第14話「守る価値のない世界」
月が雲に隠れ、サルファンの街は深い夜の静けさに包まれていた。宿屋が立ち並ぶ表通り。その暗がりに、黒衣をまとった邪教の構成員たちの影が、静かに溶け込んでいる。
「デレン様。情報によると、この宿屋で間違いありません」
部下の一人が、デレンを見上げるようにして報告した。
「……俺が当たりをひいちまったなぁ」
報告を受けた男、デレンは、無精ひげの生えた顎をさすりながら静かに呟いた。身長は二メートルを軽く超えている。六十歳ほどに見えるスキンヘッドの男だ。だが、年齢を感じさせないほど背筋は伸び、その巨体だけで周囲を圧していた。
デレンは宿屋の窓を見据えた。その瞳には、手柄を喜ぶ色はない。あるのは、底の見えない虚しさと、深い悲しみだった。
「勇者……百年ごとに、このくだらない世界の贄にされる為だけに召喚された、哀れな者よ」
デレンの瞳の奥に、暗い炎のような過去の光景が蘇る。
「てめぇを贄にしたところで……この世界に、守る価値なんてねェんだ……」
過去の絶望を思い返すように、重く吐き捨てる。
(守る価値なんて……)
*
――デレンの記憶は、はるか昔の凄惨な光景へと遡る。
『俺は、生まれついての化け物だった』
幼い頃のデレンは、自分の背丈をはるかに超える巨大な熊を、素手で引き裂いていた。血の海の中に、無表情で立っている。
全身を真っ赤な返り血で染めながら、自分の人間離れした力にも、その光景のおかしさにも、何の感情も抱いていなかった。
時は流れ、青年となったデレンの視線の先に、一人の少女の後ろ姿があった。
アリア。
彼女の右腕は黒く変色し、まったく動いていない。
『生まれながらに右手を魔素に蝕まれ、忌み子として村人から迫害されてきた女。……それでも俺は、心優しい彼女を愛さずにはいられなかった』
デレンの大きく無骨な手に、アリアの小さな左手がそっと重なった。不器用な二人の、温かな触れ合いだった。
アリアは寂しげに、それでも心から優しい笑みをデレンへ向ける。村で化け物と呼ばれ、恐れられていた彼を、唯一「人間」として愛してくれた存在だった。
やがて二人は結ばれ、新しい命を授かる。赤子を傷つけてしまわないか心配しながら、不器用に抱きしめるデレン。その隣で、アリアが微笑んでいる。
だが、残酷なことに、赤子の右手もまた母親と同じように魔素に蝕まれ、黒く変色していた。
『……アリアは魔素に蝕まれて体も弱かったが、この子を命がけで産んでくれた』
デレンは巨体を震わせた。嬉し涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、泣き崩れた。
それから十年後。暗い鉱山で、上半身裸のデレンがツルハシを振るっていた。ただひたすらに働いている。
ごつごつした両手で、ツルハシを強く握りしめていた。
『この狂気は二度と出さない。この手は、あいつが遺した宝物を守るためだけにある』
それは、狂気を押し殺して生きる男の、強い誓いだった。
しかし、その平穏は唐突に崩れた。あまりにも理不尽に。
夕暮れ時。
デレンは、息子のために買ったささやかな土産を手に、足早に家路を急いでいた。
木彫りの馬。
それが、息子への土産だった。
『……アリアが魔素の浸食に耐えきれず一年前に死んでから、俺と、十歳になった息子との二人きりの生活。この息子を守り抜く事が、アリアとの最後の約束だ』
自宅が近づいた時、デレンの足が止まった。異変を感じ取ったのだ。
彼は自宅の入り口へ駆け寄った。頑丈なはずの扉は壊され、蝶番から外れて無残に転がっていた。
荒らされた室内。奥には、赤黒い血だまりが広がっていた。村の男たちはその周りに立ち、下品な笑い声を上げながら酒を飲んでいた。
その中の一人が、泥だらけのブーツで、冷たくなった十歳の息子の頭を踏みつけている。抵抗した跡のある小さな手が、力なく血だまりに投げ出されていた。
「忌み子のガキが、目障りなんだよ。母親と同じように、呪いを撒き散らす前に処分してやったのさ」
デレンの手から、力が抜けた。握っていた木彫りの馬が滑り落ちた。
コロン……。
虚しい音を立てて、それは血だまりの中へ転がっていった。
ブツンッ。
デレンの中で、人間としての理性をつなぎ止めていた最後の糸が切れた。瞳孔が、爬虫類のように縦に割れる。
幼い頃に封じ込めた純粋な殺意が、完全に蘇った。
「あ? 化け物が帰ってき……」
背後の気配に気づき、酔った村人がニヤニヤしながら振り返りかけた。
その瞬間。
ドグシャアァァッ!!!
