第20話「深淵の逃走」
ヒュゥゥゥ……。
物悲しい冷たい夜風が、荒野を吹き抜けていく。
ガドとセインの体は、血だまりの中で重なるように倒れていた。その周囲に残る激戦の跡だけが、ここで起きた異常な戦いを物語っている。
少し離れた場所では、タムタが力なくへたり込んでいた。セインの死と同時に、彼女を縛っていた鎖は消えている。巨大な鎌は傍らに放り出され、全身は傷だらけだった。
普段の余裕も、軽い態度も、今のタムタには残っていない。ただ、目の前に広がる信じがたい光景を、青ざめた顔で見つめることしかできなかった。
「……ありえない」
胸に大穴を開けられ、大剣を握りしめたまま息絶えているガド。
(あのガドが……負けた? 今まで、私たちホーリーナイツが本気を出して、傷を負うことすらなかったのに……)
「ガァ……ハァ……」
その時、地面に倒れていたウォーデンの指先がピクッと動いた。ひどくゆっくりとした動きで、ウォーデンが上半身を起こす。
先ほどの戦闘で全聖力を使い果たし、息も絶え絶えの状態だった。
「……ウォーデン。あんた……聖力、完全に切れてるじゃない……」
ハッとして声をかけたタムタの声は、かすかに震えていた。
ウォーデンは膝をついたまま、荒い息を吐く。だが、その表情は冷たく、理性を失ってはいなかった。
「……ええ。今の私には、戦闘を継続することは不可能です」
ウォーデンは、ガドの死体を静かに見つめた。
「まさか、あのガドが後れを取るとは……『異端』の狂信を侮っていましたね」
タムタはよろめきながら立ち上がった。そして、自分の鎌を重そうに拾い上げる。その顔には、濃い疲労と、まだ見ぬ脅威への警戒が浮かんでいた。
「……それで? 肝心の勇者の追跡は、どうするの……?」
ウォーデンは険しい顔で、すぐに戦況を計算し直した。
「……勇者の追跡は、一旦中断します」
月明かりの下。荒野には、ボロボロになった二人と、息絶えた二人だけが残されていた。
「今の疲弊した私たちでは分が悪い。これ以上の深追いは、全滅のリスクを招きます」
ウォーデンはゆっくりと立ち上がり、タムタへはっきりと指示を出した。
「後退し、まずは教会へ連絡を入れます」
ウォーデンの蛇のような細い瞳に、狂信者としての底知れない光が宿る。
「この想定外の事態……ありのままを『真面目』に上層部に報告し、次なる『手』を打たねばなりません」
*
荒野の静けさとは対照的に、深い森の中では凄まじい轟音が響き渡っていた。
バキィィンッ!! ドゴォォン!!
木々が密集する暗い森を、デレンが巨大なツルハシを振り回しながら突き進んでいる。邪魔な木々を次々となぎ倒し、猛スピードで追ってきていた。
「逃がすかァァッ!! 勇者ァァッ!!」
血走った目をむき出しにし、獣のように叫ぶデレン。
ザザザザッ!!
そのはるか前方を、ヴォルとネネが全速力で駆け抜けていた。走りながら、背後から迫る地響きを感じ、ヴォルは舌打ちする。
(距離は少し離せているが……撒けるほどじゃないか)
ヴォルは冷静に考えを巡らせた。
(あのデレンの異常な馬力……今の俺の身体能力じゃ、このまま走り続けてもいずれ追いつかれてジリ貧になる)
並走するネネは無表情のまま、両手のダガーを構えている。影の魔力を練り上げ、いつでも反撃に出られる状態だった。
ヴォルは隣を走るネネの戦力と、背後から迫るデレンの異常な気配を天秤にかける。
(……ネネと協力すれば、ここであのツルハシ野郎を殺し切れるかもしれない)
だが、ヴォルの険しい表情は晴れなかった。脳裏をよぎるのは、荒野で出会った教会の精鋭たちだ。
(あのホーリーナイツとかいう連中が、いつ追ってくるか分からない。ここで戦闘が長引けば、挟み撃ちになるリスクが跳ね上がる。それに、俺たちの目的はこいつを倒すことじゃない。無駄に消耗する時間の猶予はないんだ)
「……私がやる」
ネネが短く告げた。
だが、ヴォルはネネの前にスッと手を出して制した。
「よせ、ネネ。正面からやり合う必要はない。長居は無用だ」
ネネはヴォルの意図を察し、無言で小さく頷く。
ヴォルは走りながら、『鑑定眼』も使って周囲の地形を素早く読み取った。
「地形を利用して、確実に足止めするぞ」
*
うっそうと茂る木々が途切れ、月明かりが差し込む開けた場所へ、二人は飛び出した。
(ここなら……!)
ヴォルは振り返りざまに、地面へ向けて両手を突き出す。
バチィィッ!!
「『地割れ(アース・クレバス)』!!」
ズゴゴゴゴォォォッ!!
ヴォルが地面に魔力を叩き込んだ瞬間。デレンの進路上にある地面が、轟音と共に裂けた。
深い大穴が、森の中に出現する。そこへ、凄まじい勢いで突進してきたデレン。
目の前に巨大な穴が現れたことに気づいたが、彼は減速を選ばなかった。
「オオオォォッ!!」
ドガァァァンッ!!
デレンは凄まじい脚力で地面を蹴った。地面を粉砕するほどの踏み込みで、巨大な穴を一直線に飛び越えようとする。
空中へ飛び出し、巨大なツルハシを振りかぶった。
「死ねェッ!!」
地上から見上げるヴォルのオッドアイが、冷たく光る。
「空中にいれば、踏ん張れないだろ?」
ヴォルは空中のデレンへ、スッと手をかざした。
「『重力』」
ブブゥゥンッ!!!
空中にいたデレンの全身へ、自重の何倍もの重圧がのしかかった。巨体が、上から下へ無理やり押し潰される。
「なッ……!?」
デレンの顔が驚愕に歪んだ。強靭な筋力をもってしても、空中ではその重力に逆らえない。
ドゴォォォォォンッ!!!
跳躍の軌道をへし折られ、デレンは一直線に深い穴の底へ叩き落とされた。穴の底から、もうもうと土煙が上がる。
ヴォルは穴の縁から下を見下ろした。そして、一気に畳みかける。
「休む暇は与えない!」
ゴゴゴゴゴ……!
ヴォルの頭上に、魔力で作られた無数の岩の槍と岩の塊が現れた。
「沈め」
ズドドドドドドォォォォンッ!!!
ヴォルが腕を振り下ろす。その瞬間、穴の底へ向かって、無数の岩が豪雨のように降り注いだ。
ズザザザザァッ!!
岩と土砂が崩れ落ち、巨大な穴はあっという間に埋め尽くされていく。
すべて撃ち尽くすと、ヴォルは短く息を吐いた。だが、結果を確認することなく、すぐに背を向ける。
「よし、行くぞ」
「やったか?」
埋まった穴を見つめながら、ネネが短く問う。
「だといいが……。今は距離を稼ぐのが最優先だ」
ヴォルは一切振り返らずに走り出した。
「わかった」
ネネもすぐに並走する。
タッ……タッ……!
土砂で埋まった大穴を背に、二人は夜の深い森の奥へと消えていった。




