19
飲み会に行ってから2日後の晩であった。
店の休憩時間である9時過ぎくらいにいつも陸から電話がかかってくるのだが昨晩は電話がなかった。今日も9時半近くになっているのだが、電話はない。
一人暮らしをしているので体調を崩して寝込んでいるのだろうか。
美鈴は陸の携帯に電話をしたが留守番電話にと変わってしまった。連絡が取れないとますます不安になる。
すでに寝間着に着替えていた服を脱ぐと外着に着替えマンションを出た。
陸の家は、美鈴が住んでいる駅から2つ隣の駅で10分ほど歩いた場所にあるワンルームマンションであった。駅のコンビニでちょっとしたデザートを買うと、うろ覚えながらも何とか着くことができたがすでに10時半も過ぎていた。陸の部屋の明かりは点いておらずインターフォンを押しても出ない。
「困ったなぁ」
携帯に電話をしてもやはり繋がらないのだ。店で仕事中なのかもしれない。迷った末、兼松に電話をして店の電話番号を教えてもらった。さすがに時間も遅いので兼松が心配して自分が連絡をすると言ってきたのだが慌てて断った。その後、店に電話をしたが陸は休みであった。
(バイクで出掛けただけかな…どうしよう)
すでに時刻は11時を過ぎていた。コンビニの袋を持つ手は冷えて赤くなっていた。
帰った方がいいとは思うのだが足は駅に向かわない。
(12時。12時まで待ってそれでも帰ってこなかったら帰る)
自分の中で決めると外で待っていた。しかし、12時過ぎても陸は帰ってこない。帰ろうと決めたはずなのに足はやはり駅には向かわない。握りしめていた携帯のバイブレーションに驚いて目を向けると兼松と表示されている。何かあったのだろうか。
「もしもしっ」
美鈴の慌てた声とは反対に兼松の声は静かであった。
『早瀬さんですか?兼松です』
「あ…はい」
何だか分からず、ドキドキして耳を傾ける。
『早瀬さん。帰る電車がなくなってしまったんじゃないんですか?
危ないですからもう帰った方がいいです。私が送りますから』
「え……」
美鈴は辺りを見回すと少し離れた場所に車が一台止まっているのが見えた。
車から1人の男性がおりてきて自分の方へ歩いてくるのが見えた。美鈴の携帯は耳から離れる。
「兼松さんっ、なんで…その…ここに?」
兼松は携帯をしまうと、いつもの厳しい表情が心持ち優しくなったように見えた。
「外からの電話のようでしたので気になって寄ってみたんです。今日は店の方が休みなので多分バイクで出掛けたのかもしれませんね。約束でもしていたんですか?」
兼松の顔を見ていた美鈴の顔は赤くなり下を向いた。
「いえっ。約束もしていなかったし別に何もないんです」
恥ずかしくて顔が上げられなかった。
「あの、連絡が取れなかったから風邪でも引いて寝込んでいるのかと思って来ただけで…その、恥ずかしいところを見られちゃったな。ストーカーみたいですね…」
そろそろと顔を上げると兼松の顔を伺う。
「その…兼松さんは、いつから彼処にいたんですか?」
「12時くらいですかね。まさかと思ったんですが、来てみてよかったです」
兼松は時計を見ながら言った。
「でもお節介でしたね。すみません」
「いえっ。あんな時間に電話をしたばっかりに本当にすみませんでした」
「いいえ、私は大丈夫です。それに陸も昨日はいつもどおりに店に出ていたらしいので大丈夫です。昔っから夜になると出歩く癖があるので困ったやつです」
兼松はそう言うと美鈴の肩に手を置き背を押した。
冷えた髪が手にあたり長い時間待っていたことが分かる。
「車に乗って下さい。家まで送ります」
「いえ!大丈夫です」
兼松の言葉に美鈴は兼松から離れると慌てて断った。
「駄目です。送るので乗って下さい」
兼松の強い口調と表情に美鈴はしぶしぶ頷いた。
兼松は途中自動販売機でミルクティーを買うと美鈴に渡した。
「…ありがとうございます」
車に乗りこむと兼松はすぐに発進させた。
道が空いている事もあり10分ほどでマンションに着いた。
「体をよく温めてから休んだ方がいいですよ」
降りる間際に兼松が言った言葉に美鈴は頷いた。
「ありがとうございます。…あの今日のこと」
兼松は運転席から美鈴の方に振り返る。
「陸には言わないで下さい」
「…いいですが」
美鈴は兼松の返事を聞いて小さく笑った。
「ありがとうございました。それにご馳走様です」
そう言うと車を降りマンションの前でお辞儀をすると中に入っていった。
「言わないでか…」
兼松は、マンションの入り口を見つめたままため息をついた。
「あら、みっちゃん鼻声ね。風邪をひいたの?」
パソコンの入力をしていた美鈴に高坂は話しかけてきた。
「ちょっと昼過ぎから鼻が出てきたかな?」
美鈴は机の中からマスクを探し出すとつける。高坂は美鈴の顔を見ていたが時計を見た。
「先週休み取ってなかったでしょう。今順番にとってもらっているから明日はみっちゃんがとって。その入力が終わったら上がっていいわよ。榊ちゃんも調子が悪いみたいで上がらせたのよ」
「あー、榊さんお子さんが風邪引いたって言ってたから移っちゃったのかな。看病疲れが出たのかもしれないね」
「ここ数日、急に寒くなったからね」
高坂はニコリと笑うと美鈴の肩をポンと叩いた。
