内なる地獄 5
アランは扉を見た。
その向こうにいる。
手を伸ばせば、近い。
声をかければ、届くかもしれない。
だが、届くことと、届かせていいことは違う。
それを今のアランは、分かってしまっている。
「……俺が行けば」
言葉が漏れた。
レイの目が冷えた。
「今は、おやめください」
「まだ何も言っていない」
「おっしゃる前に止めています」
アランは一瞬、笑いかけた。
笑いにはならなかった。
「容赦がない」
「必要な分だけです」
「多い」
「減らすと、扉が開きます」
アランの視線が、扉からレイへ戻った。
その返しは、あまりにも正確だった。
扉が開く。そうだ。今、容赦を減らせば、自分はあの扉へ向かう。謝罪か、確認か、ただ顔を見るだけか、名目はいくらでも作れる。
名目はいくらでも作れる男なのだ、自分は。
アランは、机から手を離した。
赤い指の跡が、木目に残る。
「……俺がいるからではないと、言ってほしい」
本音は、また違う形でこぼれた。
レイは黙った。
アランはレイを見ない。
言ってほしい。違うと。セラフィナ様は陛下を避けてなどいませんと。たまたまですと。深い意味はありませんと。優しい嘘でも、都合のいい推測でもいい。
欲しい。
言葉が欲しい。
レイは、静かに口を開いた。
「申し上げられません」
アランの喉が、わずかに動いた。
「代わりに申し上げます」
レイは書類を胸元に抱え直した。
「今、それを確かめに行けば、そうでなかった場合まで、そうだったことに近づきます」
その言葉は、柔らかくなかった。
けれど、扉の前に置かれた重い閂だった。
アランは動かなかった。
扉の向こうにセラフィナがいる。
自室で政務をしている。
この部屋には来ない。
その事実は変わらない。
ただ、今この場でそれに意味を与えるのは、まだ早い。
早いと分かっていても、胸の奥ではもう意味が増殖している。
黒い蔦のように、静かに、勝手に。
アランは低く呟いた。
「……早い、か」
レイは答えた。
「はい」
(早い。今は早い。あと陛下の場合、早い遅い以前に突撃の足が速すぎる)
アランは、扉から視線を外さなかった。
だが、足は動かさなかった。
アランの視線は、扉から離れなかった。
ただ見ているだけのはずなのに、扉の向こうへ何度も手を伸ばしているようだった。
小執務。セラフィナの自室の目の前にある、いつもの場所。普段なら、ここに彼女の書類があり、筆があり、声がある。
今はない。
けれど彼女は、仕事をしている。
アランはその事実を、何度も頭の中で並べ替えた。
倒れていない。休んでいない。政務は続けている。なら、この部屋に来ない理由は体調ではない。仕事ではない。時間でもない。
では、何だ。
答えを出すな。
レイが引いた線の内側へ戻れ。
そう思うほど、その線の縁に爪がかかる。
「……俺が出れば」
レイの目が、ほんのわずかに細くなる。
アランは、低く続けた。
「彼女はここに戻るのか」
言葉は静かだった。
けれど、静かなまま底が抜けていた。
この小執務に戻るかどうか。
その問いは、場所の話をしていない。分かっている。アラン自身も、もう分かっている。
俺がいなければ。
俺がこの部屋から消えれば。
俺の気配がなくなれば。
セラフィナは、いつもの場所を取り戻すのか。
レイは答えなかった。
答えなければ、アランはさらに深く潜る。
答えれば、答えた言葉ごと持っていかれる。
(出た。自分を退ければ世界が正常に戻る仮説。最悪だ。しかも本人の中では論理っぽい顔をしている。やめろ、その仮説は毒入りの椅子だ)
レイは、手元の書類を机へ置いた。
紙が木に触れる音がした。
硬く、現実的な音。
「陛下」
アランは振り返らない。
「それを確かめるために出るのは、おやめください」
アランの指が、机の縁を掴んだ。
「確かめるためではない」
「では、何のためです」
即座に返された問いに、アランの喉が止まる。
