第19話「神の沈黙」
――十五年前。聖教国。
天から降り注ぐような神々しい光が、ステンドグラスを通して聖堂内を満たしていた。
大聖堂には、凄まじい数の民衆が集まっている。人々は波のように押し寄せ、熱狂した声を上げていた。
その中心に立つのは、二十代半ばの若き日のセインだった。現在の顔を覆うような髭はない。髪は短く整えられ、顔には若々しい生気が満ちている。
神聖な純白の法衣をまとったその姿は、まさしく神の使いそのものだった。
「セイン様!」
「おお、セイン様……!」
もみくちゃになる群衆の中から、一人の平民の男が這い出るように進み出た。粗末な服を着た父親の腕の中には、小さな娘が抱かれている。
娘の顔の半分から体にかけての皮膚は赤黒くただれ、病によって崩れ落ちそうになっていた。
「セイン様、娘が不憫で……どうか、どうかお救いください……!」
父親は石の床に額を擦りつけ、泣きついた。周囲の民衆も、息を呑んで見守っている。
セインは、すがりつく父親と、今にも息が絶えそうな娘を静かに見つめた。その瞳にあるのは、ただ純粋な願いだった。
目の前の人を救いたい。
苦しみを取り除きたい。
心の底から、そう願う優しい光だった。
(この人たちの苦しみを、少しでも取り除けるのなら……)
セインが、そっと右手をかざす。手のひらから、まぶしいほどの神聖魔法の光があふれ出した。暖かく、柔らかな光が、ただれた少女の肌を優しく包み込む。
「女神フライヤ様。どうか、この子に慈悲を」
「……エクストラヒール」
奇跡は、すぐに起きた。父親の腕の中で、赤黒く変色していた娘の肌が、見る見るうちに白く滑らかな肌へ戻っていく。
父親の目から、驚きと喜びの涙があふれた。
「おお……なんという奇跡だ……! ありがとうございます、セイン様! ありがとうございます……!」
「奇跡だ!」
「我らの聖者様……!!」
背後で、民衆の歓声が爆発したように大聖堂を揺らした。後光が差すような光の中で、セインは穏やかに微笑む。
そして、静かに首を横に振った。そこには、完璧な「聖者」としての姿があった。
「私の力ではありません。すべては、女神フライヤ様の御加護です」
老いた女。足の不自由な子供。傷を負った兵士。貧しい父親たち。
人々が次々と涙を流しながら、セインへ救いの手を伸ばす。セインは一人ひとりの手を取り、丁寧に祈りを捧げて回った。
「女神フライヤ様の愛が、皆様に届きますように」
見返りなど、一切求めていない。
そこにいたのは、本物の信仰者だった。
(私は、人を愛している。この美しい世界を愛している。そして、この世界を照らす女神フライヤ様を――心より愛している)
だが、その神々しい光が届かない場所もあった。
大聖堂の二階のバルコニー。その暗がりに、複数の高位神官たちが立っていた。彼らは下の階で起きている熱狂を、冷たく見下ろしている。
顔には、嫉妬と悪意の濃い影が落ちていた。
「平民どもに媚びを売りおって……目障りな若造が」
「ええ。高位神官様も、あれ以上の増長は教会の秩序を乱すと、お怒りであらせられる」
「証拠の捏造も、異端審問官への手回しも、既に全て手配済みだ」
一人の神官が、唇を歪めて笑う。
「明日にはあの座から引きずり下ろしてやる」
腐った神官たちの嫉妬と悪意が、静かに動き出していた。
*
大聖堂の騒ぎが嘘のように遠のいた、静かな夜。
セインの私室は、彼が民衆からどれほど愛されているかを物語っていた。同時に、セイン自身に欲がないことも示していた。
質素な木製の机の上には、信者からの感謝の手紙や、孤児院の子供が描いた拙い絵が並べられている。その中央に、小さな女神フライヤの木彫りの聖像が置かれていた。
セインは冷たい床に膝をつき、両手を固く組んで祈っていた。
「女神フライヤ様。あなたの愛で、この世界が満たされますように」
閉じられたまぶたの奥は、どこまでも穏やかだった。自分を取り巻く悪意になど、少しも気づいていない。
(どうか、今日私の手が届かず、救えなかった者たちにも慈悲をお与えください)
――ガアアァンッ!!
