第6話「偽勇者と、月下の逃亡」
夜の冷たい空気が、街を包んでいた。
石畳の大通りには、異様な緊張が漂っている。
教会の聖印を掲げた十二名の聖騎士たちが、一人の青年の前に跪いていた。
その向かいに立つマサヒコは、顔の右半分を月明かりに照らされ、左半分を深い影に沈めている。
頬には、一筋の冷や汗が伝っていた。
だが、彼は表情を動かさない。
動揺を必死に押し殺していた。
突然現れた聖騎士団。
そして、その聖騎士たちが一人の若者に跪いているという異常な光景。
それに気づいた民間人たちが、遠巻きに少しずつ集まり始めていた。
人々のざわめきが、波のように広がっていく。
(……俺が、生贄)
先ほど『鑑定眼Lv4』が暴き出した、絶望的な真実。
だが、マサヒコは感情を一瞬で冷やしきった。
顔には、隙のない完璧な『営業スマイル』を貼り付けている。
そして、わざとらしいほど丁寧に、胸に右手を当てて頭を下げた。
「なんだなんだ?」
「聖騎士様たちだ……」
「囲まれてるの、勇者様だって……」
周囲の民衆がひそひそと囁き合う。
その中で、マサヒコはよく通る声で口を開いた。
ただし、その声には少し申し訳なさそうな響きを混ぜている。
「お見苦しいところをお見せしました。あまりに突然の大任に、少々当てられてしまったようです。恥じ入るばかりです」
従順さと謙遜を装った態度。
それを見て、騎士小隊長は納得したように深く頷いた。
「なるほど。無理もありません。さあ、教会への馬車をご用意しております。参りましょう」
「ええ。……と、すぐさま申し上げたいのですが」
マサヒコは口元にかすかな苦笑を浮かべ、少し言葉を濁した。
「実は現在、冒険者ギルドから民を脅かす魔物の『討伐依頼』を個人的に受けておりまして」
「討伐依頼、ですか?」
マサヒコはまっすぐな表情を作った。
まるで、正義を背負う勇者のような顔だった。
その声は、騎士だけでなく、周囲の民衆にもはっきり届くように計算されている。
「はい。使命の前に、まずは目の前の民や、世話になったギルドとの『小さな約束』を果たさせてください。それが、勇者としての私の矜持なのです」
その言葉は、民衆の心に火をつけた。
「さすが勇者様……!」
「私たちを思ってくださるなんて……!」
民衆の間に、感動したようなざわめきが広がっていく。
だが、マサヒコの内心は冷えきっていた。
前髪の隙間からのぞくオッドアイには、暗い計算の光だけが宿っている。
(こいつらは「正義」や「美談」に弱いはずだ。民衆の目の前でそれを主張すれば、なおさら無下にはできないはず。大義名分を盾にして、とにかくここを離れるための時間を稼ぐ!)
マサヒコの正論。
そして、勇者様を応援する民衆の視線。
それらが、小隊長へ見えない圧力となってのしかかった。
「教会も、民を大事にする勇者様の邪魔はしないだろ?」
「そうだ、そうだ」
民衆の声が大きくなる。
小隊長は一瞬だけ戸惑い、わずかに周囲へ視線を動かした。
短い沈黙が落ちる。
「……なんと慈悲深い。そのお心掛け、感服いたします。ですが勇者殿。我々も百年、この時を待ちわびておりました。長き猶予は与えられません」
「わかっています」
民衆という味方を得たマサヒコは、焦りを見せずに交渉を進める。
「キリの良いところまで終わらせるため、数日だけで構いま――」
「お待ちできるのは『明日の正午』までです」
マサヒコの言葉を遮り、小隊長が一歩踏み出した。
その瞬間、小隊長の全身から強い圧が放たれる。
周囲の民間人たちは怯え、ざわめきがぴたりと止まった。
水を打ったような静けさの中、小隊長の目が鋭く光る。
獲物を絶対に逃がさない。
そんな執念が、その瞳に宿っていた。
「それが限界です。明日の昼、必ずやお迎えにあがります。……必ず、です」
重苦しい空気が広がる。
民衆も固唾を呑んで見守る中、マサヒコは小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……感謝いたします。では、明日」
交渉は終わった。
小隊長は何も言わず、背を向けた。
それに続き、十二名の聖騎士たちも乱れのない動きで反転した。
カシャリ、カシャリと金属の足音を立てながら去っていく騎士たち。
民衆は息を呑み、左右へ道を開けた。
*
大通りの騒ぎから離れた、静かな路地裏。
その暗がりに滑り込むと、マサヒコは壁に背を預けた。
片手で顔を覆い、大きく長く息を吐く。
張り付いていた営業スマイルが、溶けるように消えた。
「明日の昼? ……冗談じゃない」
低い声が、路地の暗がりに落ちる。
夜が明けて明るくなれば、教会の数の力から逃げるのは難しくなる。
あの小隊長の圧は、明日の正午を過ぎれば力ずくでも連れていくという合図だった。
顔を覆った指の隙間から、オッドアイが獣のように光る。
マサヒコは、すぐに決断した。
(今夜中にこの街を出て、北の山を越える)
*
満月の夜更け。
静まり返った深夜の街を抜け、マサヒコは都市を囲む巨大な城壁の元へたどり着いた。
重い石造りの壁は高くそびえている。
普通なら、よじ登ることすら難しい。
だが、今のマサヒコには多くのスキルがあった。
「シャドウハイド」
小声で唱えると、足元の影が不自然に膨らんだ。
黒いもやとなり、マサヒコの全身にまとわりつく。
闇魔法による隠密効果だ。
(闇魔法で姿と気配を溶かし込めば、壁上の衛兵の目も容易く欺ける!)
