11
元職場の先輩である滝竜一が妻子を連れて日本へ遊びに来たのは突然だった。
宿泊しているホテルにお土産を持って遊びに行くと妻のひとみと一歳になる娘のひなが美鈴を出迎えてくれた。
「竜一は暫く帰って来ないのよ。
まったくこんな時くらいはと思うんだけどね」
ひとみの話しぶりから仕事の用事で出掛けたらしい。
笑いながらミニキッチンでお茶を入れると娘の手が届かない棚の上に二人分置いた。
「ここに置いておくから飲んでね」
「ありがとうございます」
ひとみにお礼を言った美鈴はひなと一緒に床に座って遊んでいた。目がくりくりとしたひなにメロメロで離れられなかった。ひとみはそんな美鈴と娘に笑いながら自分のカップのお茶を手にした。
「色々おしゃべりするんだけど分からない事も多くて。聞き返すと怒ってしまって大変よ」
「そうなんだ」
床に広がっているおもちゃに夢中のひなを見ながら笑う。
「どこか遊びに行く予定はあるんですか?」
「そうね。ひながまだ小さいからそう遠くにも行けないしディズニーランドくらいかしら。
後は私の実家へ行く予定。今晩は桐生さんと会う約束をしてたから美鈴さんもって言ってたんだけど急な話で大丈夫だった?」
それは竜一から聞いており一緒に行く約束をしていた。
「大丈夫。でもひなちゃんは一緒なの?」
「ひなは、ベビーシッターに見てもらうから大丈夫よ」
「そっか」
少し眠くなってきたのか目をこすっているひなを見ながら美鈴は自分のお腹に触れてみた。
まだ服の上からは分からないが育っている命がここにもあるのだ。
「どうしたの?」
ひとみの声にハッとして顔を上げた。
美鈴の表情を見て何か感じ取ったのかひとみは穏やかな表情でたずねてきた。
「もし私でよければ聞くわよ」
美鈴にとって彼女は憧れの女性であった。自分を持っていて強くて優しい。
それに母親であるひとみはこれからの美鈴にとっても大先輩である。
そんなひとみに美鈴も素直に話し出した。
「実は私、今妊娠しているんです。相模の子供で今3か月ちょっとなんです」
「まあ、そうだったのね。竜一は知っているのかしら」
「いいえ。まだ話していないので知らないと思います。先日、怜と裕助には話したんだけど産むことにはあまり賛成じゃないみたいでよく考えろって言われたんです」
「そう…」
遊び疲れて床で眠ってしまった娘を抱き上げながらひとみは美鈴を見た。
「あなたはどうしたい?相模さんの子供を産みたい?抱きしめたい?」
ひとみに抱き上げられたひなを見ながら美鈴は頷いた。
「産みたいし抱きしめたい。朗と私の繋がりを断ちたくない…」
ひなをベビーベットに寝かせるとひとみは美鈴の横に座った。
「でもね。でも、私一人で本当に生んで育てられるのか幸せにしてあげられるのか不安でもあるんです」
ひとみは頷くと美鈴をきゅっと抱きしめてくれた。
「分かるわ。私には竜一がいてくれたけどやっぱり不安もあったもの。初めてのお産は特にそうよね」
ひとみの気さくな人柄に美鈴は安心しながら話を続けた。
「それから私、ちゃんと答えを出さないといけない人がいて…」
ひとみは首を少し傾けた。
「もしかして美鈴さんのことを好いてくれてる人?」
「裕助がいなくなって精神的に不安定になっていた時も傍にいてくれたんです。でも私はずっと友達として付き合っていたんです。この間、その人が私と赤ちゃんを守る、一緒にいるって言ってくれたんだけど、やっぱり私は友達としか見れていないと思う。でも返事をして今の関係が壊れたら嫌だとも思っている。相手の思いも受け止められないのに離れて行って欲しくないなんて、とってもずるいし辛い思いをさせています。早くちゃんと返事をしないと駄目ですよね」
ひとみは小さく笑う。
「美鈴さん、女って現実的でずるいものよ。
その人はすぐに答えが欲しいって言っているの?」
