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『女神遊戯』中編  作者: 未来野あゆみ


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4/7

内なる地獄 4

「陛下」


今度の声は、少しだけ硬かった。


アランの視線が、ようやくレイへ向く。


「その言葉を、今これ以上分解なさらない方がよろしいかと」


アランは笑わなかった。


「分解」


「はい」


レイは言葉を選ばない。

選びすぎると、アランがそこへ潜る。


「セラフィナ様は『気にしないで』とだけおっしゃった。それ以上の意味は、今ここにはありません」


「ないと、どうして言える」


「あるとしても、今の陛下が触れるべきではありません」


空気が、軽く軋んだ。


アランは机に手を置いた。

赤い粉が、指の腹につく。


「……俺が触れると、壊すか」


レイの表情は動かなかった。


「壊す可能性を、ご自分で見ておられるはずです」


アランは何も言わなかった。


気にしないで。


三度目は、声に出さなかった。

唇の奥で、その言葉だけが形を作る。


受け取れ。

そのまま置け。

彼女の言葉を、自分の飢えで裂くな。


分かっている。


分かっているのに、胸の奥ではまだ問いが増えている。


それは救いか。

拒絶か。

赦しか。

距離か。


アランは、赤くなった指を見下ろした。


「……気にしないで」


今度の声は、さっきよりも少しだけ低い。


祈りに似ていた。

命令にも似ていた。

自分へ向けた、ひどく下手な命令だった。


レイは黙って聞いていた。


(そのまま受け取る練習をしている。練習で済むならいい。問題は陛下の練習場が人の心なことだ)


アランは時計を見なかった。

扉も見なかった。

ただ、机の赤と、自分の指先だけを見ていた。


「……何度言えば、そのままになる」


レイは静かに答えた。


「回数ではないかと」


「では何だ」


「触れずに置くことです」


アランの口元が、わずかに歪んだ。


「難しいな」


「はい」


レイは即答した。


「陛下には、かなり」


その言葉に、アランは一瞬だけ目を細めた。

怒りではない。痛みでもない。ほんのわずか、図星を突かれた者の熱がそこに揺れた。


「……容赦がない」


「必要な分だけです」


「多い」


「減らすと、止まりません」


アランは黙った。


否定しなかった。

できなかった。


アランの唇が、わずかに動いた。


声にならないまま、何かを噛み潰す。

気にしないで。触れずに置く。今は何もしない。レイの言葉は分かる。分かるからこそ、反論の形がすぐには見つからない。


だが、分かったところで消えないものがある。


アランは机に置いた手を見下ろした。

封蝋の赤が、指の腹についている。乾いた粉。血ではない。なのに、拭わずにいるせいで、いつまでもそこに傷のような顔をして残っている。


「……それでも」


レイの視線が、わずかに上がる。


アランは扉を見なかった。

時計も見なかった。

ただ、机の赤を見たまま言った。


「言葉が欲しい」


落ちた声は、ひどく静かだった。


王の要求ではなかった。

命令でもない。だが、命令に変えられる立場の男が口にした欲だった。だからこそ重い。本人もそれを分かっている。分かっているのに、喉の奥から出てしまった。


「何でもないでも、気にしないででもいい。怒っているなら怒っていると、嫌なら嫌だと、今は放っておけと言うならそれでもいい」


そこで一度、声が止まる。


「……沈黙よりは、いい」


レイは息をし損ねた。


表には出さない。

肩も揺らさない。

ただ、書類を持つ指の力がほんの少しだけ強くなる。


(出た。本体が出た。言葉が欲しい。そうだよな、知ってた。知ってたけど王の口から出ると重さが城壁を越える)