何のため。
セラフィナのため。
そう言えば綺麗だ。彼女がこの部屋に戻れるように。彼女が普段通り仕事をできるように。自分が邪魔なら、退けばいい。
だが、その奥で別の声が鳴っている。
戻るか見たい。
戻ったら、自分が原因だったと分かる。
戻らなかったら、まだ別の可能性が残る。
どちらにしても、答えが欲しい。
アランは、ゆっくりと目を伏せた。
「……俺が邪魔なら、退くべきだ」
「それは退く理由ではなく、確認の形です」
レイの声は冷たい。
アランの目が、ようやくレイへ向いた。
そこには怒りが少しだけ混じっていた。怒りというより、逃げ道を塞がれた痛みに近い。
「お前は、何でも確認にするな」
「陛下が、確認にできる形でおっしゃるからです」
(言った。言ってしまった。もう今日は胃に辞表を書かせよう。宰相は残るが胃は退職だ)
アランの口元が、かすかに歪む。
笑いではない。
刺されたところを確かめるような表情だった。
「……俺が出れば、彼女が戻るかもしれない」
「戻るかもしれません」
レイは否定しなかった。
その瞬間、アランの目が揺れた。
レイは続ける。
「戻らないかもしれません」
わずかな揺れが、止まる。
「そして、どちらであっても、陛下はそれに意味を与えます」
アランは黙った。
戻れば、やはり俺がいたからだと思う。
戻らなければ、俺が出ても足りないのだと思う。
どちらに転んでも、自分の中で裁きが始まる。
裁くのは国ではない。
セラフィナの心でもない。
自分自身だ。
アランは、扉を見た。
「……では、ここにいろと」
「今は」
「この部屋の前に」
「はい」
「彼女の自室の、目の前に」
「はい」
短い返答が、釘のように落ちる。
アランは、机の赤へ視線を落とした。
封蝋の粉はまだ残っている。そこに自分の指跡もある。見苦しい。消せる。消さないと言った。
消さないものばかりが増えていく。
「……罰みたいだな」
ぽつりと漏れた声は、低く乾いていた。
レイは、その言葉に少しだけ目を細める。
「罰にする必要はありません」
「俺がそう感じる」
「感じることと、そう扱うことは別です」
アランは、苦く息を吐いた。
「今日のお前は、そればかりだな」
「今日の陛下が、すべて同じ場所へ落とされるからです」
(欲しい。確かめたい。謝りたい。退きたい。全部、同じ穴に落ちていく。穴の底にセラフィナ様の言葉を置くな。置くなってば)
アランは黙った。
部屋の外は近い。
近すぎる。
セラフィナの自室も、近すぎる。
その近さのせいで、動かないことが余計に難しい。
離れていれば、諦められたかもしれない。だが、扉一枚と短い廊下の向こうにいる。そこにいると知っている。政務をしていると知っている。
アランは、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
字は読める。
意味も取れる。
だが、すべての余白に、同じ問いが浮かぶ。
俺が出れば、彼女は戻るのか。
レイはその問いを拾わない。
拾えば、また刃になる。
ただ、静かに告げた。
「ここを出るなら、政務のために出てください。セラフィナ様の反応を見るためではなく」
アランは答えなかった。
答えないまま、椅子の背に手をかける。
座るのか。立ったままでいるのか。出るのか。残るのか。
そのどれも、まだ選ばれていなかった。
扉の外で、侍女の声が低く落ちた。
「……セラフィナ様が、まもなくお部屋を出られるそうです」
その一言だけで、アランの指が止まった。
机の上には、まだ封蝋の赤が残っている。木目に擦れた粉。指先についた薄い跡。見ておくと決めたはずのものが、その瞬間だけ遠のいた。
自室を出る。
なら、扉が開く。
廊下へ出る。
この小執務の前を通る。
アランは、息を吸った。
深くはない。胸の上の方で止まる、浅い呼吸だった。
「……そうか」
声は静かだった。