美鈴は首を振った。陸は知ってもらいたいと言ったのだ。
そして逃げるように出て行ってしまったのだ。
「だったらちょっと待ってもらってもいいんじゃないかしら。
今美鈴さんが一番に考えるのはあなたの身体と赤ちゃんの事でしょう。赤ちゃんを産む環境が整えば心も落ち着いてくると思うの。だから今ある心配事をひとつずつ解決していきましょう。赤ちゃんは、皆に祝福されて生まれてきて欲しいしママにも幸せでいて欲しいじゃない。私もママの先輩として協力させて」
ひとみの視線は美鈴からいつの間に帰ってきたのか部屋の入り口に立っている竜一にと移った。
「じゃあ俺は、兄として協力させてもらおうかな」
竜一は二人の方へ歩いてくると二人を抱きしめた。
美鈴が自分のマンションに戻ってきたのは、次の日の夜であった。
前の晩は、桐生たちと一緒に夕食をとり、ひとみに勧められるままに泊ってしまった。
そして今日はディズニーランドで一緒に過ごしてから帰ってきたのだ。
時間もまだ8時前だったので駅からのんびりと歩いて帰ってきたのだが、マンションの前に陸が立っていることに気がついた。
「陸っ、どうしたの?何かあった?」
陸は乗ってきた自分のバイクに寄り掛かっていたが、美鈴の方へと歩いてくる。
「連絡したけど返事がないから気になって来ただけ」
「ごめんっ、携帯全然見ていなかった」
美鈴は鞄から慌てて携帯を出すとマナーモードになっていた。
陸からの着信が何度もあり、心配して何度もかけてくれたのであろう。
「心配かけてごめんね。
仕事で一緒だった先輩の家族と会っていて今帰って来たところだったんだ」
「そう」
陸の声のトーンは低く不機嫌なのが十分に分かる。そして美鈴が気まずく思うのは、内緒で店に行ったからだ。ポケットに手を突っ込んだまま黙っていた陸はため息をついた。
「なぁ、この間店に来てただろう」
まるで美鈴の心の中を覗いたかの言葉に美鈴は返事ができず陸の顔を見た。
陸はポケットから右手を出すと美鈴の前髪を掻き上げた。驚いて身を引いた美鈴から手を離す。
「俺、髪型が変わっても化粧してても美鈴の事分かるよ」
陸の声が苛立っている。
「俺がいるって知ってたんだよね。何で声かけてくれなかったの?
男と一緒で化粧して楽しそうにおしゃべりしてどうしたかったの?」
「あのっ…」
言葉が出てこない。
マスターと一緒に陸の様子を見に行ったんだと言えばいいだけなのだ。
しかし、陸にとって面白くない事には変わらない。
「あのさ。分かっていたけど美鈴は俺の事『男』として見てないよね。『友達』とかそんなもんだろ」
陸の鋭い瞳が美鈴を見つめる。
「それでもいいって言ったかもしれない。けど俺、そんな大人じゃない。嫌なんだよ、そんなの」
突然、美鈴の手をつかむとバイクへ行きヘルメットを取り出し美鈴にかぶせた。そして自分のヘルメットをかぶりバイクのエンジンをかけた。
「乗って」
「でも…」
美鈴の戸惑った声に陸は更に強く言う。
「乗って!」
陸の強い声に負けて美鈴は後ろに乗る。
「つかまって」
どこにつかまったらよいのか分からず、陸のズボンのベルト辺りを掴むとバイクは動き出した。
何も言わず陸はバイクを走らせる。美鈴は陸の腰にしがみつくように乗っているしかなかった。
どれくらい走っただろうか。
陸がバイクを止め美鈴に声を掛けた時やっと辺りを見る事ができた。
ヘルメットを取ると風がふわりと髪を揺らす。
そこは小さな公園の駐車場で少し離れた場所には大きな倉庫らしき建物が幾つも見えた。
陸は美鈴の手を取ると前にある階段を登って行く。上に東屋があり開けた景色が目の前に広がった。
海だ。
暗い夜の海には動いているのか止まっているのか船の明かりらしき光が見えた。
辺りは静かで人の気配はない。時々風の音で草や木がすれる音が聞こえた。
陸は手すりを掴むと海を見ながら言った。
