内なる地獄 6
アランは、机に残った赤を見た。
「……俺は」
声が落ちる。
「気にするなと言われて、気にしている顔を見せに行こうとしていたのか」
レイは答えない。
答えなくても、アランの中で答えは出た。
アランは、ゆっくりと手を机から離した。
赤い指跡が木目に残る。
「悪いな」
誰に向けた言葉なのか、曖昧だった。
レイにか。扉の向こうのセラフィナにか。自分自身にか。侍女にか。
レイは、そこを拾わなかった。
「まだ、行っておられません」
アランの目が、レイを見る。
「だから何だ」
「まだ、止まれます」
その言葉は、慰めではなかった。
だが、救命の縄のように無骨だった。
アランはしばらく黙っていた。
扉の向こうで、気配が動く。
まもなく、セラフィナが出てくる。今なら間に合う。出れば会える。出なければ、会わずに済む。
会いたい。
その欲は、消えない。
アランは低く言った。
「……会いたい」
二度目だった。
レイは、同じように受け取った。
「はい」
「会いに行きたい」
「はい」
「偶然ではない」
「はい」
アランは、目を閉じなかった。
扉を見たまま、喉の奥で何かを噛み潰す。
「なら、行けない」
その言葉は、敗北のように聞こえた。
レイは、静かに答えた。
「今は」
アランの指先に、赤い粉がまだ残っている。
彼はそれを見下ろし、ようやく扉から視線を外した。
「……手を洗う」
レイは一礼した。
「はい」
アランはまだ動かない。
だが、今度は扉ではなく、自分の手を見ていた。
それだけで、レイはほんの少しだけ息を通した。
(勝ったとは言わない。勝ってない。これは一歩ずらしただけ。だが一歩ずれた。扉から、手へ。上出来だ、胃。まだ生きろ)
扉の向こうで、衣擦れの音が近づいた。
アランは、その音を聞いた。
聞いたまま、足を出さなかった。
扉の向こうで、衣擦れの音が近づいた。
アランは動かなかった。
動かなかった、はずだった。
コンコン。
控えめな音が、小執務の空気を叩く。
レイが扉へ視線を向けるより早く、アランの身体が反応していた。肩の奥が強張り、机に置いていた指が浮く。封蝋の赤が指の腹に残っている。洗うと言った。だが、まだ洗っていない。
もう一度、コン、と小さく鳴った。
レイはアランを見た。
出るな、と声にしない目だった。
アランは答えなかった。
答える前に、視線だけが扉へ行っていた。
レイが扉を開ける。
入ってきたのは、セラフィナ付きの侍女だった。
侍女は深く一礼する。先ほどよりも慎重だった。膝を折る角度も、声の置き方も、薄い硝子を両手で運ぶように整えられている。
「失礼いたします。セラフィナ様より、書類をお預かりするよう申しつかっております」
セラフィナ様。
その名だけで、アランの喉が動いた。
「書類」
声が出ていた。
侍女の指先がわずかに固まる。
レイが答える前に、アランは続けた。
「何の書類だ」
「東部領の水路改修案と、王都配給記録の写しを、と……」
場所は分かる。
机の左側。
封蝋の赤が残るところから少し離れた束。
アランは、ほとんど反射で手を伸ばした。
レイの目が鋭くなる。
「陛下」
呼ばれても、手は止まらなかった。
書類の端に触れる。紙の感触。薄い束。セラフィナが必要としているもの。彼女が自室で政務を続けるためのもの。
これを渡せばいい。
ただ渡すだけだ。
用件がある。政務だ。偶然ではない。押しかけてもいない。呼び出してもいない。侍女を使って探ったのではない。書類を届けるだけ。
理屈が、一瞬で並ぶ。
並んだ時には、アランはもう書類を持っていた。
侍女が小さく息を呑む。
「……セラフィナ様は、扉の前でお待ちです」
扉の前。
その言葉で、アランの足が半歩動いた。
レイが動く。
一歩。
たった一歩なのに、アランと扉の線を断つ位置だった。
「陛下」
「退け」
低い声だった。
命令の形をしている。
だが、その底にあるのは苛立ちだけではない。焦り。飢え。近すぎる場所に欲しいものを置かれて、喉を掴まれたような熱。
「私がお渡しします」
「俺が持っている」
「はい」
「なら、俺が渡せばいい」
アランは書類を握ったまま、さらに一歩踏み出そうとした。
レイは退かない。
「今の陛下は、書類を渡すために動いておられません」
アランの目が鋭くなる。
「お前が決めるのか」
「見れば分かります」
