第2話「偽りの自由と、忍び寄る狂信の影」
茂みの奥の影が、地面を蹴った。
鋭い葉の音が響く。
同時に、獲物を狙う獣の目がぎらりと光った。
飛び出してきたのは、額にナイフのような角を生やした兎だった。
ホーンラビット。
マサヒコはとっさに片手を前に出し、腰を落として構えた。
(……転生初日から命懸けのサバイバルか。相手が狼や熊じゃなくて助かったが、油断はできない)
「鑑定」
視界の端に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。
『ホーンラビット Lv2 / 弱点:角の根元』
(どんな商談でも戦いでも、相手の急所を突ける方が有利だ)
ホーンラビットが後ろ脚で地面を蹴る。
次の瞬間、弾丸のような速さで真っ直ぐ突っ込んできた。
正彦は革のハーフグローブをはめた手で、地面に落ちていた石を掴み取る。
恐怖を押し殺し、ギリギリまで相手を引きつけた。
ぶつかる寸前、正彦は地面を強く蹴り、左へ鋭く飛んだ。
猛烈な勢いで通り過ぎようとするホーンラビット。
その頭部の角の根元へ向け、正彦は握った石を全力で叩き込んだ。
メキィッ!
硬い角が根元から折れる音が響く。
体勢を崩して地面を転がった兎に、正彦は馬乗りになった。
背後から首へ腕を回し、逃げられないように強く締める。
そのオッドアイには、すでに感情を消した冷たい光が宿っていた。
「……悪いな。俺もここで死ぬわけにはいかないんだ」
腕に力を込める。
ゴキッ、という鈍い音が、森の静けさを壊した。
腕の中に残る、命が消えていく生々しい感触。
正彦は思わず顔をしかめ、自分の両手を見つめた。
額には脂汗が浮かんでいる。
「初めて生き物を自分の手で殺したが……想像以上に、きついな……」
だが、その感傷は長く続かなかった。
チカッ。
視界の端が光った。
驚いて目を見開く正彦の周囲に、いくつものシステムウィンドウが次々と浮かび上がる。
『ホーンラビット討伐』
『経験値取得』
『スキルポイント取得』
光の板が、空間を埋めていく。
そして、最も重要な通知が表示された。
『全成長要素に複利計算適用開始……+1%』
『現在倍率:1.01倍』
ウィンドウの淡い光が、正彦の顔を下から照らす。
命を奪ったことへの嫌悪感が、複利発動での興奮に打ち消されていく。
代わりに浮かんだのは、抑えきれない野心に満ちた笑みだった。
(よし、完璧だ! 1%の複利システムが正常に機能している! これなら間違いなくいける! あの女神は、複利という概念が長期的にどれほど凶悪な恩恵をもたらすか、見抜けなかった。まぁ、意図的に過小評価させるような話の持って行き方をしたからな……)
複利というのは、雪だるまを転がすようなものだ。
最初は小さい。
だが、転がすたびに雪がくっつき、大きくなる。
大きくなった雪だるまは、さらに多くの雪を巻き込む。
(たった一%でも、百回重なれば約二・七倍。千回重なれば、二万倍を超える。気が付いた時には、途方もない倍数へと膨れ上がる。それが、俺の複利チートだ)
(女神が見逃したこの一%は、いずれ俺の成長を爆発させる)
*
深い森を抜け、落ち葉を踏みしめながら崖の上に出ると、視界が一気に開けた。
眼下に広がっていたのは、大きな城壁に囲まれた都市だった。
王城のような建物は見当たらない。
だが、低い民家が並ぶ街の中心には、ひときわ巨大な教会と、天を突くような時計塔がそびえ立っていた。
「……あれが、この世界の街か。あの中央のでかい建物は……教会か?」
正彦は顎に手を当て、冷静に今後の動きを考える。
(まずは安全な拠点の確保と、この世界の情報収集。見知らぬ土地での基本中の基本だ。名前は……マサヒコでいいだろう)
小さく頷くと、マサヒコは丘を下り、見知らぬ街へと続く道を歩き始めた。
昼前。
聖地ティティーリアの『聖門』と呼ばれる正門前は、入城を待つ旅人や商人たちで混み合っていた。
土埃が舞い、いくつもの言葉や馬のいななきが混ざり合っている。
マサヒコも、その長い列に加わった。
周囲を見渡すと、重武装した兵士たちが鋭い目を光らせている。
マサヒコは列を進みながら、さりげなく『鑑定』を使い、近くの兵士の情報を覗き見た。
『聖門兵 / 教会連絡員』
(聖門? しかも衛兵じゃなく、教会の人間がなぜ都市の入り口を管理しているんだ?)