マサヒコは深く膝を曲げた。
そして、強化された脚力で地面を蹴る。
音もなく空中へ舞い上がる黒い影。
マサヒコは巨大な城壁を軽々と跳び越え、月を背にして壁の外へ飛び出した。
ザッ!
城壁の外側の荒れた大地に着地する。
ブーツが地面を叩き、土煙が舞った。
ほんの一瞬だけ体勢を整えると、マサヒコは再び地面を蹴った。
北に連なる険しい山脈へ向かって走り出す。
「よし、街からの脱出成功だ。一刻も早く教会の影響圏外へ抜ける」
振り返ることなく、マサヒコの背中は荒野の奥へ消えていった。
*
マサヒコが城壁を越え、荒野の闇に消えた直後。
城壁の上の暗がりで、石の壁に落ちていた濃い影がゆっくり動いた。
その影の中から、深いフードを被った男が、溶け出すように姿を現す。
教会の暗部を担う『間者』だった。
間者は懐から、丸い機械のような通信用魔導具を取り出した。
魔導具が赤く光って起動する。
「……対象が城壁を越え、街から逃亡しました。方角は北の山岳ルート」
フードで顔の上半分を隠した間者は、感情のない声で報告した。
その視線の先には、マサヒコが向かった北の山脈がそびえている。
「これより対象の追跡を開始し、現在地の報告を続行します――」
通信を終えると、間者は再び地面の影へ沈み込んだ。
音もなく、闇の中へ消えていく。
*
冷たい月光を浴びる、聖地ティティーリア教会。
その奥にある大広間では、激しい怒りが渦巻いていた。
ガンッ!!
大きな音が響く。
報告を受けた大司教が、怒りで顔を歪めながら、通信機を机に叩きつけたのだ。
こめかみには、太い血管が浮かび上がっている。
「おのれ……! この世界の尊い礎となる無上の栄誉を蹴り、己のちっぽけな命惜しさに逃げ出すとは!」
大司教は机から身を乗り出し、天にいる女神へ訴えるように両手を広げた。
「そのような利己的で卑小な者が、女神様の導いた『勇者』であるはずがない!」
その言葉に応じるように、部屋の隅に控えていた昼間の騎士小隊長が、一歩前へ出た。
「……偽勇者、ということですか」
「ええ! 奴は女神様のご意向に反旗を翻す『偽勇者』です!」
大司教は血走った目を見開いた。
そして、机の上に置かれていたマサヒコの似顔絵を掴み取る。
憎々しげに、グシャリと握り潰した。
「あの肉体と魂は、邪神を封じるためのただの『器』! 中身の卑しい意志など、我々には一切不要!」
大司教は小隊長へ指を突きつける。
狂気を含んだ勢いで、追撃を命じた。
「今動かせる聖騎士をすべて動員し、直ちに追撃しなさい! 奴を捕縛し、引きずってでも地下の祭壇へ連行するのです!」
さらに、残酷な命令を吐き出す。
「手足の二、三本切り落としても構いません! 魂さえ残っていれば、儀式には事足りるのですから!」
その非情な命令に、小隊長と、室内に控えていた三十数名の騎士たちは一切ためらわなかった。
彼らは一斉に片膝をつき、剣の柄を強く叩いて敬礼する。
小隊長の顔に、迷いはない。
あるのは揺るぎない使命感と、偽勇者を裁くという冷たい決意だけだった。
「御意。大義に背いた愚か者に、裁きを下しましょう」
*
はるか下に、街の灯りが小さく見える。
北の山の森の中。
マサヒコは木々の根を蹴り、険しい山道を走っていた。
息は荒い。
だが、足は止めない。
(くそっ、レベルアップと戦力強化を優先するあまり、この世界の情勢や教会の情報収集を完全に怠った。)
彼は深く反省しながらも、足を止めることはない。
(身体強化のスキルがあるとはいえ、この急斜面を無尽蔵に全力疾走できるわけじゃない。だが、このまま森を抜けて山頂を越えれば、いずれ教会の管轄外である隣国へと出られるはずだ)
マサヒコが希望的観測と共に脱出ルートを計算している最中。
彼が走る山道の背後。
太い木の枝に、影と同化した教会の間者がいた。
逃げるマサヒコの姿を、静かに見下ろしている。
マサヒコは、自分へ向けられている監視の目には、気づいていない。
間者は音もなく木から降りた。
森の斜面を、マサヒコを追うように走りながら、通信機へ口を寄せる。
「……対象は現在、北の山、中腹の森を移動中。これより詳細な座標を――」
間者が本隊へ情報を送ろうとした、まさにその時だった。
彼の背後の影が、不自然に揺れた。
ズバァッ!!
暗闇の中から、音もなく伸びた短剣の刃が、間者の首を一瞬で斬り飛ばした。
血が、月明かりの下で赤黒く飛び散る。
首を失った間者の手から、通信機が落ちた。
それは落ち葉の上を転がっていく。
崩れ落ちる死体の背後。
月光を浴びて、美しい女性の影が浮かび上がった。
彼女は両手に持った短剣を軽く振り、刃についた血を払う。
「これ以上の報告はさせない。鬱陶しいハエめ」
感情の読めない、氷のように冷たい目。
間者を排除した女は、遠く前方で何も知らずに走り続けるマサヒコの背中を、静かに見つめた。




