第10話「水辺の月光と、強き者『ヴォル』」
風が砂ぼこりを巻き上げる荒野。
ごつごつした岩が続くその場所で、夜明け前の薄暗さがまだ少しだけ残っていた。
その静けさを破るように、短い戦闘が始まる。
「グルァァッ!!」
三匹のサンド・ウルフが、乾いた大地を蹴って一斉にマサヒコへ飛びかかった。
狼の形をした砂漠の魔物だ。
岩を砕くほど強いあごと、鋭い牙をむき出しにして、三方から同時に喉を狙ってくる。
だが、マサヒコは少しも焦らなかった。
余裕の笑みを浮かべ、鋼の剣を構える。
(レベルが上がった恩恵で身体能力は飛躍的に向上している。だが、決して油断はしない。一歩一歩、確実に力を積み上げていく)
マサヒコは迫ってくる三匹の動きを読み切った。
そして、鋭く踏み込む。
「シッ!」
すれ違いざまに放った一閃が、空中へ飛び出した二匹のサンド・ウルフを簡単に両断した。
血が荒野の砂へ吸い込まれていく。
残る一匹。
マサヒコの背後を取り、飛びかかったその魔物は――。
ズパァッ!
背後から音もなく現れたネネの短剣によって、空中で首を落とされた。
悲鳴を上げる間もなく、サンド・ウルフは絶命する。
マサヒコは振り向かなかった。
見事な連携で倒された魔物たちから、手際よく魔石を回収していく。
「これで周辺の魔物は粗方片付いたな。……ネネ、このまま北上すれば魔族領か?」
魔石をアイテムボックスに放り込みながら尋ねると、ネネは落ちていた枯れ枝を拾った。
そして、乾いた地面に簡単な地図を描き始める。
「いや、真っ直ぐには向かわない。一度、西の『ルワール王国』へ入る」
ネネは木の枝でバツ印をつけ、そこから大きく回り込む矢印を描いた。
「教会がある聖教国は今、血眼になってお前を探しているだろう。魔族領へと続く国境の警備は、特に厳重になっているはずだ。」
ネネは地図上の「ルワール王国」を指差す。
「それに、聖教国とルワール王国は長年、犬猿の仲だ。王国に一度入ってしまえば、教会の連中も表立って軍を動かすことはできない。そこから安全なルートで魔族領へ抜ける」
マサヒコは地図を見下ろし、ネネの作戦を理解した。
「なんで犬猿の仲なんだ?」
ネネは少し考えるように視線を落とした。
「すまない。私も、王国と聖教国がなぜそこまで対立しているのか、詳しい事情までは知らない」
「まぁいい。仲の悪い他国を物理的な盾にして、教会の追手を牽制するわけか。悪くない策だ」
マサヒコは腕を組み、不敵に笑った。
*
一方その頃。
荒野の開放感とは正反対の場所。
重く、息苦しい空気が漂う聖教国・聖地ティティーリア教会。
その豪華な執務室では、大司教の怒りが爆発していた。
ガシャァァンッ!!
大司教が机の上に飾られていた高価な花瓶を、力任せに床へ叩きつける。
美しい陶器が、粉々に砕け散った。
「ええいっ! 逃げられただと!? 使えない無能どもめ!!」
あまりの怒りに、いつもの丁寧な言葉遣いも消えている。
大司教の顔は、醜く歪んでいた。
「百年に一度の『尊き生贄』だぞ!? なぜ、よりにもよってこの重要局面で、現場に小隊長クラスしか常駐していなかったのだ!!」
激怒する大司教の横で、報告に来た神官が青ざめて震えていた。
「も、申し訳ございません! 聖騎士団長をはじめ、主力は教皇様の命により国境の視察へ……」
大司教は、ギリッと奥歯を噛みしめた。
聖教国の頂点に立つ「教皇」の顔を思い浮かべ、その判断に苛立ちを隠せない。
「教皇様も何を考えておられるのか……! このような一大事に! すぐに『ホーリーナイツ(聖天騎士)』の誰かを呼び戻しなさい!!」
その言葉を聞いた神官は、さらに震え上がった。
「ホ、ホーリーナイツを!? し、しかし、あの教皇様直属の、選ばれし十人の超人たちを動かすとなると、手続きが……」
大司教は、目的のためなら手段を選ばない狂気の目で、神官を睨みつけた。
「構わん!! あの器を失えば、邪神の封印が解け、この世界は終わりなのだぞ!」
「地の果てまで追いかけ、手足を落としてでも連れ戻せェ!!」
大司教の狂った執念に満ちた叫びが、暗い教会の中に響き渡った。
*
夕暮れ時。
荒野を抜けた二人は、深い森へ足を踏み入れた。
ネネが足を止め、周囲の気配と地形を確認する。
「日が暮れるな。今日はこの森で野営する。あっちに綺麗な泉があった」
「了解だ。荒野の砂埃で体がベタベタだからな。ありがたい」
マサヒコはアイテムボックスの黒い渦を開いた。
そこから、野営用の毛布や食料などを手際よく取り出していく。
夜。
森は静まり返っていた。
ネネはすでに毛布にくるまり、静かに目を閉じている。
マサヒコは一人、パチパチと音を立てる焚き火の横で、月の浮かぶ夜空を見上げていた。
(……女神から引き出した複利チートでさっさと強くなって、悠々自適に第2の人生を謳歌しようと思ってたのにな)
焚き火の炎を見つめながら、マサヒコの顔に少しだけ寂しげな表情が浮かぶ。
(どうやらそういう平穏な生活は、しばらくできそうもないな)
小さくため息をつき、マサヒコも毛布に横になった。
そして、眠りにつく。
……深夜。
月の位置が大きく動き、森が深い静けさに包まれた頃。
マサヒコは、ぱちりと目を開けて起き上がった。
隣を見る。
そこにいるはずのネネの姿がない。
毛布だけが残されていた。
「……ネネ? どこ行ったんだ、こんな時間に」
マサヒコが耳を澄ませると、遠くから小さな水音が聞こえた。
ちゃぷん。
静かな森の中で、その音だけがかすかに響く。
(まさか、追手の伏兵か?)