アランの目は赤から離れない。


「黙られると、分からない。分からないものを、俺は悪い方へ読む。読んで、確かめたくなる。確かめようとして、またああなる」


侍女の細くなった声。

揺れた肩。

自分の問い。

本当にそう言ったのか。


アランの手が、机の上でわずかに丸まる。


「それでも欲しいと思う」


醜いな、と言いかけたのかもしれない。

だが、その言葉は最後まで出なかった。


レイは数拍、沈黙した。


この沈黙は、答えを拒む沈黙ではない。

言葉の重さを測っている沈黙だった。アランはそれを見ていた。急かさなかった。急かしたくなる喉を、赤い粉のついた指で押さえ込むように。


やがて、レイは言った。


「欲しいことは、罪ではありません」


アランの目が動いた。


「ですが、欲しいものを得るために誰かを使えば、話が変わります」


冷たい声だった。

優しくない。けれど、突き放すための冷たさでもない。


レイは一歩も動かない。


「セラフィナ様の言葉が欲しいなら、欲しいまま持っていてください。侍女に探らせず、返答を急がせず、謝罪の形に隠さず」


(うわ、言った。自分で言ってて胃が重い。だがここで包むと陛下が包装紙ごと飲む)


アランは黙っていた。


レイの言葉は、慰めではなかった。

ただ、欲を欲として置けと言っている。理由に変えるな。気遣いに偽装するな。謝罪に混ぜるな。


アランは、赤い指先を見た。


「……欲しいまま」


「はい」


「それは、長いな」


「長いと思います」


また同じ答えだった。

だが今度は、ほんの少しだけ違う。レイの声には、容赦のなさと一緒に、同じ部屋に残る覚悟があった。


アランは、短く息を吐いた。


「なら、ここにいろ」


レイの眉は動かない。


「はい」


即答だった。


(巻き込まれた。いや最初からいた。宰相とは何か。たぶん胃を人質に王を見張る職業)


アランは椅子に戻らない。

レイも扉へ向かわない。


執務室には、封蝋の赤と、止まらない時計の音だけが残った。


レイがその報告を受けたのは、扉の外だった。


短いやり取り。

侍女の声は低く抑えられていたが、廊下に漏れた言葉の端だけで、アランの耳は拾った。


自室。

政務。

書類。


その三つだけで、十分だった。


レイが戻るより先に、アランは顔を上げていた。


「今、何と言った」


レイは扉を閉めた。

すぐには答えない。答えを遅らせても意味はないが、答え方を誤れば、今度は扉一枚向こうの距離そのものが刃になる。


「セラフィナ様は、ご自室で政務を続けておいでです」


アランの目が止まった。


自室。


この小執務ではなく。

目の前にある、あの扉の向こうで。


普段、セラフィナはここで政務をする。

この机で書類を広げ、アランの横で、あるいは向かいで、淡々と裁可を進める。紙をめくる音。筆先が止まる間。必要な時だけ向けられる声。何気ない問い。短い返答。


それが今日はない。


だが、政務はしている。


具合が悪いわけではない。

疲れ切って倒れたわけでもない。

仕事はできる。判断もできる。書類も読める。


ただ、この部屋ではない。


アランは、机に残った赤へ視線を落とした。

封蝋の粉が木目に滲むように残っている。


「……政務を」


「はい」


「自室で」


「はい」


レイの返答は短い。

余計な布を巻かない。今は飾った瞬間に、その飾りまで分析される。


アランの口元が、わずかに動いた。


「何でもない、か」


何でもない。

気にしないで。

そして、自室で政務。


その三つが並ぶ。


何でもないなら、なぜここではない。

気にしないでと言うなら、なぜ目の前の部屋へ戻らない。

いや、戻る義務はない。セラフィナの自室だ。そこで政務をして何が悪い。何も悪くない。彼女にはその権利がある。


だが、普段と違う。


普段と違うというだけで、アランの中ではもう十分に意味を持った。


レイは、アランの視線が扉へ動く前に口を開いた。


「陛下」


低い声だった。


アランは答えない。


レイは続ける。


「自室で政務をなさること自体は、不自然ではありません」


(不自然ではない。ないが、普段と違う。陛下がそこを噛む。絶対に噛む。今もう奥歯でいってる)


アランの目がレイへ向いた。


「普段はここだ」


「はい」


「今日は違う」


「はい」


「それでも、何でもないと」


レイは少しだけ間を置いた。


「セラフィナ様が、そうおっしゃいました」


アランは笑わなかった。

ただ、赤い指先を机から離した。


「言葉と行動が違う」


「違うように見える、ということです」


「お前はそう見えないのか」


レイの内心が、静かに天を仰いだ。


(来た。見解を求められた。宰相業務に恋愛地雷処理が含まれる国、滅びるほど忙しい)