レイの声は冷たい。
侍女は頭を下げたまま動けない。
扉の向こうにセラフィナがいる。すぐそこに。手を伸ばせば届く距離に。声をかければ聞こえるかもしれない場所に。
アランはそれを知っている。
知っているから、書類を握る手に力が入る。紙の端がわずかに歪んだ。
(握るな。書類を握るな。政務が人質になっている。紙、耐えろ。お前は今、王の衝動と妃の政務の板挟みだ)
「書類を渡すだけだ」
アランは言った。
「そうおっしゃる顔ではありません」
「どんな顔だ」
「言葉を求める顔です」
その一言に、アランの足が止まった。
止まっただけで、戻ってはいない。
書類はまだアランの手の中にある。扉は近い。侍女は固まっている。レイは間に立っている。
そして、扉の前にはセラフィナがいる。
アランの呼吸が、浅くなる。
「……俺は」
言葉が喉で詰まる。
違う。書類だ。政務だ。必要なことだ。
だが、違う。
違うと分かっている。
アランは、扉を見た。
見てしまった。
「俺は、ただ」
その先が出ない。
ただ渡す。
ただ顔を見る。
ただ声を聞く。
ただ、彼女が自分をどう見るか知る。
ただ、が増えすぎて、もう言葉にならない。
レイは手を差し出した。
「書類を」
アランは渡さない。
紙の端が、また小さく鳴った。
「陛下」
レイの声が低くなる。
「それを持ったままでは、止まれません」
アランの目が、レイを見る。
しばらく、二人の間で書類だけが動かなかった。
侍女の呼吸も、廊下の気配も、すべてが細く張り詰める。
やがて、アランは歯を噛んだ。
書類を手放す。
レイが受け取った瞬間、アランの指先から紙の感触が消えた。
消えた途端、欲だけが残った。
会いたい。
その一語が、胸の奥で剥き出しになる。
アランは低く言った。
「……渡せ」
レイは一礼した。
「承知しました」
侍女が両手を差し出す。
レイが書類を渡す。
アランは扉を見ていた。
見ないと決めていたのに、見ていた。
その向こうにセラフィナがいる。
今、書類を受け取る。すぐそこにいる。
アランの喉が、かすかに動いた。
名前を呼びかけて、止まる。
セラフィナ。
その音は、声にならなかった。
レイが書類を侍女へ渡す。
侍女は両手で受け取った。
深く礼をして、扉へ向かう。
その動きは静かだった。
ただ書類を運ぶだけの、何の変哲もない動作だった。
だが、その先にセラフィナがいる。
扉の向こう。
すぐそこに。
アランは、机の上に残った封蝋の赤を見ていた。
見ているはずだった。だが、目は赤を捉えていない。指先に残った粉も、乾いた痛みも、もう遠い。
侍女の手が取っ手にかかる。
カチャ、と小さな音がした。
その音が、何かを切った。
「待て」
声が出た。
レイの顔が、わずかに動く。
侍女の肩が跳ねる。
扉はまだ開ききっていない。細く開いた隙間から、廊下の光が差し込んでいる。
アランは立っていた。
いつ立ったのか、自分でも分からなかった。
椅子がわずかに軋む音だけが遅れて耳に届く。
「陛下」
レイの声が低く落ちる。
止める声だった。
だが、もう遅い。
アランは机を回り込んだ。歩幅は荒くない。走ってもいない。けれど、止まる余地がない歩き方だった。床を踏むたび、理性が後ろへ置いていかれる。
「陛下」
もう一度、レイが呼ぶ。
アランは答えなかった。
侍女は扉の前で固まっている。書類を抱えたまま、どうすればいいか分からず、視線を落としている。
その横を、アランは通った。
レイが一歩前へ出る。
だが、アランは止まらない。
「退け」
短い声。
王の命令だった。
恋に焼けた男の声でもあった。どちらか一つではなかったから、余計にたちが悪い。
レイは退かなかった。
「今は、おやめください」
「今でなければ、もう逃げる」
アランの声が、低く掠れた。
レイの目が細くなる。
「セラフィナ様が、ですか」
アランは一瞬だけ止まった。
違う。
逃げるのは、セラフィナではない。
逃げると決めつけようとしているのは自分だ。彼女が自室で政務をしているだけで、ここに来ないだけで、何でもないと言っただけで、気にしないでと言っただけで。
それを全部、避けられた証拠にしようとしている。
分かっている。
分かっているのに、足が止まらない。
「……俺がだ」
吐き出した声は、ほとんど歯の間から落ちた。
レイの表情が、ほんのわずかに冷える。
