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『女神遊戯』中編  作者: 未来野あゆみ


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5/7

内なる地獄 5

アランは扉を見た。


その向こうにいる。

手を伸ばせば、近い。

声をかければ、届くかもしれない。


だが、届くことと、届かせていいことは違う。


それを今のアランは、分かってしまっている。


「……俺が行けば」


言葉が漏れた。


レイの目が冷えた。


「今は、おやめください」


「まだ何も言っていない」


「おっしゃる前に止めています」


アランは一瞬、笑いかけた。

笑いにはならなかった。


「容赦がない」


「必要な分だけです」


「多い」


「減らすと、扉が開きます」


アランの視線が、扉からレイへ戻った。


その返しは、あまりにも正確だった。

扉が開く。そうだ。今、容赦を減らせば、自分はあの扉へ向かう。謝罪か、確認か、ただ顔を見るだけか、名目はいくらでも作れる。


名目はいくらでも作れる男なのだ、自分は。


アランは、机から手を離した。


赤い指の跡が、木目に残る。


「……俺がいるからではないと、言ってほしい」


本音は、また違う形でこぼれた。


レイは黙った。


アランはレイを見ない。

言ってほしい。違うと。セラフィナ様は陛下を避けてなどいませんと。たまたまですと。深い意味はありませんと。優しい嘘でも、都合のいい推測でもいい。


欲しい。


言葉が欲しい。


レイは、静かに口を開いた。


「申し上げられません」


アランの喉が、わずかに動いた。


「代わりに申し上げます」


レイは書類を胸元に抱え直した。


「今、それを確かめに行けば、そうでなかった場合まで、そうだったことに近づきます」


その言葉は、柔らかくなかった。

けれど、扉の前に置かれた重い閂だった。


アランは動かなかった。


扉の向こうにセラフィナがいる。

自室で政務をしている。

この部屋には来ない。


その事実は変わらない。


ただ、今この場でそれに意味を与えるのは、まだ早い。


早いと分かっていても、胸の奥ではもう意味が増殖している。

黒い蔦のように、静かに、勝手に。


アランは低く呟いた。


「……早い、か」


レイは答えた。


「はい」


(早い。今は早い。あと陛下の場合、早い遅い以前に突撃の足が速すぎる)


アランは、扉から視線を外さなかった。


だが、足は動かさなかった。


アランの視線は、扉から離れなかった。


ただ見ているだけのはずなのに、扉の向こうへ何度も手を伸ばしているようだった。

小執務。セラフィナの自室の目の前にある、いつもの場所。普段なら、ここに彼女の書類があり、筆があり、声がある。


今はない。


けれど彼女は、仕事をしている。


アランはその事実を、何度も頭の中で並べ替えた。

倒れていない。休んでいない。政務は続けている。なら、この部屋に来ない理由は体調ではない。仕事ではない。時間でもない。


では、何だ。


答えを出すな。

レイが引いた線の内側へ戻れ。


そう思うほど、その線の縁に爪がかかる。


「……俺が出れば」


レイの目が、ほんのわずかに細くなる。


アランは、低く続けた。


「彼女はここに戻るのか」


言葉は静かだった。

けれど、静かなまま底が抜けていた。


この小執務に戻るかどうか。

その問いは、場所の話をしていない。分かっている。アラン自身も、もう分かっている。


俺がいなければ。

俺がこの部屋から消えれば。

俺の気配がなくなれば。


セラフィナは、いつもの場所を取り戻すのか。


レイは答えなかった。


答えなければ、アランはさらに深く潜る。

答えれば、答えた言葉ごと持っていかれる。


(出た。自分を退ければ世界が正常に戻る仮説。最悪だ。しかも本人の中では論理っぽい顔をしている。やめろ、その仮説は毒入りの椅子だ)


