笑い合いながら、連れ立って地下鉄の駅へと向かう階段を降りていった彼らを見送って、伊純はさらに前に進む。

神保町駅の改札に行くためのエレベーターは、ここからかなり離れた場所にひとつしかないのだ。

「それにしても……」

 今日初めて会った、しかも喫茶店で偶然席が隣り合わせただけの男性から聞いた話を、ここまで真面目に考えている自分に気づいて、苦笑する。

「職業病? ちがうか。……こういうのを、世間知らずって言うのかもなぁ」

 自分はずっと『蚊帳の外』なのだ。喜怒哀楽に戸惑う他人を観察するのは興味深いが、自分はそちら側へ行けない。妙にリアルな確信がある。

 けれども伊純はときどき、分からなくなる。自分が水槽を覗き込んでいるというのは勘違いで、自分のほうが水槽のなかにいて、大勢の人たちから見られているだけなのではないか。

「だから……」

 だから世界は、こんなにも騒がしいのではないか。

 反射的に、両手で耳を強く塞ぎたくなる。

 苛立ちとも怒りともいえない、喉が詰まるような感情が、せり上がってくる。

 ……まただ。また、これだ。

 自分のなかから湧き出してきて、自分自身を飲み込んでしまいそうになる、得体の知れない怪物。

『ドウセ、ジブンハ、ダレカラモ……』

『ナンデ、ワタシダケ……』

 伊純はリムから手を離して止まると、両目をぎゅっと強く閉じる。

 そのとき、突然背後に誰かの気配がした。

 続いて、激しい衝撃に襲われた。無理やり引きずられるような強い力。上半身が前のめりになり、次の瞬間、世界が回転する。身体が痛みを覚える。道路の硬い感触が手に伝わる。自分が車椅子から転げ落ちたことに、ようやく気づいた。

 伊純は顔を上げた。視界に不自然な縦線が入っている。眼鏡のレンズにヒビが入ったのかもしれない。黒いキャップを被った男の背中が逃げてゆく。なにかを手に持っている。見慣れた革のポーチ。伊純はとっさに動いた手で自分の肩口をまさぐった。

「ひったくりです! つかまえて!」

 自分でも信じられないくらい、大きな声が出た。

 偶然通りかかった別の男性が気づいて、伊純が指差すほうを見た。

「黒いキャップの! 革のポーチを持ってます!」

 白いシャツのうえにカーキのブルゾンを羽織った男性が、風のように駆け出した。ひったくり犯にみるみる追いつき、背後から力強く取り押さえる。伊純は地面に伏したまま、その様子をまるで他人事のように眺めていた。


「怪我はなかったですか?」

 男性の手際は見事なものだった。

 犯人を組み伏せたままスマホで通報し、駆けつけた警官に引き渡した。そこから、自力で車椅子に戻った伊純に駆け寄り、身を案じてくれた。

「はい……。ちょっと手を擦りむいただけです……」

「これ、良かったら。あ、眼鏡、割れてるんじゃない?」

 財布から取り出した絆創膏をくれた男性が、心配そうに伊純の顔をのぞき込む。日に焼けた肌に、年相応の皺が刻まれている。大きな瞳を彩るように並んだ、綺麗な長いまつげ。四十代なかば、くらいだろうか。彫りが深く、古代ローマ彫刻のモチーフでも通用しそうだ。そして、白いシャツの下には、鍛え上げられた厚い胸板が隠れているのが分かった。

 瞬時にそんなことを観察して、伊純は自分の心拍数が上がっているのを感じた。

「だ、大丈夫です! 安物だし、スペアがあるんで」

 視力が悪い自分にとって眼鏡は生命線だ。伊純は車椅子の座面下にある収納ポケットから、スペアの眼鏡ケースを取り出した。正常な視界を取り戻したあとで、もらった絆創膏を手の傷に貼った。

 犯人はパトカーに乗せて連れて行かれ、残った警官から事情聴取を受けた。連絡先等を伝え、ふたりが解放されたのは小一時間後だった。

 伊純は返してもらった革のポーチを肩に掛け直し、改めて男性に向き直る。

「助けて頂いて、本当にありがとうございました。えっと、わたし、桜田伊純です」

「いえ、当然のことをしたまでです。……あ、僕は、河原崎(かわらざき)(えつ)()といいます」

 先ほどまでの事情聴取でお互い名前はなんとなく聞こえていたが、きちんと名乗り直したことで、少し気が楽になった。

「あの! なにかお礼をさせてくれませんか?」

伊純が勢い込んで言うと、悦次はきょとんとしたあとで優しそうな苦笑を浮かべた。

「気持ちだけ、もらっておきますよ」

「で、でも!」

 食い下がると、悦次はどこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「じゃあ、歩きながら……、桜田さんの話を聞かせてくれますか?」

「……わたしの?」

「そう。僕ね、若い人の話を聞くのが好きなんです。……あ、駅のほう、行きますか?」

「は、はい、神保町駅に」

「エレベーターがあるの、学士会館のほうですよね。じゃあ、こっちか」

 悦次は伊純をエスコートするように、静かに歩みを進める。がっしりとした体格ながら、その所作はどことなく上品さを感じさせる。

 伊純はゆっくりと車椅子を漕ぎながら、そんな彼の横顔をちらちらと見上げた。午後の日差しの眩しさに目を細めて、思いつくまま言葉を重ねてゆく。

 生まれつき不自由な脚のこと。艱難辛苦を共にしてきたこれまでの人生について。きちんと語るには時間も周囲の静けさも足りないが、要素だけでも伝わればと、伊純は言葉に熱を込めた。悦次は思慮深さの滲む相槌を打ちながら、真剣に耳を傾けてくれる。

「僕なんかには想像もできないような、苦労もされてきたんだ。すごいなぁ」

 ふた回りは歳上だろう彼の言葉には飾り気がなく、伊純の胸にすとんと落ちた。

「桜田さん、お仕事はなにをされているんですか?」

「……え?」

 伊純は驚いて車椅子を止めてしまい、遅れて悦次が止まってこちらを振り返る。

「どうしました?」

「いえ……、『仕事をしてる』前提で訊いてくれる人、ほとんどいないので」

「いま少し話してもらっただけで分かりますよ。自分の足で自分の人生をしっかり歩んでる人だ、って」

 またしても彼の言葉は、まっすぐに響いた。いまここには、言葉尻をあげつらう無粋な輩もいない。伊純は胸の内にどこか暖かさのようなものを感じながら、思うようにならない自分の脚を見下ろした。

「わたし……、漫画を描いてるんです」

途中で時間切れになってもいい、と思えた。だから、創作により糧を得る漫画家という仕事と、この先に描く夢や目標について、伊純は溢れる想いを言葉に乗せた。

 悦次は穏やかながら嬉しそうな顔で、話を聞いてくれた。

「抜群にかっこいいですね、桜田さん。尊敬します」

「や、そんな……。わたしなんて全然……。もっとすごい人、いっぱいですから」

 そのとき、神保町駅の入り口に着いてしまった。

 伊純は慌てて革のポーチを開けると、仕事用の名刺を取り出した。滅多に人に渡すことのないそれを悦次に手渡し、改めてお礼がしたいので、よければまた会いましょうと伝えた。

「ありがとう。怪我、お大事にしてください」

 この時間が終わってしまう。伊純はなにかを口にしようと焦った。そのとき、握り締めた名刺入れから、『無為不言』の店長からもらった名刺が、顔をのぞかせているのに気づいた。

「そ、そうだ! 河原崎さん、こんな話、知ってますか?」

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