マサヒコは音の正体を確かめるため、すぐにアイテムボックスから剣を取り出した。
柄に手をかけたまま、警戒を強めて歩き出す。
草むらをかき分け、音のする方へ慎重に近づいていく。
だが、茂みの隙間から見えた光景に、マサヒコは足を止めた。
月光が差し込む、静かな泉。
そこで装備を外したネネが、一人で水浴びをしていた。
腰布一枚の彼女のなめらかな褐色の背中を、水滴が伝い落ちていく。
その水滴が月光を反射し、きらきらと輝いていた。
ポニーテールに結われた長い白銀の髪が、かすかに夜風に揺れる。
息を呑むほど、美しい光景だった。
気配に気づいたのか、ネネが無表情のまま、わずかにこちらを振り返る。
「……っ」
予想外の光景に、マサヒコは一瞬だけ息を呑んだ。
頬が、かすかに赤くなる。
だが、すぐに理性を取り戻した。
弁解も謝罪もせず、バッと背を向ける。
そして、一度も振り返らず、早足でその場を立ち去った。
泉に残されたネネは、マサヒコが去った方を見つめる。
それから、夜空の月へ視線を移した。
(……マサヒコか。慌てて去ったな)
ネネは、マサヒコの態度を冷静に考える。
敵意がないことを、改めて確認した。
(殺気もなく、意図的に覗こうという卑劣な意図も感じられなかった。……今回は不問にしてやるか)
*
翌朝。
木漏れ日が差し込む朝の森を、マサヒコとネネは歩いていた。
少し前を歩くネネの美しい後ろ姿。
マサヒコは無意識に視線を奪われていた。
昨夜の水浴びの光景が、何度も頭の中によみがえってしまう。
ピタッ。
背後からの熱い視線に気づいたネネが、突然足を止めた。
振り返る。
いつもの無表情。
だが、その目は明らかにマサヒコを責めていた。
「……マサヒコ。先ほどから、少々視線が無礼だぞ」
「……すまん」
見透かされたマサヒコは、少し気まずそうに視線を外した。
言い訳はしない。
「気にするなとは言わないが、索敵の集中を乱されるのは困る」
ネネは軽く腕を組み、静かに注意した。
それに対して、マサヒコは堂々とした態度で、まっすぐ謝った。
そして、本音も口にする。
「頭では無礼なことだとわかっているんだが……生まれてこの方、あんたほど美しい人を見たことがなくてな。どうにも視線をコントロールできないみたいなんだ。気分を害してしまったなら、本当にすまない」
あまりにまっすぐな言葉に、ネネの動きが止まった。
これまで見せたことのないほど、顔が赤くなる。
氷のようだった無表情が完全に崩れた。
耳まで真っ赤に染まり、信じられないものを見るように瞳が揺れている。
「う……うつくし……っ!?」
限界を迎えたネネは、バッと勢いよくマサヒコに背を向けた。
「……早く行くぞ。もうすぐ国境だ」
動揺を隠すようにそっぽを向いたまま、ぎこちない動きで早足に歩き出す。
その後ろ姿を見つめながら、マサヒコは内心で安心した。
(……どうやら、本気で怒らせたわけじゃなさそうだな)
歩きながら、ネネは小さく咳払いをした。
必死に平静を取り戻そうとしている。
「……コホン。それと、王国の街に入る前に、『マサヒコ』という名は捨てろ。教会の間者に足取りを掴まれる危険がある」
マサヒコも真面目な顔に戻り、頷いた。
「ああ、そうだな。だが偽名か。どうせ名乗るなら、舐められない強そうな名がいいが……」
「『ヴォル』……というのはどうだ?」
ネネが立ち止まり、きりっとした姿でマサヒコを振り返る。
先ほどの動揺は消え、戦士の顔に戻っていた。
「魔族の古語で『強き者』という意味だ。……私がお前に贈る名だ」
「……」
マサヒコは、名に込められた意味を聞いて少し考えた。
それから、自分の胸をドンと叩き、自信家らしい笑みを浮かべる。
「強き者、ね。……悪くない。最高のネーミングセンスだ」
新たな名と決意を胸に、彼――ヴォルは笑った。
「今日から俺は『ヴォル』だ。よろしく頼む」