レイは扉の方を見なかった。見れば、アランも見る。アランが見れば、足が動く。だから、レイは机の上の書類へ目を落としたまま、低く答えた。
「はい」
アランは動かない。
動かないまま、頭の中だけが先に廊下へ出ていた。
会いに行くのではない。
小執務を出るだけだ。
ここにいる必要がなくなったから出る。政務を移すだけだ。空気を入れ替えるだけだ。レイに書類を運ばせるだけだ。偶然、廊下で会うだけだ。
偶然。
その言葉が浮かんだ瞬間、アランの口元がわずかに歪んだ。
偶然を作ろうとしている時点で、それはもう偶然ではない。
分かっている。
分かっていても、足の裏が床の感触を確かめる。立ち上がる前の身体の準備を、勝手に始める。
「レイ」
「はい」
「この部屋を出る」
レイの指が、書類の角で止まった。
表情は動かない。声も乱れない。ただ、その静けさが一段冷える。
「どちらへ」
「どこでもいい」
「では、今でなくてよろしいかと」
即答だった。
アランの目がレイへ向く。
「理由が必要か」
「今の陛下には、必要です」
(必要です。理由は首輪です。外した瞬間、廊下に出る。偶然という名札をつけて)
アランは何も言わなかった。
レイの言葉は正しい。正しいから、癪に障る。今でなければならない理由など、いくらでも作れる。だが、そのどれもが薄い。薄い布の下に、欲が透けて見える。
顔が見たい。
声が聞きたい。
「気にしないで」と言った口で、自分をどう見るのか知りたい。
それだけだ。
それだけでは、駄目だ。
アランは机に置いた手をゆっくり離した。赤い粉が指の腹に残る。
「……俺は、会いに行くとは言っていない」
「はい」
レイは短く返した。
「ですが、会える時刻に合わせて出ようとなさっています」
部屋の空気が、硬く沈んだ。
アランの目が細くなる。怒りではない。逃げ道を、先に踏み抜かれた顔だった。
「お前は、俺を見張っているのか」
「はい」
迷いのない返答だった。
(見張ってます。全力で見張ってます。今の陛下を自由行動にしたら、王城の廊下が恋愛罠になります)
アランは、ほんのわずかに笑った。
乾いていた。笑いというより、喉の奥で折れた音に近い。
「容赦がない」
「必要な分だけです」
「今日は多い」
「今日は、多く必要です」
アランは扉を見た。
見てしまった。
小執務の扉。その向こうに廊下がある。短い距離の先に、セラフィナの自室がある。まもなく、その扉が開く。
今出れば、会える。
ただ出ればいい。
呼んでいない。
押しかけていない。
尋問していない。
謝罪もしていない。
ただ、そこにいるだけ。
だが、その「ただ」が、あまりにも都合よく磨かれている。
アランは低く息を吐いた。
「……近すぎる」
レイは答えなかった。
アランは続けた。
「遠ければ、行かない理由にできた」
「はい」
「だが、目の前だ」
「はい」
「出れば、会える」
「はい」
短い返答が、釘のように落ちる。
アランは扉を見たまま、手を握った。今度は封蝋を砕かない。赤い粉のついた指を、自分の掌へ押し込めるだけだった。
「……会いたい」
その声は、あまりに低かった。
レイは動かなかった。
慰めない。否定しない。咎めもしない。ここで欲そのものを罰すれば、アランは別の名をつけて動く。
「はい」
ただ、受け取った。
アランの眉がわずかに動く。
「止めないのか」
「会いたいことは、止めません」
レイは顔を上げた。
「会いに行くことは、止めます」
アランは黙った。
その違いは、細い。だが今のアランには、その細さだけが残った道だった。欲しいままいる。触れない。言葉を求めない。偶然を作らない。
扉の向こうで、かすかな物音がした。
自室の扉が開く前の、遠い気配。
アランの身体が、ほんのわずかに動いた。
レイが一歩、前へ出る。
「陛下」
低く、硬い声。
アランは扉を見たまま止まった。
「今、出れば偶然ではありません」