「なら、なおさらです」
アランは、レイを見た。
「なおさら、止めるな」
その声には、もう言い訳がなかった。
偶然ではない。
政務でもない。
書類を渡すだけでもない。
会いたい。
言葉が欲しい。
顔を見たい。
自分をどう見るのか知りたい。
避けているなら、避けている顔を見たい。避けていないなら、そうだと目で分かりたい。
それがどれだけ勝手な欲か分かっている。
だが、分かることと止まれることは違った。
レイは心の中で、床へ額を打ちつけた。
(負けた。衝動が勝った。理性は今、廊下の隅で書類を抱えて泣いている。止めろ。止めたい。だが王の足が速い。恋の脚力、最悪)
アランは、扉へ手を伸ばした。
赤い粉のついた指が、取っ手に触れる。
その瞬間、彼は自分の手を見た。
まだ洗っていない。
封蝋の赤が残ったままの手。
この手で行くのか。
そう思った。
思ったが、手は離れなかった。
扉を開ける。
廊下の空気が流れ込んだ。
そこに、セラフィナがいた。
アランは息を止めた。
侍女が慌てて身を引く。
レイが後ろで止まる。小執務の中の空気が、扉の外へこぼれる。
アランは、セラフィナの前に出た。
近い。
近すぎる。
さっきまで扉一枚の向こうだった距離が、今はもう言葉を落とせば届く距離になっている。
何を言えばいい。
謝罪か。確認か。政務か。偶然か。違う。全部違う。どれも、今さら被せるには薄すぎる。
アランの喉が動いた。
「……セラフィナ」
名前が出た。
それだけで、胸の奥がひどく軋む。
彼は自分の赤い指先を一瞬見て、それからもう逃げずに顔を上げた。
「すまない」
謝罪は出た。
だが、それだけでは終わらなかった。
「気にしないでと言われても、できなかった」
言った瞬間、レイが小執務の中で目だけを閉じた。
(言った。全部出した。もう包装紙が燃えた。中身が直火で出た)
アランは続けた。
声は低い。
押しつけないようにしようとしているのに、言葉そのものが重い。重いと分かっているのに、止められない。
「何でもないと言われても、気にしないでと言われても、俺は気にした。考えた。勝手に読んだ。侍女に聞いた。待とうとした。待てたと思った。違った」
息が浅くなる。
「お前がそこにいると聞いて、会いたいと思った」
言ってしまった。
もう戻せない。
アランは、取っ手から手を離した。
赤い粉のついた指が、だらりと下がる。
「偶然にしたかった。政務にしたかった。書類を渡すだけにしたかった」
喉が焼ける。
「だが、違う」
アランの声が、少しだけ低くなる。
「俺は、お前に会いに来た」
言い切った。
その後の沈黙は、あまりにも近かった。
レイは動かない。
侍女も動けない。
小執務の扉は開いたまま、赤い封蝋の残った机が背後に見えている。
アランはセラフィナを見ていた。
何かを求めるな。
言葉を迫るな。
反応を奪うな。
そう言い聞かせるほど、喉の奥に次の言葉がせり上がる。
それでも、彼はかろうじて飲み込んだ。
最後に出たのは、掠れた一言だけだった。
「……今、返事はいらない」
言った直後、自分で分かった。
返事はいらない。
それは、返事が欲しい男の言葉だった。
そう言った直後だった。
アランの指が、ぴくりと動いた。
返事はいらない。
その言葉が、自分の口から出た瞬間、遅れて意味が追いついてくる。
いらない。違う。欲しい。欲しいから、いらないと言った。欲しいと見えないように、いらないと言った。
喉の奥が焼けた。
アランは、自分の口を押さえた。
赤い封蝋の粉がついた指が、唇に触れる。乾いたざらつき。血ではない赤が、言葉を塞ぐようにそこへ残った。
「……違う」
声にならないほど低い。
違う。
返事はいらないと言いながら、返事を待っていた。
言葉はいらないと言いながら、言葉が欲しかった。
押しつけないふりをして、押しつけた。
アランの視線が、セラフィナの前で揺れる。
言い直せ。
今すぐ取り消せ。
何も言うな。
謝れ。
黙れ。
戻れ。
近づくな。
命令がいくつも頭の中でぶつかり、どれも形にならない。
その前で、セラフィナは何も言わなかった。
ただ、無言のまま身を翻す。
衣擦れの音が、ひどく静かに廊下へ落ちた。
アランの呼吸が止まる。
セラフィナは自室へ戻っていく。
責めない。問わない。許さない。拒絶の言葉も置かない。何も置かずに、扉の向こうへ戻る。