デレンの巨大な拳が、村人の頭を原形も残さず粉砕した。言葉を発する暇も与えず、圧倒的な暴力で潰したのだ。
デレンは、村人の血を浴びた手で、玄関脇のツルハシを拾い上げた。そして、室内の村人を蹂躙した後、無言のまま家の外へ歩き出す。
家族を養うために振るっていた道具は、虐殺の凶器へと変わった。
そこからは、まさに地獄だった。
燃え上がる村。逃げ惑う百人規模の村人たち。理性を失ったデレンは、圧倒的な暴力で次々と村人を殺していった。
村全体を無差別に破壊し尽くし、積み上がった死体の山の上に立つ。血に濡れたその背中は、もはや人間ではなかった。
人の形をした、異形の怪物だった。
血まみれになった息子の亡骸を強く抱きしめながら、デレンは燃え盛る炎と月へ向かって吠えた。
「ゥウウウオオオオオアアアアアアッ!!!」
世界への絶望と怒りが込められた獣のような咆哮が、夜空に響き渡った。
*
宿屋の窓を見上げるデレンの顔には、底知れない虚しさと、すべてを壊そうとする殺意が入り混じっていた。
デレンの右手が、背中に背負っていた巨大な武器の柄を掴む。
ツルハシ型の重武器。
それは、かつて村人を虐殺したツルハシを、さらに凶悪に進化させたような代物だった。
デレンはその巨大な武器を、片手で軽々と横に振りかぶる。巨体から放たれる圧が、周囲の空気を歪ませた。
「……俺から行かせてもらうぜ」
一方、宿屋の二階。
ベッドで目を閉じていたネネの尖った耳が、ピクリと動いた。わずかな殺気に反応したのだ。
鋭い危険察知能力と聴覚が、下から迫る圧倒的な殺気を捉える。生存本能が、強烈な警鐘を鳴らしていた。
(殺気……!!)
毛布を跳ね除け、ネネは一瞬で飛び起きた。両手に握った短剣を交差させ、防御の姿勢を取る。
そのまま一直線に、窓へ向かった。
ガシャアァァァンッ!!!
ネネが自室の窓ガラスを、短剣の柄で突き破る。月夜の空へ、鮮やかに飛び出した。
ガラスの破片が、きらきらと舞う。
その激しい音に、別室のベッドで寝ていたヴォルも、カッと目を見開いた。
(ネネの部屋か!?)
デレンが横に振りかぶった巨大なツルハシを、容赦なく振り抜く。
「死ね」
ドゴォォォォンッ!!!
必殺の一撃が、宿屋の壁を打ち砕いた。すさまじい衝撃波が、建物全体を吹き飛ばす。
深夜の街の静けさは、完全に引き裂かれた。二階建ての木造建築が、一瞬にして粉々に砕け散る。
空中に飛び出していたネネは、背後で爆発するように崩れ落ちる宿屋を振り返った。その破壊力に、思わず目を見開く。
「ヴォルッ!?」
ネネは空中で素早く身をひるがえした。降り注ぐ瓦礫の雨をかわしながら、軽やかに二軒隣の建物の屋根へ着地する。
屋根の上に片膝をつき、土煙の上がる宿屋の跡地を見下ろした。
一瞬、焦りが顔に浮かぶ。だが、ネネはすぐに冷静さを取り戻した。
(いや、ヴォルがこれしきで死ぬはずがない)
もうもうと立ち込める土煙の奥。宿屋の瓦礫の山の中心部が、ピキピキと音を立てて凍りついている。
パァァンッ!!
氷が砕け散った。
巨大な半球状の氷のドーム。
『アイスシールド』。
その中から、ヴォルが姿を現す。埃まみれではあるが、まったくの無傷だった。
「……随分と派手な挨拶だな。おかげで目が覚めた」