レイは、手元の書類を机へ置いた。


紙が木に触れる音がした。

硬く、現実的な音。


「陛下」


アランは振り返らない。


「それを確かめるために出るのは、おやめください」


アランの指が、机の縁を掴んだ。


「確かめるためではない」


「では、何のためです」


即座に返された問いに、アランの喉が止まる。


何のため。


セラフィナのため。

そう言えば綺麗だ。彼女がこの部屋に戻れるように。彼女が普段通り仕事をできるように。自分が邪魔なら、退けばいい。


だが、その奥で別の声が鳴っている。


戻るか見たい。

戻ったら、自分が原因だったと分かる。

戻らなかったら、まだ別の可能性が残る。


どちらにしても、答えが欲しい。


アランは、ゆっくりと目を伏せた。


「……俺が邪魔なら、退くべきだ」


「それは退く理由ではなく、確認の形です」


レイの声は冷たい。


アランの目が、ようやくレイへ向いた。

そこには怒りが少しだけ混じっていた。怒りというより、逃げ道を塞がれた痛みに近い。


「お前は、何でも確認にするな」


「陛下が、確認にできる形でおっしゃるからです」


(言った。言ってしまった。もう今日は胃に辞表を書かせよう。宰相は残るが胃は退職だ)


アランの口元が、かすかに歪む。


笑いではない。

刺されたところを確かめるような表情だった。


「……俺が出れば、彼女が戻るかもしれない」


「戻るかもしれません」


レイは否定しなかった。


その瞬間、アランの目が揺れた。


レイは続ける。


「戻らないかもしれません」


わずかな揺れが、止まる。


「そして、どちらであっても、陛下はそれに意味を与えます」


アランは黙った。


戻れば、やはり俺がいたからだと思う。

戻らなければ、俺が出ても足りないのだと思う。

どちらに転んでも、自分の中で裁きが始まる。


裁くのは国ではない。

セラフィナの心でもない。


自分自身だ。


アランは、扉を見た。


「……では、ここにいろと」


「今は」


「この部屋の前に」


「はい」


「彼女の自室の、目の前に」


「はい」


短い返答が、釘のように落ちる。


アランは、机の赤へ視線を落とした。

封蝋の粉はまだ残っている。そこに自分の指跡もある。見苦しい。消せる。消さないと言った。


消さないものばかりが増えていく。


「……罰みたいだな」


ぽつりと漏れた声は、低く乾いていた。


レイは、その言葉に少しだけ目を細める。


「罰にする必要はありません」


「俺がそう感じる」


「感じることと、そう扱うことは別です」


アランは、苦く息を吐いた。


「今日のお前は、そればかりだな」


「今日の陛下が、すべて同じ場所へ落とされるからです」


(欲しい。確かめたい。謝りたい。退きたい。全部、同じ穴に落ちていく。穴の底にセラフィナ様の言葉を置くな。置くなってば)


