第35話「女神の神託と、奪われた国土」
煙が立ち込める職人街の路地から、馬車は整った貴族街へと進んでいった。
泥臭い工房の並ぶ通りから、石畳の道と美しい建物が並ぶ区画へ。景色が少しずつ変わっていく。
やがて、巨大で格式高い辺境伯王都邸の門が見えてきた。門前には、辺境軍の精鋭騎士たちが微動だにせず並んでいる。その姿だけで、ただの貴族屋敷ではないと分かるほどの威圧感があった。
鍛冶屋での用件を終え、ヴォルたちは本来の目的地へと到着した。
*
辺境伯王都邸の応接室。
重厚な家具。壁に飾られた巨大な王国領土の地図。そして、ルワール王国の紋章旗。
部屋の中央では、すでに王城での秘密裏の報告を終えたディーン辺境伯が立って待っていた。
「よく来られました、ヴォル殿。ネネ殿」
落ち着いた声。そして、隙のない貴族の表情。
ヴォルは、これまでティカに見せていた無礼気味な態度とはまるで違う顔を見せた。
貴族を相手にするための完璧な礼。腹の中を一切見せない、好青年のような営業スマイル。
「お待たせして申し訳ありません、辺境伯閣下。先に、今後の交渉に必要な準備を整えておりました」
あまりの変わり身に、ティカは今にも何か言いたげに目を見開いていた。
辺境伯は、ヴォルのその態度に、わずかに興味を示すように目を細めた。この若者は、相手と場に応じて態度を使い分けられる。それを一瞬で見抜いたのだ。
ヴォルの斜め後ろには、ネネが静かに立っていた。だが、その立ち姿には、魔族としての威厳がある。
「世話になる」
「こちらこそ、無用な不快を与えぬよう努めましょう」
辺境伯は、魔族であるネネに対しても礼を崩さなかった。国賓として扱う。その態度を、はっきりと示していた。
ドサッ。
ティカが前に出て、大量の報告書の束を分厚いテーブルの上に置いた。
「辺境伯様、先に目を通していただきたい報告が」
辺境伯は、書類の最初の一枚に目を通した。その瞬間、手がピタッと止まる。
静かな反応だった。だが、目にははっきりとした驚きが走っていた。熟練の貴族の表情が、ほんのわずかに崩れる。
「……旧坑道型ダンジョン攻略。ミスリル採掘再開の可能性……。王城での報告内容を、早くも修正せねばならぬようですな」
*
辺境伯が重厚なソファに座り、向かいにヴォルが座った。ネネはヴォルの横。ティカは少し後ろに控える。
応接室の空気が、歓迎の場から、腹の探り合いの場へと変わった。
「では、まず確認させていただきたい」
辺境伯は両手を組み、ヴォルを真っ直ぐ見た。そして、いきなり本題を突く。
「ヴォル殿。貴殿は、勇者である。そう見て相違ありませんかな」
ネネの目元がピクッと動いた。
だが、ヴォルはまったく動揺しなかった。穏やかで隙のない営業スマイルを崩さないまま、静かに答える。
「ええ。少なくとも、この世界で“勇者”と呼ばれる条件は満たしているようです」
勇者という言葉と、この世界という言い方を聞き、辺境伯は沈黙した。
ヴォルの言い方の意味を探っている。認めているようで、どこか他人事のようでもある。まるで、勇者という立場そのものと距離を置いているような答え方だった。
ヴォルは軽く手を組んだ。そして、辺境伯の考えをさえぎるように、先に話を進める。
「ただし、こちらの事情をお話しする前に。先に、この世界の歴史を聞かせていただきたい」
辺境伯はヴォルを見た。
この男は、ただ守られるために来たわけではない。そう判断したのか、静かに頷く。
「よろしい。何を知りたいですかな」
「王国と魔族の関係を」
辺境伯は、窓の外に広がる王都の平和な景色を見た。
「五百年前、魔王軍が攻めてきて、大きな大戦があったと文献にはあります。現在、王国と魔族は停戦状態にあり、表立った大戦は数百年起きておりません」
壁に飾られた地図。
ルワール王国領。魔族領。そして、その間に引かれた太い国境線。そこには、無数の軍事拠点のピンが刺さっていた。
「ただし、互いに警戒を解いたわけではない」
「ネネ。魔族側ではどう伝わっている」
ヴォルが横のネネを見る。
ネネは人間の貴族の前でも怯まなかった。淡々と、魔族側に伝わる話を口にする。
「私が前魔王様より聞いた話では、少し違う。この王国の一部は、元々魔族領だった。人族によって大きく奪われ、前魔王様はそれを取り返そうとした。それが、五百年前の大戦だ」
辺境伯の表情が少し硬くなった。自国にとって都合の悪い歴史を突きつけられたのだ。
応接室に、短い沈黙が落ちる。
王国の文献と、魔族の伝承。二つの歴史は、まったく違っていた。
「王国の文献では侵略。魔族の伝承では奪還」
ヴォルはどちらの味方をするでもなく、冷静にまとめた。そして、少し皮肉げに目を細める。
「歴史には、書いた側の都合が出ますね」
辺境伯は無言でヴォルの目を見返した。否定はしない。だが、貴族として簡単に認めることもしない。そんな沈黙だった。
ヴォルは軽く手を広げ、次の話題へ移った。
「次に、聖教国について教えてください」
辺境伯の表情が、さらに渋くなった。
「聖教国の土地は、元々ルワール王国領でした。五百年前、女神の神託により、その地を初代教皇へ譲ることとなった」
「王国は、神託だけで国土を渡したのですか」
辺境伯は、屈辱を押し殺すように横を向いた。
「当時、それを拒める者はいなかったのでしょう。女神の名と、邪神封印の絶対的な功績を前にすれば」
辺境伯はすぐに表情を戻した。貴族としての態度を崩さず、話を続ける。
「以来、王国と聖教国は表向き協調しております。ですが、よく思わぬ者は少なくありません」
(使えるな)
ヴォルは、その言葉の裏にあるものを拾った。
王国の中にも、聖教国への反発がある。その事実に、ヴォルのオッドアイが怪しく光る。また何か黒い考えを巡らせ始めたことを、隣のネネはある程度察していた。
「では、ヴォル殿」
辺境伯は身を乗り出した。
いよいよ本題に入る。
「貴殿はなぜ、聖教国ではなく王国へ来られたのですか?」
*
ヴォルが静かに頷いた。
その瞬間、彼が貼り付けていた営業スマイルが完全に消えた。表情の温度が、すっと下がる。
膝の上で、指を固く組む。
応接室が、重い沈黙に包まれた。
辺境伯は、ヴォルが何を考えているのか探るように、じっと見ていた。
息を呑むような緊張感が流れた。
ヴォルは、暗い怒りと冷たさが混じった顔で、最も重い真実を口にした。
「それは……勇者というのが、邪神を封印するための生贄だったからです」




