内なる地獄 4
「陛下」
今度の声は、少しだけ硬かった。
アランの視線が、ようやくレイへ向く。
「その言葉を、今これ以上分解なさらない方がよろしいかと」
アランは笑わなかった。
「分解」
「はい」
レイは言葉を選ばない。
選びすぎると、アランがそこへ潜る。
「セラフィナ様は『気にしないで』とだけおっしゃった。それ以上の意味は、今ここにはありません」
「ないと、どうして言える」
「あるとしても、今の陛下が触れるべきではありません」
空気が、軽く軋んだ。
アランは机に手を置いた。
赤い粉が、指の腹につく。
「……俺が触れると、壊すか」
レイの表情は動かなかった。
「壊す可能性を、ご自分で見ておられるはずです」
アランは何も言わなかった。
気にしないで。
三度目は、声に出さなかった。
唇の奥で、その言葉だけが形を作る。
受け取れ。
そのまま置け。
彼女の言葉を、自分の飢えで裂くな。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥ではまだ問いが増えている。
それは救いか。
拒絶か。
赦しか。
距離か。
アランは、赤くなった指を見下ろした。
「……気にしないで」
今度の声は、さっきよりも少しだけ低い。
祈りに似ていた。
命令にも似ていた。
自分へ向けた、ひどく下手な命令だった。
レイは黙って聞いていた。
(そのまま受け取る練習をしている。練習で済むならいい。問題は陛下の練習場が人の心なことだ)
アランは時計を見なかった。
扉も見なかった。
ただ、机の赤と、自分の指先だけを見ていた。
「……何度言えば、そのままになる」
レイは静かに答えた。
「回数ではないかと」
「では何だ」
「触れずに置くことです」
アランの口元が、わずかに歪んだ。
「難しいな」
「はい」
レイは即答した。
「陛下には、かなり」
その言葉に、アランは一瞬だけ目を細めた。
怒りではない。痛みでもない。ほんのわずか、図星を突かれた者の熱がそこに揺れた。
「……容赦がない」
「必要な分だけです」
「多い」
「減らすと、止まりません」
アランは黙った。
否定しなかった。
できなかった。
アランの唇が、わずかに動いた。
声にならないまま、何かを噛み潰す。
気にしないで。触れずに置く。今は何もしない。レイの言葉は分かる。分かるからこそ、反論の形がすぐには見つからない。
だが、分かったところで消えないものがある。
アランは机に置いた手を見下ろした。
封蝋の赤が、指の腹についている。乾いた粉。血ではない。なのに、拭わずにいるせいで、いつまでもそこに傷のような顔をして残っている。
「……それでも」
レイの視線が、わずかに上がる。
アランは扉を見なかった。
時計も見なかった。
ただ、机の赤を見たまま言った。
「言葉が欲しい」
落ちた声は、ひどく静かだった。
王の要求ではなかった。
命令でもない。だが、命令に変えられる立場の男が口にした欲だった。だからこそ重い。本人もそれを分かっている。分かっているのに、喉の奥から出てしまった。
「何でもないでも、気にしないででもいい。怒っているなら怒っていると、嫌なら嫌だと、今は放っておけと言うならそれでもいい」
そこで一度、声が止まる。
「……沈黙よりは、いい」
レイは息をし損ねた。
表には出さない。
肩も揺らさない。
ただ、書類を持つ指の力がほんの少しだけ強くなる。
(出た。本体が出た。言葉が欲しい。そうだよな、知ってた。知ってたけど王の口から出ると重さが城壁を越える)
アランの目は赤から離れない。
「黙られると、分からない。分からないものを、俺は悪い方へ読む。読んで、確かめたくなる。確かめようとして、またああなる」
侍女の細くなった声。
揺れた肩。
自分の問い。
本当にそう言ったのか。
アランの手が、机の上でわずかに丸まる。
「それでも欲しいと思う」
醜いな、と言いかけたのかもしれない。
だが、その言葉は最後まで出なかった。
レイは数拍、沈黙した。
この沈黙は、答えを拒む沈黙ではない。
