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『女神遊戯』中編  作者: 未来野あゆみ


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6/7

内なる地獄 6

アランは、机に残った赤を見た。


「……俺は」


声が落ちる。


「気にするなと言われて、気にしている顔を見せに行こうとしていたのか」


レイは答えない。


答えなくても、アランの中で答えは出た。


アランは、ゆっくりと手を机から離した。

赤い指跡が木目に残る。


「悪いな」


誰に向けた言葉なのか、曖昧だった。

レイにか。扉の向こうのセラフィナにか。自分自身にか。侍女にか。


レイは、そこを拾わなかった。


「まだ、行っておられません」


アランの目が、レイを見る。


「だから何だ」


「まだ、止まれます」


その言葉は、慰めではなかった。

だが、救命の縄のように無骨だった。


アランはしばらく黙っていた。


扉の向こうで、気配が動く。

まもなく、セラフィナが出てくる。今なら間に合う。出れば会える。出なければ、会わずに済む。


会いたい。


その欲は、消えない。


アランは低く言った。


「……会いたい」


二度目だった。


レイは、同じように受け取った。


「はい」


「会いに行きたい」


「はい」


「偶然ではない」


「はい」


アランは、目を閉じなかった。

扉を見たまま、喉の奥で何かを噛み潰す。


「なら、行けない」


その言葉は、敗北のように聞こえた。


レイは、静かに答えた。


「今は」


アランの指先に、赤い粉がまだ残っている。

彼はそれを見下ろし、ようやく扉から視線を外した。


「……手を洗う」


レイは一礼した。


「はい」


アランはまだ動かない。

だが、今度は扉ではなく、自分の手を見ていた。


それだけで、レイはほんの少しだけ息を通した。


(勝ったとは言わない。勝ってない。これは一歩ずらしただけ。だが一歩ずれた。扉から、手へ。上出来だ、胃。まだ生きろ)


扉の向こうで、衣擦れの音が近づいた。


アランは、その音を聞いた。


聞いたまま、足を出さなかった。


扉の向こうで、衣擦れの音が近づいた。


アランは動かなかった。

動かなかった、はずだった。


コンコン。


控えめな音が、小執務の空気を叩く。


レイが扉へ視線を向けるより早く、アランの身体が反応していた。肩の奥が強張り、机に置いていた指が浮く。封蝋の赤が指の腹に残っている。洗うと言った。だが、まだ洗っていない。


もう一度、コン、と小さく鳴った。


レイはアランを見た。

出るな、と声にしない目だった。


アランは答えなかった。

答える前に、視線だけが扉へ行っていた。


レイが扉を開ける。


入ってきたのは、セラフィナ付きの侍女だった。

侍女は深く一礼する。先ほどよりも慎重だった。膝を折る角度も、声の置き方も、薄い硝子を両手で運ぶように整えられている。


「失礼いたします。セラフィナ様より、書類をお預かりするよう申しつかっております」


セラフィナ様。


その名だけで、アランの喉が動いた。


「書類」


声が出ていた。


侍女の指先がわずかに固まる。


レイが答える前に、アランは続けた。


「何の書類だ」


「東部領の水路改修案と、王都配給記録の写しを、と……」


場所は分かる。


机の左側。

封蝋の赤が残るところから少し離れた束。


アランは、ほとんど反射で手を伸ばした。


レイの目が鋭くなる。


「陛下」


呼ばれても、手は止まらなかった。


書類の端に触れる。紙の感触。薄い束。セラフィナが必要としているもの。彼女が自室で政務を続けるためのもの。


これを渡せばいい。


ただ渡すだけだ。

用件がある。政務だ。偶然ではない。押しかけてもいない。呼び出してもいない。侍女を使って探ったのではない。書類を届けるだけ。


理屈が、一瞬で並ぶ。


並んだ時には、アランはもう書類を持っていた。


侍女が小さく息を呑む。


「……セラフィナ様は、扉の前でお待ちです」


扉の前。


その言葉で、アランの足が半歩動いた。


レイが動く。


一歩。

たった一歩なのに、アランと扉の線を断つ位置だった。


「陛下」


「退け」


低い声だった。


命令の形をしている。

だが、その底にあるのは苛立ちだけではない。焦り。飢え。近すぎる場所に欲しいものを置かれて、喉を掴まれたような熱。


「私がお渡しします」


「俺が持っている」


「はい」


「なら、俺が渡せばいい」


アランは書類を握ったまま、さらに一歩踏み出そうとした。


レイは退かない。


「今の陛下は、書類を渡すために動いておられません」


アランの目が鋭くなる。


「お前が決めるのか」


「見れば分かります」


レイの声は冷たい。


侍女は頭を下げたまま動けない。

扉の向こうにセラフィナがいる。すぐそこに。手を伸ばせば届く距離に。声をかければ聞こえるかもしれない場所に。


アランはそれを知っている。


知っているから、書類を握る手に力が入る。紙の端がわずかに歪んだ。


(握るな。書類を握るな。政務が人質になっている。紙、耐えろ。お前は今、王の衝動と妃の政務の板挟みだ)