アランは黙った。


部屋の外は近い。

近すぎる。


セラフィナの自室も、近すぎる。


その近さのせいで、動かないことが余計に難しい。

離れていれば、諦められたかもしれない。だが、扉一枚と短い廊下の向こうにいる。そこにいると知っている。政務をしていると知っている。


アランは、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。


字は読める。

意味も取れる。


だが、すべての余白に、同じ問いが浮かぶ。


俺が出れば、彼女は戻るのか。


レイはその問いを拾わない。

拾えば、また刃になる。


ただ、静かに告げた。


「ここを出るなら、政務のために出てください。セラフィナ様の反応を見るためではなく」


アランは答えなかった。


答えないまま、椅子の背に手をかける。

座るのか。立ったままでいるのか。出るのか。残るのか。


そのどれも、まだ選ばれていなかった。


扉の外で、侍女の声が低く落ちた。


「……セラフィナ様が、まもなくお部屋を出られるそうです」


その一言だけで、アランの指が止まった。


机の上には、まだ封蝋の赤が残っている。木目に擦れた粉。指先についた薄い跡。見ておくと決めたはずのものが、その瞬間だけ遠のいた。


自室を出る。


なら、扉が開く。

廊下へ出る。

この小執務の前を通る。


アランは、息を吸った。


深くはない。胸の上の方で止まる、浅い呼吸だった。


「……そうか」


声は静かだった。


レイは扉の方を見なかった。見れば、アランも見る。アランが見れば、足が動く。だから、レイは机の上の書類へ目を落としたまま、低く答えた。


「はい」


アランは動かない。


動かないまま、頭の中だけが先に廊下へ出ていた。


会いに行くのではない。

小執務を出るだけだ。

ここにいる必要がなくなったから出る。政務を移すだけだ。空気を入れ替えるだけだ。レイに書類を運ばせるだけだ。偶然、廊下で会うだけだ。


偶然。


その言葉が浮かんだ瞬間、アランの口元がわずかに歪んだ。


偶然を作ろうとしている時点で、それはもう偶然ではない。


分かっている。


分かっていても、足の裏が床の感触を確かめる。立ち上がる前の身体の準備を、勝手に始める。


「レイ」


「はい」


「この部屋を出る」


レイの指が、書類の角で止まった。


表情は動かない。声も乱れない。ただ、その静けさが一段冷える。


「どちらへ」


「どこでもいい」


「では、今でなくてよろしいかと」


即答だった。


アランの目がレイへ向く。


「理由が必要か」


「今の陛下には、必要です」


(必要です。理由は首輪です。外した瞬間、廊下に出る。偶然という名札をつけて)


アランは何も言わなかった。


レイの言葉は正しい。正しいから、癪に障る。今でなければならない理由など、いくらでも作れる。だが、そのどれもが薄い。薄い布の下に、欲が透けて見える。


顔が見たい。

声が聞きたい。

「気にしないで」と言った口で、自分をどう見るのか知りたい。


それだけだ。


それだけでは、駄目だ。


アランは机に置いた手をゆっくり離した。赤い粉が指の腹に残る。


「……俺は、会いに行くとは言っていない」


「はい」


レイは短く返した。


「ですが、会える時刻に合わせて出ようとなさっています」


部屋の空気が、硬く沈んだ。


アランの目が細くなる。怒りではない。逃げ道を、先に踏み抜かれた顔だった。


「お前は、俺を見張っているのか」


「はい」


迷いのない返答だった。


(見張ってます。全力で見張ってます。今の陛下を自由行動にしたら、王城の廊下が恋愛罠になります)