「じゃあ、無理しちゃダメよ」
そう言うと行ってしまった。
高坂には本当にいつも感心させられた。部署のことも人のこともよく見ており把握している。一人一人に声をかけて全体の雰囲気をいつも上げているのだ。
そうこうしているうちに鼻がムズムズしてくしゃみが出た。どうやら本格的に自分が風邪をひいたらしい。
陸からはやはり何も連絡がなかった。
兼松は腕時計を見た。時刻は10時を回っている。
高野海人が店に行く時は一緒ではないのだが、今日店に来たのはやはり昨日の事が気になったからだ。店の裏手から陸の様子を見るとカウンターにいて女性客と話をしている。兼松が見ても呆れるくらいの仏頂面である。厨房にいたのか月島が奥から覗いている兼松に気がついて声をかけてきた。
「珍しいじゃないか、ここに来るなんて。海人さんのピアノでも聴きに来たのか?」
月島は笑いながら冗談を言うが兼松が見ていた方向を見る。
「ああ、陸の様子を見に来たのか」
笑うこともなく対応している陸に肩をすくめる。
「最近機嫌が悪いな。まあ、昔みたいに喋らないって事はないが愛想がないのはいかんよな」
「昨日と変わらないですか?」
兼松の問いかけに月島は兼松の顔を見る。
「何か変わるような事があったのか?」
「いえ」
兼松は口を閉ざす。追求した所で兼松は喋らない事が分かっていたので月島はそれ以上は聞かなかった。
「そろそろ休憩を取らせようと思ってた所だから代わってくるよ」
月島は、そう言うとカウンターの方へと行き陸に耳打ちした。陸が小さく頷くのが見え暫くして中へと入って来た。陸は兼松を見つけると驚いたようであった。
「珍しいね、ここに来るなんて」
休憩室に置いてあったペットボトルの水を飲むとポケットから携帯を出した。
動きが少し止まったがすぐにポケットにしまってしまった。その様子を見ていた兼松は思わず口にしてしまった。
「昨日連絡しましたか?」
陸は怪訝そうに兼松を見る。
「何の事言ってんの?」
兼松はさすがに黙っていられなかった。陸の様子からして昨日の事は何も知らない上に美鈴に連絡も入れてないのだろう。
「早瀬さんにです」
陸の表情は一変した。兼松を睨むように見る。
「何で兼松がそんな事聞くんだよ。また兄貴に何か言われた訳?」
「いいえ。海人さんは何も関係ありません。ただ昨日…」
兼松は言葉を止めた。美鈴と約束した事を破ってしまうが今の陸を見ていると黙ってはいられなかった。
「何だよ」
陸はイラついて兼松に問う。兼松は陸を見ると言った。
「昨晩、早瀬さんが心配してずっと外であなたの事を待っていました」
「昨晩?」
「連絡を入れたらしいのですが繋がらなかったらしいです。寝込んでいるのかと心配して家の方まで来て待ていたんです。私が見に言った時が12時頃だったのですが、体が冷えていたので随分と前から待っていたのかもしれません」
「何で兼松が知ってんだよ」
「私の方に店の番号を聞くために電話がかかってきたんです。外からだったので私も気になって店に聞いてからもしもと思ってマンションまで行ったんです」
陸の眉間にシワがよる。
「その後どうした?」
「12時過ぎても帰る様子がなかったので声をかけて送りました」
「そっか…」
ホッとした陸の表情に兼松は言った
「別れ際に早瀬さんは『行った事を言わないで』と言いましたが、黙ってはいられませんでした」
陸は兼松を見た。兼松はそう言う男であった。人情が熱く自分たちを放っておけなかったのであろう。
「そうだよな。ありがとう…」
「いいえ」
兼松は静かに首を振った。そして黙ってしまった陸を見た。
「ちょっとタイミングが悪かっただけです。それだけです」
そう言うと兼松は小さく頭を下げると休憩室から出て行った。
陸は携帯をポケットから出した。着信履歴の美鈴の文字を見ると親指でなぞるように押した。
眠っていたのだろうか、掠れた声が聞こえた。
「俺、陸だけど…大丈夫?」
「うん。ちょっと寝ていたから聞き取りずらい声だね。大丈夫だよ。陸は大丈夫?風邪引いてない?」
「俺は大丈夫…」
「そっか、よかった」
美鈴の安心した声を聞いていると何か切なくなる。
自分が強がっていた事を感じた。
「球根…」
「え?何?」
「チューリップの球根、買ったの覚えてる?」
突然話が変わり戸惑ったが、神奈川の家に置きっぱなしだった球根の事を思い出す。
「この間植えられなかったやつ?庭に置きっぱなしだったかな」
「植えてあげないと可哀想だよね…寒くなったし…」
「うん、そうだね。でも、どうしたの?急に…」
何かいつもと違う美鈴に不思議に思う。
「そうだね…ごめん。この間大場さんから電話があった時に思い出して気になっていたから…。ごめんね、今仕事中なんだよね。ありがとう電話くれて」
「いや…俺こそごめん。昨日も電話もらっていたのに」
「ううん、大丈夫だよ」
「美鈴ほんとに大丈夫?なんか変だよ」
掠れた上に声が少し震えているように聞こえたのだ。
「大丈夫だよ、ありがとう。また電話するから」
そう言うと電話は切れた。陸は携帯を見つめたまま動きが止まってしまった。
「全然大丈夫じゃなさそうじゃんかよ」
陸はポケットに携帯を突っ込むと時計を見た。




