第1話「予定外の死と、最悪な世界の始まり」
満月の白い光が、山道を照らしていた。
足元には濃い影が落ち、夜の森は静けさに包まれている。
「逃がすな! 確実に生け捕りにしろ!」
「止まれ! 偽勇者め!」
その静けさを、怒号が切り裂いた。
地面を揺らすような軍馬の足音が、背後から迫ってくる。
槍や剣の穂先が、逃げる男の背中を狙っていた。
マサヒコは、泥だらけの山道を駆け抜けていた。
顔にまとわりつく汗を拭う余裕もない。
ただ、前へ進むしかなかった。
走りながら肩越しに背後を見ると、追手たちの松明の明かりが、扇のように広がっていた。
確実に、逃げ道をふさぎに来ている。
(……包囲網が完成するまで、あと三十秒ってところか)
頭の中で冷静に計算しながら、マサヒコは泥まみれのブーツで倒木を蹴り越えた。
どれだけ走っても、このままでは数の暴力に飲み込まれる。
それは明らかだった。
夜の森を冷たい風が吹き抜ける。
そんな中、マサヒコの胸には、どうしようもない怒りと理不尽さが渦巻いていた。
(なんでこんな事になったんだか……)
――彼がなぜ、この逃走劇に巻き込まれたのか。
それを語るには、少しだけ時間を遡る必要がある。
*
深夜二時の東京。
無機質なオフィスビルが並んでいた。
見上げても、人工の光にかき消されて、星は一つも見えない。
人気のない駅のホーム。
薄汚れたベンチに、スーツ姿の鈴木正彦、三十五歳が一人で座っていた。
ネクタイはだらしなく緩み、目の下には濃いクマが浮かんでいる。
長年の過労が、その顔にはっきりと出ていた。
「……また、終電逃したか」
ひび割れた唇から、かすれた声が漏れる。
手の中のスマートフォンには、「上司」や「クライアント」という文字が並んでいた。
不在着信の数は、異常なほど多い。
大学を卒業し、営業マンとして働き始めてから十三年。
正彦は身を削るように働き、会社にすべてを捧げてきた。
だが、その果てに残ったのは、限界を超えた体と、役職という名の責任だけだった。
(就職してから13年……俺の人生、これだけか)
ふと、指先から力が抜けた。
持っていた缶コーヒーが落ち、コンクリートの床に当たって茶色い中身を飛び散らせる。
それに引きずられるように、正彦の体もベンチから傾いた。
そのまま、冷たいホームの床へ崩れ落ちる。
もう、彼はピクリとも動かなかった。
都会の冷たい夜景だけが、倒れた男を見下ろしていた。
享年、三十五歳。
死因、過労。
誰に看取られることもなく、鈴木正彦の最初の人生は、静かに幕を閉じた。
*
次に正彦が目を覚ましたとき、そこは真っ白な空間だった。
上も下も、右も左も分からない。
どこまでも白く、現実感のない場所だった。
「目が覚めましたか。私はこの世界ディタリアを管理する神、フライヤ・マーランと申します」
声に導かれ、正彦はよろめきながら上体を起こした。
そこには、黒いドレスを着た金髪の美しい女が立っていた。
女の顔には、感情らしいものがまるでない。
手にしたバインダーの書類へ、機械のように視線を落としている。
「鈴木正彦さん。単刀直入に申し上げますが、これは本来予定されていない死でした」
そう言った瞬間だった。
神を名乗る女の瞳が、ほんのわずかに右下へ泳いだ。
正彦はそれを見逃さなかった。
(……なるほど、そういう展開か)
正彦の目の奥で、カチリと何かが切り替わる。
さっきまで体にまとわりついていた疲労感が、嘘のように消えている。
商談相手の隙を見逃さない営業マンの目になっていた。
正彦はゆっくり立ち上がった。
スーツについた見えない埃を払い、緩んでいたネクタイをきっちり締め直す。
「予定外……それはつまり、御社の『管理上の不備による過失』ということですね? では、その重大な過失に対する補償として、私の要求を呑んでいただきたい」