アランは、ほんのわずかに笑った。


乾いていた。笑いというより、喉の奥で折れた音に近い。


「容赦がない」


「必要な分だけです」


「今日は多い」


「今日は、多く必要です」


アランは扉を見た。


見てしまった。


小執務の扉。その向こうに廊下がある。短い距離の先に、セラフィナの自室がある。まもなく、その扉が開く。


今出れば、会える。


ただ出ればいい。


呼んでいない。

押しかけていない。

尋問していない。

謝罪もしていない。


ただ、そこにいるだけ。


だが、その「ただ」が、あまりにも都合よく磨かれている。


アランは低く息を吐いた。


「……近すぎる」


レイは答えなかった。


アランは続けた。


「遠ければ、行かない理由にできた」


「はい」


「だが、目の前だ」


「はい」


「出れば、会える」


「はい」


短い返答が、釘のように落ちる。


アランは扉を見たまま、手を握った。今度は封蝋を砕かない。赤い粉のついた指を、自分の掌へ押し込めるだけだった。


「……会いたい」


その声は、あまりに低かった。


レイは動かなかった。

慰めない。否定しない。咎めもしない。ここで欲そのものを罰すれば、アランは別の名をつけて動く。


「はい」


ただ、受け取った。


アランの眉がわずかに動く。


「止めないのか」


「会いたいことは、止めません」


レイは顔を上げた。


「会いに行くことは、止めます」


アランは黙った。


その違いは、細い。だが今のアランには、その細さだけが残った道だった。欲しいままいる。触れない。言葉を求めない。偶然を作らない。


扉の向こうで、かすかな物音がした。


自室の扉が開く前の、遠い気配。


アランの身体が、ほんのわずかに動いた。


レイが一歩、前へ出る。


「陛下」


低く、硬い声。


アランは扉を見たまま止まった。


「今、出れば偶然ではありません」


その言葉が、閂のように落ちた。


アランは、息を止めたまま扉を見つめていた。


レイの言葉は、短く、硬く、まっすぐだった。

逃げ道に置かれた石のように、そこから先へ足を進ませない。


アランは笑わなかった。


ただ、息を吐く。

浅い息だった。喉の奥に残った熱を、うまく外へ逃がせないままの息。


「……では」


声は低い。


「偶然でなければ、何だ」


レイの目が、わずかに細くなる。


問いの形をしている。

だが、アランはもう答えを聞きたいだけではない。名前をつけようとしている。自分が今、何をしようとしていたのか。小執務を出る、廊下に出る、ただそこにいる。その薄い言い訳の下にあるものへ、指をかけている。


レイはすぐには答えなかった。


扉の向こうで、小さな物音がする。

自室の内側で、誰かが動いている気配。侍女の衣擦れか、書類をまとめる音か、それとも椅子がわずかに引かれた音か。


アランの指が、机の縁に触れた。


「会いに行く、か」


自分で言った。


その言葉は、部屋の中でひどく生々しく響いた。


会いに行く。


呼び出すのではない。

侍女を使うのでもない。

謝罪の名を借りるのでもない。


ただ、会いに行く。


それでも、その「ただ」は軽くならない。

会えば、見る。見れば、読む。読めば、確かめたくなる。確かめたくなれば、また言葉を求める。


アランは、赤い粉のついた指を見下ろした。


「違うな」


低く、吐き捨てるように言った。


「会いに行くだけなら、まだましだ」


レイが、静かに心の中で頭を抱えた。


(ましの基準が崩壊している。いや、本人が崩壊を認識しているだけ偉いのか。偉いとは何だ。胃に聞くな、胃は死んだ)


アランは続けた。


「俺は、彼女が俺を見るか知りたい。俺を避けているのか知りたい。気にしないでと言った顔で、俺の前を通れるのか知りたい」


ひとつずつ、剥がれていく。


声は荒れない。

荒れないまま、手の中で刃を並べるように言葉が出る。


「それを偶然と呼ぼうとした」


レイは黙って聞いていた。


止めない。

今止めれば、アランはその先をまた別の形で隠す。ここまで出てきたものを途中で押し戻せば、次はもっと上手く偽装される。


アランは、扉へ視線を戻した。


「……醜いな」


その一言だけ、少し掠れた。


レイは、そこでようやく口を開いた。


「欲そのものより、偽る方が危険です」


アランの目がレイへ向く。


「欲ならいいのか」


「良いとは申し上げていません」


レイの声は冷たい。


「ただ、欲だと分かっているものは止められます。偶然や配慮の顔をしたものは、止めにくい」


(本当にやめてくれ、偶然の仮面。あれは質が悪い。しかも陛下が被ると妙に似合う。似合うな)


アランは口元を歪めた。


「俺は、止められているのか」


「はい」


「お前に」


「はい」


「俺自身にも」


レイは一拍置いた。


「今は、かろうじて」


その言葉に、アランの指がわずかに動いた。

かろうじて。ひどく正確だった。


自分は止まっている。

止まっているが、立っている場所は扉の前だ。欲の爪先はもう廊下に出ている。身体だけが、まだ小執務に残っている。


扉の向こうで、また音がした。


今度は少し近い。


アランの肩が、ほんのわずかに揺れる。

それをレイは見逃さなかった。


「陛下」


低い声。


アランは扉から目を離さない。


「今、出れば、セラフィナ様の言葉を試すことになります」


アランの目が細くなった。


「試す」


「はい」


レイは一歩も退かない。


「『気にしないで』とおっしゃった方の前に、気にしている顔で立つことになります」


部屋の空気が沈む。


アランは何も言わなかった。


それは、あまりにも正しかった。

気にしないで。そう言われた。なのに、その言葉を胸に抱えて、今すぐ彼女の前へ出ようとしている。見てくれと。読んでくれと。俺が気にしていることに、気づいてくれと。


何もしないと言いながら、全身で問いを持って行く。


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