「いい眺めだろう。夜走ってて見つけたんだ。誰も来ないし静かで、なんか気持ちが落ち着くんだよな」
先程の苛立った声とは違い、いつもの陸に戻っていた。
美鈴も同じように手すりに掴まって海を見た。
「ごめん。怖かったよな。美鈴がずっとしがみついているのが分かった」
「…バイクも陸も怖かった」
素直に言った言葉に陸は苦笑いした。
「そうだよな。俺も怖かったよな」
そう言うと陸は掴まっていた手すりに頭を乗せた。
「俺、こんな心の狭い男だなんて自分でも思わなかった。すげぇ、サイアク」
陸はため息をつくと頭を掻く。
「どうせ兄貴に何か言われたんだろう。一緒にいた男と兄貴が話してたし俺が相談した後だったもんな」
陸は勘もいい。嘘をつくことなんて出来なかった。
「一緒にいた男の人はマスターだよ。陸が店で頑張っているから一緒に見に行こうって誘われたんだ」
「マジかよ…全然別人じゃん」
陸は大きくため息をついて顔を渋くさせた。
「でも何で化けてた訳?」
「………私に教えてくれなかったから、知られたくないのかと思って」
「ふーん。で、高坂さんにでもしてもらったんだ」
「…そう」
「髪型はいいかもしれないけどあの濃い化粧はちょっとなぁ…。
それに服だって胸出しすぎだろう。マスターなんていいオヤジなんだからさ」
陸は口を尖らしながら愚痴を言う。少し距離があったのだが陸の方も自分たちの事を見ていたのだ。
「知られたくないって訳じゃないんだけど、やっぱり兄貴の店だから甘えているトコもあって言えなかった。それに知っているヤツが来たら集中できなくなってしまうし…」
「マスターは褒めてたよ。カクテルも可愛くて美味しかったし」
陸は口を尖らせてふてくされたように言う。
「そりゃあ、美鈴をイメージして作ったカクテルだもんなぁ」
陸の言葉に美鈴の顔は赤くなる。
そして自分のしたことが恥ずかしくなった。内緒で覗き見なんて誰だって嫌に決まっている。
「あの…ごめんね。変なことして。あと、陸にもらった言葉やっぱりちゃんと返事しないと」
陸は美鈴を見てから前を再び向いた。
「返事は、まだ保留にして欲しいんだ。さっきはちょっと苛立って言ったけど、やっぱり全然駄目だよな。
きっと美鈴を守るどころか傷つけてしまうと思う」
「そ、そんな事っ、わたし…」
「だから、ちょっと待って、って」
美鈴の言葉を慌てて止めると陸は少し言いにくそうに言葉を続けた。
「返事は待ってなんだけど、ちょっとお願いはある」
思いがけない言葉に陸を見上げる。
陸は手すりに掴まったまま何も言わず自分の事をじっと見つめている。いつもと違う陸に美鈴は落ち着かず戸惑った。陸は手すりを離すと美鈴の方へ歩いてきた。美鈴の足が一歩後ろに下がりかけたところで陸の手が腕を掴んでいた。そして抱きしめられていた。顔を上げようとしたが陸の腕に力が入っており動くことが出来ない。しかし、すぐに陸の腕の力が弱まり美鈴を離した。何も言わず黙っている陸は、自分の中に何かをしまい込んでいるように見えた。自分の中途半端な気持が陸を苦しめているのだ。
「ごめんな。行こうか」
陸は顔を上げるといつもの調子で言った。
(私の方がごめんなさいなのに…)
こんな自分に美鈴は凹んでしまう。一体いつになったら自分の事も好きになれるのであろうか。
階段を下りてバイクが置いてある駐車場まで来ると陸はぽつりと言った。
「店さ、もうちょっと俺がマシになったら呼ぶから、その時は来て」
「うん。連絡待っている」
美鈴の言葉に陸は少し間を置いてから変な顔をして尋ねる。
「それまで連絡しないとか、会わないとかの意味じゃないけど分かっているよね」
凹んでいたが、さすがに美鈴も陸の表情と問いかけに笑ってしまった。
陸もつられるように笑う。
静かな駐車場に再びバイクのエンジン音が響きその音は夜の闇に消えて行った。




