第22話「百年前の亡霊」
夜明け前の聖地ティティーリア教会は、静まり返っていた。巨大な教会の中で、大司教の執務室だけが異様な緊張感に包まれている。
豪華な彫刻が施された執務机の上には、丸型の通信魔道具が置かれていた。その魔道具が、淡い赤い光を点滅させている。
ジジ……ジジ……。
無機質な魔力ノイズが、かすかに響く。その中から、男の声が聞こえてきた。
「――ガドの戦死、及び……勇者の確保に失敗しました……。『真面目』な報告は以上です」
ピキッ。
執務室の空気が、一瞬で凍りついた。通信を聞いていた大司教の額に、くっきりと青筋が浮かび上がる。
「……今、なんと言いましたか?」
低く、震えるような声が漏れた。
次の瞬間。
バンッ!!
大司教が激怒し、両手で執務机を叩きつけた。あまりの衝撃に、机の上に積まれていた書類やインク瓶が跳ね上がる。インク瓶は床に落ち、黒い染みを広げた。
「ふざけるな!! 教会最強の剣たるホーリーナイツが、得体の知れない輩どもに後れを取った挙句、勇者を取り逃がしただと!?」
大司教の顔は、怒りで醜く歪んでいた。ハァッ、ハァッ……と激しく肩で息をしながら、通信魔道具を憎々しげに睨みつける。
「あの勇者の魂は、百年に一度の邪神封印の大義に不可欠な、もっとも『尊き生贄』なのです! 何のために貴方たちを選んだと思っているのですか!」
――一方。
サルファン街から数キロ離れた荒野。
冷たい風が吹き抜ける。
片手で丸型の通信魔道具を握りしめ、顔から血を流しながらも、ウォーデンは淡々と報告を続けていた。
「私の落ち度です。……ですが、警戒すべきは勇者ではありません。我々を襲撃し、ガドを殺したあの『異端』です」
ウォーデンの声が、わずかに低くなる。彼にしては珍しく、言葉に重みがあった。
「自分の命を削る『禁術』すら平然と使う、異常な狂信者でした」
――聖地ティティーリア教会。
大司教の執務室。
その言葉を聞いた瞬間、大司教の激怒していた顔が、忌々しげな表情へ変わった。
ピタッ……と怒声が止まる。
「……命を削る禁術、ですか。己の命すら躊躇いなく投げ捨てる異常な狂信者……」
ギリッ……。
大司教は歯を食いしばった。指先を口元に当て、苛立ちを隠さずに呟く。
「教会の特秘記録に記された『百年前の事件』と、特徴が酷似していますね」
チカチカと揺れる魔道具の光の向こうから、ウォーデンの声が反応した。
「記録、ですか?」
「ええ!」
大司教の脳裏に、古い文献で読んだおぞましい光景が浮かび上がる。
教会の騎士たちに完全に包囲されながら、不気味な笑みを浮かべる黒装束の者たち。誰一人口を割ることなく、全員が一斉に奥歯の毒を噛み砕いた。自分の命すら平然と捨てる、異常な狂信者たち。
「百年前、突如現れて我々の管理下にあった勇者を奪おうとした、正体不明の組織です! 捕縛の直前、全員が服毒自害したという……!」
ドンッ!!
大司教が、再び机を叩いた。
「あの時の亡霊が、いまだにうごめいているというのなら……目障りな!!」
大司教の瞳に、異常な執着と狂気が宿る。
「勇者は何としても、何としても我々が手に入れねばなりません!」
執務室に怒号が響き渡った。
「ウォーデン! 他のホーリーナイツにも連絡を取り、直ちに帰還して詳細な報告を上げなさい! 次の失敗は絶対に許しません!!」
*
教会の重苦しい暗闇から一転。
時間は流れ、深い森には昼前の柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
チュン、チュン……。
鳥のさえずりが、平和に響く森の中。二つの影が駆け抜けていく。
ザッ……ザッ……。
草をかき分ける足音。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
ヴォルは全身汗だくになり、激しく肩で息をしていた。長時間の全力疾走で、体力はもう限界に近い。
一方、隣を走るネネは、息一つ乱していなかった。スッ……スッ……と音もなく軽い足運びで、涼しい顔のまま並走している。
ザザッ!
たまらず足を止め、ヴォルは膝に手をついてうなだれた。
「ハァ……ハァ……いい加減、もう追手は大丈夫か……」
ネネもスッと立ち止まる。目を閉じ、周囲の気配を慎重に探った。やがて小さく頷き、ヴォルを振り返る。
「ああ。気配は完全に途切れている。ひとまずは安全だろう」
ドサッ。
ヴォルは近くの太い木の根元に、崩れ落ちるように座り込んだ。
「少し休もう……。戦闘と逃走の連続で、体力も魔力もすっからかんだ」
スゥゥ……。
ヴォルが空間に手をかざすと、黒い渦が現れた。『アイテムボックス』だ。そこから革袋の水筒を取り出し、ポンッと蓋を開ける。
「ほら、ネネ」
ヴォルは自分が飲む前に、無造作に水筒をネネへ差し出した。
ネネは少し驚いたように目を丸くする。だが、すぐに水筒を受け取った。
「……ああ、恩に着る」
コクッ……コクッ……。
ネネは静かに水を飲む。ヴォルはその横で荒い息を整えながら、彼女が飲み終わるのを待った。
チャプン……。ネネが水筒をヴォルに返す。
「すまない。助かった」
「気にするな」
水筒を受け取ったヴォルは、勢いよく水を喉へ流し込んだ。
ゴクッ! ゴクッ! プハァッ!
豪快に喉を鳴らし、息を吐く。再び黒い渦に手を入れたヴォルは、ガサッと布に包まれた固焼きパンと干し肉を取り出した。
だが、その少ない量を見て、チッと小さく舌打ちする。
「……食料はこれだけか」
ネネは無表情のまま、干し肉とパンを受け取った。
「街に入った後、あのタイミングで襲われるとはな……偶然にしては、少し出来すぎている」
ガリッ。
固焼きパンを噛み砕きながら、ヴォルはぼやいた。
「こんな量じゃ、切り詰めても二日も持たないぞ」
モグ……モグ……。
干し肉を一口かじり、ネネは淡々と答えた。その声は、いつも通り落ち着いている。
「問題ない。この森を抜けるまで持てば十分だ」
木の根元で向かい合って座り、二人は無言で干し肉やパンをかじった。
過酷な逃走劇の中で、ほんの短い休息の時間が流れていく。
静かで、どこか少しだけ温かい時間だった。