「書類を渡すだけだ」


アランは言った。


「そうおっしゃる顔ではありません」


「どんな顔だ」


「言葉を求める顔です」


その一言に、アランの足が止まった。


止まっただけで、戻ってはいない。

書類はまだアランの手の中にある。扉は近い。侍女は固まっている。レイは間に立っている。


そして、扉の前にはセラフィナがいる。


アランの呼吸が、浅くなる。


「……俺は」


言葉が喉で詰まる。


違う。書類だ。政務だ。必要なことだ。

だが、違う。


違うと分かっている。


アランは、扉を見た。

見てしまった。


「俺は、ただ」


その先が出ない。


ただ渡す。

ただ顔を見る。

ただ声を聞く。

ただ、彼女が自分をどう見るか知る。


ただ、が増えすぎて、もう言葉にならない。


レイは手を差し出した。


「書類を」


アランは渡さない。


紙の端が、また小さく鳴った。


「陛下」


レイの声が低くなる。


「それを持ったままでは、止まれません」


アランの目が、レイを見る。


しばらく、二人の間で書類だけが動かなかった。

侍女の呼吸も、廊下の気配も、すべてが細く張り詰める。


やがて、アランは歯を噛んだ。


書類を手放す。


レイが受け取った瞬間、アランの指先から紙の感触が消えた。

消えた途端、欲だけが残った。


会いたい。


その一語が、胸の奥で剥き出しになる。


アランは低く言った。


「……渡せ」


レイは一礼した。


「承知しました」


侍女が両手を差し出す。

レイが書類を渡す。


アランは扉を見ていた。


見ないと決めていたのに、見ていた。


その向こうにセラフィナがいる。

今、書類を受け取る。すぐそこにいる。


アランの喉が、かすかに動いた。


名前を呼びかけて、止まる。


セラフィナ。


その音は、声にならなかった。


レイが書類を侍女へ渡す。


侍女は両手で受け取った。

深く礼をして、扉へ向かう。


その動きは静かだった。

ただ書類を運ぶだけの、何の変哲もない動作だった。


だが、その先にセラフィナがいる。


扉の向こう。

すぐそこに。


アランは、机の上に残った封蝋の赤を見ていた。

見ているはずだった。だが、目は赤を捉えていない。指先に残った粉も、乾いた痛みも、もう遠い。


侍女の手が取っ手にかかる。


カチャ、と小さな音がした。


その音が、何かを切った。


「待て」


声が出た。


レイの顔が、わずかに動く。


侍女の肩が跳ねる。

扉はまだ開ききっていない。細く開いた隙間から、廊下の光が差し込んでいる。


アランは立っていた。


いつ立ったのか、自分でも分からなかった。

椅子がわずかに軋む音だけが遅れて耳に届く。


「陛下」


レイの声が低く落ちる。


止める声だった。

だが、もう遅い。


アランは机を回り込んだ。歩幅は荒くない。走ってもいない。けれど、止まる余地がない歩き方だった。床を踏むたび、理性が後ろへ置いていかれる。


「陛下」


もう一度、レイが呼ぶ。


アランは答えなかった。


侍女は扉の前で固まっている。書類を抱えたまま、どうすればいいか分からず、視線を落としている。


その横を、アランは通った。


レイが一歩前へ出る。


だが、アランは止まらない。


「退け」


短い声。


王の命令だった。

恋に焼けた男の声でもあった。どちらか一つではなかったから、余計にたちが悪い。


レイは退かなかった。


「今は、おやめください」


「今でなければ、もう逃げる」


アランの声が、低く掠れた。


レイの目が細くなる。


「セラフィナ様が、ですか」


アランは一瞬だけ止まった。


違う。


逃げるのは、セラフィナではない。

逃げると決めつけようとしているのは自分だ。彼女が自室で政務をしているだけで、ここに来ないだけで、何でもないと言っただけで、気にしないでと言っただけで。


それを全部、避けられた証拠にしようとしている。


分かっている。


分かっているのに、足が止まらない。


「……俺がだ」


吐き出した声は、ほとんど歯の間から落ちた。


レイの表情が、ほんのわずかに冷える。


「なら、なおさらです」


アランは、レイを見た。


「なおさら、止めるな」


その声には、もう言い訳がなかった。


偶然ではない。

政務でもない。

書類を渡すだけでもない。


会いたい。


言葉が欲しい。