表情は動かさず、レイは答えた。


「私には、セラフィナ様が政務を止めていないように見えます」


アランの眉が微かに寄る。


「それだけか」


「今、事実として言えるのはそれだけです」


事実。


セラフィナは自室にいる。

政務をしている。

小執務には戻っていない。

返事は「気にしないで」。


それ以上は、こちらの飢えが作る。


アランは、その線引きを理解した顔で黙った。

理解した。だから止まる、とは限らない。


彼の視線が、ついに扉へ向く。


小執務の扉。

その向こう、短い廊下を挟んだ先に、セラフィナの自室がある。


遠くない。

遠くないのが、悪い。


手を伸ばせば届く距離にいる。

声をかければ、侍女が取り次ぐ。王としてなら、扉を開けることさえ難しくない。


だからこそ、今その距離がひどく長い。


アランは低く言った。


「……ここではないだけだ」


自分に言い聞かせるような声だった。


「政務はしている。何でもない。気にしないで。なら、ここではないだけだ」


レイは口を挟まなかった。


アランは言葉を重ねる。


「ここではないだけ」


その繰り返しは、納得ではなかった。

受け取る練習でもない。


ただ、扉へ向かう足を止めるために、自分の喉へ打つ釘だった。


レイは静かに立っていた。


(釘。釘を打ってる。問題は陛下、釘抜きも自前で持ってるところです)


アランは、扉を見たまま動かなかった。


アランの視線は、扉に縫い止められていた。


小執務の扉。

その向こうに、短い廊下。

さらにその先に、セラフィナの自室。


遠くない。


遠くないのに、今日はそこが遠い。

距離ではなく、選ばれなかった場所として遠い。


アランは、机に残った封蝋の赤を見なかった。

時計も見なかった。

ただ、扉だけを見ていた。


「……俺がいるから」


レイの指が、書類の端で止まる。


アランの声は低かった。

問いの形をしていたが、半分はもう答えに触れている。


「俺がいるから、ここではないのか」


口にした瞬間、部屋の空気が沈んだ。


言葉になってしまった。

頭の中で暴れていたものが、外へ落ちた。落ちた以上、もう見ないふりはできない。


普段はここで政務をする。

今日も政務はしている。

けれど、ここではない。


なら、違うのは何だ。


この部屋か。

机か。

扉か。

それとも、自分か。


アランの手が、机の縁を掴む。赤い粉のついた指先が、木に薄く跡をつけた。


「何でもない。気にしないで。そう言って、政務は続けている。だが、ここには来ない」


声は荒れていない。

荒れないまま、奥歯で何かを潰すように続いた。


「なら、避けているのは政務ではない」


レイは目を伏せなかった。


表情は変えない。

だが、返す言葉はすぐには出さない。ここで軽く否定すれば、アランはそこに縋る。肯定すれば、扉へ向かう。どちらにしても火薬庫に燭台を投げ込む。


(核心に手を突っ込んだ。素手で。しかも自分から。誰か手袋を持ってこい。いや、もう遅い)


「可能性の一つです」


レイは、そう答えた。


アランの目がレイへ向く。


「一つ」


「はい」


「お前は、違うと思うのか」


「断言はできません」


「断言しろ」


その声に、王の硬さが混じった。


レイの背筋が、わずかに張る。

それでも声は低く、平坦だった。


「できません」


アランの目が細くなる。


レイは続けた。


「セラフィナ様がご自室で政務をなさっている。その事実から言えるのは、セラフィナ様が今、この小執務を選ばなかったということだけです」


「同じことだ」


「違います」


即答だった。


空気が、さらに硬くなる。


レイは一歩も下がらない。


「陛下を避けた、と決めることと、この部屋を選ばなかった、と受け取ることは違います」


アランの指に力が入った。

机が、微かに鳴る。


「詭弁だ」


「必要な線引きです」


(詭弁じゃない。線引きです。今この線を引かないと、陛下がそのまま自分を有罪にして扉を叩く。最悪の自白祭りが始まる)


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