「……御社? 標準的な補償なら用意してあります。魔法が存在し、魔物がいる異世界への転生。そして、生き抜くための強力なスキルを一つ付与させていただきます」
フライヤは、冷たい目で正彦を見下ろした。
だが、正彦は静かに目を閉じ、はっきりと首を横に振る。
「不十分ですね。私の条件はこうです。まず、『成長要素すべてのレベル上限の撤廃』。それに加え、経験値などあらゆる成長の数値に『1%の複利』を継続的に加算すること」
正彦は人差し指を立て、淡々と要求を並べていく。
「たった1%という、無くても変わらないような低い水準で手を打つ代わりに、全属性の魔法適性を頂きたい。あとは出し入れ自由なアイテムボックス、対象の情報を読み取る鑑定眼、そして全言語理解のスキル。当面の活動資金と数日分の食料や物資……本来生きるはずだった私の寿命を考えれば妥当なラインでしょう」
フライヤは表情を変えなかった。
だが、その目の奥には、苛立ちと、人間への見下しがにじんでいた。
フライヤはため息をつき、空中に手をかざした。
黄金の粒子が舞い、一枚の羊皮紙と羽ペンが現れる。
「……承認しましょう。では、こちらにサインを」
正彦は迷わず羽ペンを取った。
流れるような文字で、羊皮紙に署名を書き込む。
契約が成立した瞬間、彼の足元に巨大な魔法陣が広がった。
強烈な光の柱が、下から上へ一気に噴き上がる。
「転生先として、ちょうど命の灯火が消えかけている現地の若者の肉体を用意しました。……ところで、武器はよろしいのですか?」
まばゆい光に飲み込まれる直前。
正彦の顔に浮かんでいた余裕の笑みが、ぴたりと固まった。
「……あ」
両目を限界まで見開き、絶望に満ちた間抜けな声を漏らす。
それを最後に、正彦の姿は光と共に消えた。
静かになった白い空間。
フライヤは手にしていたバインダーを、パタンと冷たい音を立てて閉じた。
感情のなかった顔が、わずかに歪む。
そこには、隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。
「図々しい……思ったより『めんどくさい』男でしたね。ですが……あなたがその力を使いこなせるようになるまで、生きてはいられないでしょうが」
*
朝もやに包まれた異世界の森。
木漏れ日が差し込む草むらの上で、倒れていた若者がガバッと上体を起こした。
「武器を……ッ! 忘れた……ッッ!!」
目覚めるなり、正彦は両手で頭を抱えた。
そのまま地面に崩れ落ち、拳で土を叩きつける。
「交渉でスキルも物資も完璧に詰め切ったのに! 肝心の攻撃手段を要求し忘れるなんて……十三年の営業経験が聞いて呆れる!!」
悔しさに悶えたあと、正彦は深く息を吐いた。
すぐに感情を押さえ込み、頭を切り替える。
「……くそっ、切り替えよう。嘆いても剣は生えてこない。アイテムボックスは念じれば開くのか?」
空中に、半透明のシステムウィンドウが浮かび上がる。
「……よし、初期資金の金貨十枚と物資はちゃんと入っているな」
中身を確認し、正彦は少しだけ安心した。
近くの水たまりを覗き込む。
そこに映っていたのは、十八歳ほどの青年の顔だった。
乱れた茶髪に、引き締まった顔つき。身につけているのは、動きやすそうな黒いシャツとズボンだった。腰には革のベルトと小さな道具袋がある。
見た目だけなら、駆け出しの冒険者のようにも見える。
だが、目だけは普通ではなかった。
左右で色の違う瞳。
左目は青く、右目は金色に光っている。
いわゆるオッドアイだった。
「右目が金色……」
自分の新しい姿を確認していた、その時。
ガサァッ!
背後の茂みが、不自然に大きく揺れた。
正彦は振り返る。
暗い茂みの奥で、二つの眼がこちらを見ていた。
武器はない。
魔法も使い方がわからない。
それでも、獣は待ってくれない。
(……嘘だろ。初日から命懸けかよ)
次の瞬間、茂みの奥の影が地面を蹴った。




