第21話「狂人の落涙」
同じ頃。
ルワール王国の辺境を治める領主、ディーン・ラップルゴ辺境伯の邸宅。
深夜の執務室で、分厚い扉が勢いよく開かれた。息を切らした伝令の騎士が駆け込み、あわてて片ひざをつく。
「申し上げます! 辺境伯様、サルファン街より早馬が到着いたしました!」
執務机に座り、書類に目を通していた辺境伯は、ゆっくりと鋭い視線を上げた。
机の上には、領内の街道図と、魔物被害の報告書が広げられている。隣国との境界線には赤い印がいくつも打たれ、街道沿いには最近の被害状況が細かく書き込まれていた。
若い頃は自ら剣を取り、何度も前線に立った男だ。その肩幅は今なお広く、顔に刻まれた古傷が、彼のくぐり抜けてきた戦場の数を物語っていた。
バサッ。
辺境伯は書類を置いた。威圧感のある低い声が、部屋に響く。
「……こんな夜更けに早馬だと? 何事だ」
ハァ……ハァ……と肩で息をしながら、伝令の騎士は汗だくで報告を続けた。
「何者かの襲撃で、サルファン街の宿屋が一つ、跡形もなく吹き飛ばされたとのことです! その異常な破壊の規模から、現地の自警団の手には負えず、早急に騎士団の派遣を要請されております!」
ピタッ。
机をトントンと叩いていた辺境伯の太い指が止まった。彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる深い夜の闇へ目を向ける。
執務室の空気が、一段と張り詰めた。
「……宿屋が消し飛んだだと? ただのならず者の喧嘩や、はぐれ魔物の襲撃ではないな」
辺境伯は、すぐにそう判断した。
ならず者同士の争いや、はぐれ魔物の襲撃では、宿屋そのものが跡形もなく吹き飛ぶことなどありえない。
それは、明確な殺意と、規格外の力がぶつかった痕跡だった。
辺境伯は振り返り、低くよく通る声で命令を下す。
「すぐに調査部隊と騎士団を編成し、サルファンへ向かわせろ。騎士団には領民の安全確保と治安維持を命じる。負傷者の救護、周辺住民の聞き取り、現場の封鎖も同時に行え」
辺境伯はさらに声を低くした。
「調査部隊は宿屋の残骸、戦いの痕跡、魔力の残滓、すべてを徹底的に調べ上げるのだ。見落としは許さん」
辺境伯の鋭い眼光が、さらに細くなる。
「これほどの騒ぎだ。ただの無差別な襲撃ではあるまい。何らかの明確な狙いがあったと見るべきだ。その正体を突き止めよ!」
「ハッ! 直ちに!」
ガシャッ!
甲冑を鳴らして敬礼し、伝令は深く頭を下げた。そして、部屋を後にする。
一人になった執務室。
静まり返る部屋で、辺境伯は腕を組み、深く考え込んだ。サルファンは辺境の街とはいえ、街道の要所でもある。商人、冒険者、旅人が行き交う場所だ。
そこで宿屋が一つ吹き飛んだとなれば、ただの一事件では済まない。噂はすぐに広がり、領民の不安をあおる。
問題は、宿屋を跡形もなく消し飛ばすほどの力を持つ何者かが、自分の領地内で動いているという事実だ。
(……我が領地で、一体何が起きている……)
*
ヴォルたちが去ってから、数分後。
森の開けた場所には、巨大な穴の跡が残っていた。岩と土砂で埋め尽くされたその場所は、完全な静けさに包まれている。
シーーーン……。
風の音すら聞こえない。
だが、その静けさは長く続かなかった。
ピキ……。
土砂の表面に、細かな亀裂が走る。
ゴゴゴゴゴ……!!
次の瞬間、土砂の山が内側から大きく盛り上がった。
ドッッッバァァァァン!!!
土砂が大爆発を起こす。巨大なツルハシと共に、デレンが地中から勢いよく飛び出してきた。
「オオオォォォォォッ!!!」
咆哮と共に着地する。
ハァ……ハァ……と激しく息を荒げながら、デレンは血走った目で周囲を見回した。
獲物の気配は、もうどこにもない。森は恐ろしいほど静まり返っている。さらに森の奥を見通そうとしても、視界に映るのは深い闇だけだった。
自分が完全に撒かれたこと。
勇者を見失ったこと。
それを悟った瞬間、デレンの背中がピタッ……と固まった。
ドゴッ……。
デレンの太い手から、巨大なツルハシが力なく滑り落ちる。鈍い音を立てて、地面に転がった。
デレンはその場に崩れ落ちるように膝をつく。ガクンッ……と巨体から力が抜けた。
歯を強く食いしばり、デレンは両手で泥だらけの顔を覆った。
ポタ、ポタ……。
指の隙間から、大粒の涙がこぼれ落ちる。涙は血と泥にまみれた地面へ落ちていった。
夜空を見上げるデレンの悲痛な顔を、冷たい月明かりが照らし出す。
「アリア……ラニー……」
最愛の妻。
理不尽に命を奪われた息子。
二人の名を、デレンは絞り出すように呼んだ。
この狂った世界を滅ぼすための絶好の機会。
勇者の命。
それを、取り逃がした。
「俺は……世界を……」
そこで、声が詰まった。
どれほど憎んでも、どれほど壊したくても、失った家族は戻らない。
それでも復讐だけを支えに立っていた男は、目の前まで迫った勇者の命を取り逃がし、絶望に沈んだ。
デレンは両手を強く握りしめ、喉の奥から、獣のような叫びを吐き出した。
「ぁぁあああああああああああああああっ!!!!」