違和感はあった。
だが、ここで問い詰めても得るものはない。
自分の番が来ると、表情の読めない聖門兵が、石の台座に置かれた黒い水晶を指し示した。
「手をどうぞ。犯罪歴の確認です」
マサヒコは促されるまま、黒い水晶へ手をかざした。
彼が触れた瞬間。
マサヒコからは見えない水晶の中心だけが、かすかに赤く光った。
それを見た聖門兵の目が、一瞬だけ大きく開く。
だが、男はすぐに元の無表情へ戻った。
何事もなかったかのように口を開く。
「……問題ありません。どうぞお通りください」
「どうも」
水晶の反応に気づかないまま、マサヒコは余裕のある笑みを浮かべ、軽く会釈した。
暗い門のアーチを抜けていく男の背中を、聖門兵は冷たい目で見送っていた。
*
堅苦しい検問を抜け、石畳の広場へ足を踏み入れた。
マサヒコは高く澄んだ青空を見上げ、両手を大きく広げて思い切り背伸びをする。
(無事に街にも入れた。誰の指示を受けることもなく、誰に縛られることもない。自分の足で、自由に生きていける)
前世で重くのしかかっていたものが、ぽろりと剥がれ落ちたような気がした。
鳥が自由に空を飛んでいる。
それを見上げながら、晴れやかな笑顔が自然とこぼれた。
「……最高だ!」
昼の市場は、活気と熱気に満ちていた。
道の両側には屋台が並び、見たこともない色鮮やかな果物や、香ばしい匂いの肉の串焼きが売られている。
店主と客が冗談を飛ばし合いながら値段を交渉している光景は、まさにファンタジー世界そのものだった。
マサヒコは屋台で買った分厚い焼き肉串に、豪快にかぶりつく。
「……うまっ! こっちの飯も普通にいけるな!」
胸を高鳴らせながら、にぎやかな市場を歩いていく。
まずは宿を探す。
それから冒険者ギルドのような組織がないか調べる。
新しい人生への期待で、足取りは羽のように軽かった。
*
太陽が真上に来る頃。
にぎわう大通りから一本外れた、聖門の裏側の暗がり。
先ほどの聖門兵が、一羽の伝書鳩の足に小さな羊皮紙の筒をくくりつけていた。
男が腕を振り上げる。
バサァッ。
羽音を立てて、鳩が空へ舞い上がった。
鳩は迷うことなく、街の中央にそびえ立つ白い巨大教会の尖塔へ向かって飛んでいった。
*
鳩がたどり着いた先。
教会の最奥部。
見上げるほど高い天井と、広い部屋。
巨大なステンドグラスから色とりどりの光が差し込んでいる。
それなのに、部屋の中心だけは、光が届かないかのように深い闇に沈んでいた。
豪華な法衣をまとった六十代半ばの大司教が、届けられたばかりの小さな羊皮紙を開き、文字を追っていた。
厳しい顔に、ゆっくりと不気味な笑みが貼りついていく。
「……『女神フライヤ様』より神託のあった転生者……勇者が、ついに現れましたか」
闇の中から、側近の神官が姿を現した。
深く頭を下げる。
「大司教様。直ちに聖騎士を差し向け捕縛し、地下の生贄の祭壇へとお送りいたしましょうか?」
大司教はすぐには答えなかった。
手元の羊皮紙を、そばにある燭台の火へ近づける。
チリチリと音を立て、羊皮紙が燃え上がった。
下から照らされた大司教の顔には、信仰と狂気が混ざり合っていた。
「いえ、待ちなさい。フライヤ様の神託によると、まだ転生したばかりで『魂』が馴染んでいないそうです。急いては事を仕損じるかもしれません。魂が器に定着してから接触するとしましょう」
灰が舞い落ちる。
揺れる炎の陰で、青年を生贄へと導く歯車が、静かに回り始めていた。