顔を見たい。

自分をどう見るのか知りたい。

避けているなら、避けている顔を見たい。避けていないなら、そうだと目で分かりたい。


それがどれだけ勝手な欲か分かっている。


だが、分かることと止まれることは違った。


レイは心の中で、床へ額を打ちつけた。


(負けた。衝動が勝った。理性は今、廊下の隅で書類を抱えて泣いている。止めろ。止めたい。だが王の足が速い。恋の脚力、最悪)


アランは、扉へ手を伸ばした。


赤い粉のついた指が、取っ手に触れる。


その瞬間、彼は自分の手を見た。


まだ洗っていない。

封蝋の赤が残ったままの手。


この手で行くのか。


そう思った。


思ったが、手は離れなかった。


扉を開ける。


廊下の空気が流れ込んだ。


そこに、セラフィナがいた。


アランは息を止めた。


侍女が慌てて身を引く。

レイが後ろで止まる。小執務の中の空気が、扉の外へこぼれる。


アランは、セラフィナの前に出た。


近い。


近すぎる。


さっきまで扉一枚の向こうだった距離が、今はもう言葉を落とせば届く距離になっている。


何を言えばいい。

謝罪か。確認か。政務か。偶然か。違う。全部違う。どれも、今さら被せるには薄すぎる。


アランの喉が動いた。


「……セラフィナ」


名前が出た。


それだけで、胸の奥がひどく軋む。


彼は自分の赤い指先を一瞬見て、それからもう逃げずに顔を上げた。


「すまない」


謝罪は出た。

だが、それだけでは終わらなかった。


「気にしないでと言われても、できなかった」


言った瞬間、レイが小執務の中で目だけを閉じた。


(言った。全部出した。もう包装紙が燃えた。中身が直火で出た)


アランは続けた。


声は低い。

押しつけないようにしようとしているのに、言葉そのものが重い。重いと分かっているのに、止められない。


「何でもないと言われても、気にしないでと言われても、俺は気にした。考えた。勝手に読んだ。侍女に聞いた。待とうとした。待てたと思った。違った」


息が浅くなる。


「お前がそこにいると聞いて、会いたいと思った」


言ってしまった。


もう戻せない。


アランは、取っ手から手を離した。

赤い粉のついた指が、だらりと下がる。


「偶然にしたかった。政務にしたかった。書類を渡すだけにしたかった」


喉が焼ける。


「だが、違う」


アランの声が、少しだけ低くなる。


「俺は、お前に会いに来た」


言い切った。


その後の沈黙は、あまりにも近かった。


レイは動かない。

侍女も動けない。

小執務の扉は開いたまま、赤い封蝋の残った机が背後に見えている。


アランはセラフィナを見ていた。


何かを求めるな。

言葉を迫るな。

反応を奪うな。


そう言い聞かせるほど、喉の奥に次の言葉がせり上がる。


それでも、彼はかろうじて飲み込んだ。


最後に出たのは、掠れた一言だけだった。


「……今、返事はいらない」


言った直後、自分で分かった。


返事はいらない。


それは、返事が欲しい男の言葉だった。


そう言った直後だった。


アランの指が、ぴくりと動いた。


返事はいらない。


その言葉が、自分の口から出た瞬間、遅れて意味が追いついてくる。

いらない。違う。欲しい。欲しいから、いらないと言った。欲しいと見えないように、いらないと言った。


喉の奥が焼けた。


アランは、自分の口を押さえた。


赤い封蝋の粉がついた指が、唇に触れる。乾いたざらつき。血ではない赤が、言葉を塞ぐようにそこへ残った。


「……違う」


声にならないほど低い。


違う。

返事はいらないと言いながら、返事を待っていた。

言葉はいらないと言いながら、言葉が欲しかった。

押しつけないふりをして、押しつけた。


アランの視線が、セラフィナの前で揺れる。


言い直せ。

今すぐ取り消せ。

何も言うな。

謝れ。

黙れ。

戻れ。

近づくな。


命令がいくつも頭の中でぶつかり、どれも形にならない。


その前で、セラフィナは何も言わなかった。


ただ、無言のまま身を翻す。


衣擦れの音が、ひどく静かに廊下へ落ちた。


アランの呼吸が止まる。


セラフィナは自室へ戻っていく。

責めない。問わない。許さない。拒絶の言葉も置かない。何も置かずに、扉の向こうへ戻る。


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