静かな祈りの時間は、暴力によって唐突に壊された。木の扉が外側から激しく蹴破られる。鋭い破片が、部屋中に飛び散った。
武装した教会の異端審問官たちが、殺気をむき出しにして土足でなだれ込んでくる。
「がっ……!?」
状況を理解しようとして振り向いたセインの顔面に、審問官の重いブーツがめり込んだ。セインの体が吹き飛ぶ。そのまま床に叩きつけられた。
口の中が切れ、鮮血が床に飛び散る。
「な、何を……」
「横領に加えて、異端信仰の証拠も揃っている。申し開きなど無用だ」
冷たい視線が、床に押さえつけられたセインを見下ろしていた。審問官はさらに、セインの顔を容赦なく蹴り上げる。
そこからは、地獄だった。
深い地下牢の暗闇。
上半身裸で鎖に吊るされたセインの体は、鞭で打たれ傷だらけになっていた。血が、体中から流れている。
真っ赤に焼けた鉄の焼き印が、異端審問官の手で火鉢から引き抜かれた。凄まじい熱で、地下牢の冷たい空気が歪む。
「あああああァァッ!!」
ジュウウゥゥッ。
肉が焼ける不快な音と白煙。セインの背中に、「異端者」の焼き印が深く押し当てられた。
歯が砕けるほど食いしばっても、耐えきれない痛みの叫びが牢獄に響く。
それから、夜が来たのか、朝が来たのかも分からない時間が過ぎた。
暗い地下牢。
床に落ちる水滴の音。
血の染み。
鎖の軋み。
何度も開け閉めされる鉄扉の影。
ただ、鉄の扉が開くたびに、セインの体には理不尽な傷だけが増えていった。
頬は無残に腫れ上がり、片目は血で固まって開ききらない。それでも彼は、虚ろな瞳で、見えない女神へ祈ろうとしていた。
鎖に吊られたまま、セインの頭が力なく垂れる。
「一度だけで……いい……」
血を吐きながら、唇だけがかすかに動いた。
「声を……」
そして、激しい雨の降る夜。
セインは教会の裏口から、ゴミのように泥水の中へ蹴り出された。全身泥まみれになり、這いつくばりながら、冷たい雨に打たれる女神フライヤの巨大な石像を見上げる。
だが、雨音の中で、無機質な女神像は何も語らない。冷たい顔で目を閉じたままだった。
「女神……様……なぜ……」
泥水の中から伸ばした手が、力なく落ちる。
(私は……ただ、貴女の教えに従っただけ……。なぜ、何も答えてくださらない……)
それでも、セインの瞳の奥には、まだわずかな光が残っていた。
信じたかった。
救われると、どこかでまだ思っていた。
だが、その最後の光が、パリンと音を立てて砕け散った。
(愛など、救いなど、最初からどこにもなかった……。ならば——)
泥だらけの両手で、自分の胸元に刻まれた教会の聖印へ爪を立てた。
爪が剥がれ、肉が裂け、血が吹き出すほどの力で、自分の過去と信仰を掻きむしる。
雨の中、胸から血を流し、悪魔のように凄惨に笑うセイン。その顔には、かつての聖者の面影など、もう残っていなかった。
狂気と憎悪だけが宿る瞳で、セインは何もない空を睨む。
「偽りの神よ。貴女の箱庭は、私が全て腐らせてやる」
*
回想の雨音は消え、再び深夜の荒野へ戻る。
そこには、風の音だけが虚しく響いていた。
凄惨な血だまりの中。ガドは完全に息絶えているにもかかわらず、大剣を握りしめたまま直立していた。その刃先で、セインは宙に串刺しにされたままぶら下がっている。
鎖に繋がれたまま動けないウォーデンとタムタは、その異様な光景を呆然と見つめることしかできなかった。
「ハァ……ハァ……」
串刺しにされたまま、セインは弱い呼吸を繰り返していた。虚ろな目で、夜空を見上げる。
雲の隙間から、冷たく無機質な月光が差し込んでいた。ぼやけた視界に映る月は、あの日の女神像のように、何も答えない。
セインの片目から、スッ……と一筋の涙がこぼれ落ちた。その表情は、どこか迷子になった子供のように弱々しかった。
限界を迎えたガドの死体が、ついに大剣ごと前のめりに傾き始める。
セインは夜空を見上げるように、かすかに笑う。
「ハハ……聞こえるか?」
ガドの巨体が崩れ、その勢いで、セインの体も大剣から滑り抜けていく。
血を撒きながら落ちていく中、口元にわずかな乾いた笑みを残し、セインは最後の言葉を吐き出す。
「……お前の神は最後までだんまりだ」
その瞬間、セインの目は開いたまま、完全に光を失った。
ドサッ……。
重い音を立てて、セインの体が荒野の地面に倒れた。
血だまりの中にガドの大剣が沈む。
セインの手は、力なく投げ出されていた。
一つの復讐劇が終わった荒野には、静けさだけが広がっていた。