その言葉が、閂のように落ちた。
アランは、息を止めたまま扉を見つめていた。
レイの言葉は、短く、硬く、まっすぐだった。
逃げ道に置かれた石のように、そこから先へ足を進ませない。
アランは笑わなかった。
ただ、息を吐く。
浅い息だった。喉の奥に残った熱を、うまく外へ逃がせないままの息。
「……では」
声は低い。
「偶然でなければ、何だ」
レイの目が、わずかに細くなる。
問いの形をしている。
だが、アランはもう答えを聞きたいだけではない。名前をつけようとしている。自分が今、何をしようとしていたのか。小執務を出る、廊下に出る、ただそこにいる。その薄い言い訳の下にあるものへ、指をかけている。
レイはすぐには答えなかった。
扉の向こうで、小さな物音がする。
自室の内側で、誰かが動いている気配。侍女の衣擦れか、書類をまとめる音か、それとも椅子がわずかに引かれた音か。
アランの指が、机の縁に触れた。
「会いに行く、か」
自分で言った。
その言葉は、部屋の中でひどく生々しく響いた。
会いに行く。
呼び出すのではない。
侍女を使うのでもない。
謝罪の名を借りるのでもない。
ただ、会いに行く。
それでも、その「ただ」は軽くならない。
会えば、見る。見れば、読む。読めば、確かめたくなる。確かめたくなれば、また言葉を求める。
アランは、赤い粉のついた指を見下ろした。
「違うな」
低く、吐き捨てるように言った。
「会いに行くだけなら、まだましだ」
レイが、静かに心の中で頭を抱えた。
(ましの基準が崩壊している。いや、本人が崩壊を認識しているだけ偉いのか。偉いとは何だ。胃に聞くな、胃は死んだ)
アランは続けた。
「俺は、彼女が俺を見るか知りたい。俺を避けているのか知りたい。気にしないでと言った顔で、俺の前を通れるのか知りたい」
ひとつずつ、剥がれていく。
声は荒れない。
荒れないまま、手の中で刃を並べるように言葉が出る。
「それを偶然と呼ぼうとした」
レイは黙って聞いていた。
止めない。
今止めれば、アランはその先をまた別の形で隠す。ここまで出てきたものを途中で押し戻せば、次はもっと上手く偽装される。
アランは、扉へ視線を戻した。
「……醜いな」
その一言だけ、少し掠れた。
レイは、そこでようやく口を開いた。
「欲そのものより、偽る方が危険です」
アランの目がレイへ向く。
「欲ならいいのか」
「良いとは申し上げていません」
レイの声は冷たい。
「ただ、欲だと分かっているものは止められます。偶然や配慮の顔をしたものは、止めにくい」
(本当にやめてくれ、偶然の仮面。あれは質が悪い。しかも陛下が被ると妙に似合う。似合うな)
アランは口元を歪めた。
「俺は、止められているのか」
「はい」
「お前に」
「はい」
「俺自身にも」
レイは一拍置いた。
「今は、かろうじて」
その言葉に、アランの指がわずかに動いた。
かろうじて。ひどく正確だった。
自分は止まっている。
止まっているが、立っている場所は扉の前だ。欲の爪先はもう廊下に出ている。身体だけが、まだ小執務に残っている。
扉の向こうで、また音がした。
今度は少し近い。
アランの肩が、ほんのわずかに揺れる。
それをレイは見逃さなかった。
「陛下」
低い声。
アランは扉から目を離さない。
「今、出れば、セラフィナ様の言葉を試すことになります」
アランの目が細くなった。
「試す」
「はい」
レイは一歩も退かない。
「『気にしないで』とおっしゃった方の前に、気にしている顔で立つことになります」
部屋の空気が沈む。
アランは何も言わなかった。
それは、あまりにも正しかった。
気にしないで。そう言われた。なのに、その言葉を胸に抱えて、今すぐ彼女の前へ出ようとしている。見てくれと。読んでくれと。俺が気にしていることに、気づいてくれと。
何もしないと言いながら、全身で問いを持って行く。