言葉の重さを測っている沈黙だった。アランはそれを見ていた。急かさなかった。急かしたくなる喉を、赤い粉のついた指で押さえ込むように。
やがて、レイは言った。
「欲しいことは、罪ではありません」
アランの目が動いた。
「ですが、欲しいものを得るために誰かを使えば、話が変わります」
冷たい声だった。
優しくない。けれど、突き放すための冷たさでもない。
レイは一歩も動かない。
「セラフィナ様の言葉が欲しいなら、欲しいまま持っていてください。侍女に探らせず、返答を急がせず、謝罪の形に隠さず」
(うわ、言った。自分で言ってて胃が重い。だがここで包むと陛下が包装紙ごと飲む)
アランは黙っていた。
レイの言葉は、慰めではなかった。
ただ、欲を欲として置けと言っている。理由に変えるな。気遣いに偽装するな。謝罪に混ぜるな。
アランは、赤い指先を見た。
「……欲しいまま」
「はい」
「それは、長いな」
「長いと思います」
また同じ答えだった。
だが今度は、ほんの少しだけ違う。レイの声には、容赦のなさと一緒に、同じ部屋に残る覚悟があった。
アランは、短く息を吐いた。
「なら、ここにいろ」
レイの眉は動かない。
「はい」
即答だった。
(巻き込まれた。いや最初からいた。宰相とは何か。たぶん胃を人質に王を見張る職業)
アランは椅子に戻らない。
レイも扉へ向かわない。
執務室には、封蝋の赤と、止まらない時計の音だけが残った。
レイがその報告を受けたのは、扉の外だった。
短いやり取り。
侍女の声は低く抑えられていたが、廊下に漏れた言葉の端だけで、アランの耳は拾った。
自室。
政務。
書類。
その三つだけで、十分だった。
レイが戻るより先に、アランは顔を上げていた。
「今、何と言った」
レイは扉を閉めた。
すぐには答えない。答えを遅らせても意味はないが、答え方を誤れば、今度は扉一枚向こうの距離そのものが刃になる。
「セラフィナ様は、ご自室で政務を続けておいでです」
アランの目が止まった。
自室。
この小執務ではなく。
目の前にある、あの扉の向こうで。
普段、セラフィナはここで政務をする。
この机で書類を広げ、アランの横で、あるいは向かいで、淡々と裁可を進める。紙をめくる音。筆先が止まる間。必要な時だけ向けられる声。何気ない問い。短い返答。
それが今日はない。
だが、政務はしている。
具合が悪いわけではない。
疲れ切って倒れたわけでもない。
仕事はできる。判断もできる。書類も読める。
ただ、この部屋ではない。
アランは、机に残った赤へ視線を落とした。
封蝋の粉が木目に滲むように残っている。
「……政務を」
「はい」
「自室で」
「はい」
レイの返答は短い。
余計な布を巻かない。今は飾った瞬間に、その飾りまで分析される。
アランの口元が、わずかに動いた。
「何でもない、か」
何でもない。
気にしないで。
そして、自室で政務。
その三つが並ぶ。
何でもないなら、なぜここではない。
気にしないでと言うなら、なぜ目の前の部屋へ戻らない。
いや、戻る義務はない。セラフィナの自室だ。そこで政務をして何が悪い。何も悪くない。彼女にはその権利がある。
だが、普段と違う。
普段と違うというだけで、アランの中ではもう十分に意味を持った。
レイは、アランの視線が扉へ動く前に口を開いた。
「陛下」
低い声だった。
アランは答えない。
レイは続ける。
「自室で政務をなさること自体は、不自然ではありません」
(不自然ではない。ないが、普段と違う。陛下がそこを噛む。絶対に噛む。今もう奥歯でいってる)
アランの目がレイへ向いた。
「普段はここだ」
「はい」
「今日は違う」
「はい」
「それでも、何でもないと」
レイは少しだけ間を置いた。
「セラフィナ様が、そうおっしゃいました」
アランは笑わなかった。
ただ、赤い指先を机から離した。
「言葉と行動が違う」
「違うように見える、ということです」
「お前はそう見えないのか」
レイの内心が、静かに天を仰いだ。
(来た。見解を求められた。宰相業務に恋愛地雷処理が含まれる国、滅びるほど忙しい)
表情は動かさず、レイは答えた。
「私には、セラフィナ様が政務を止めていないように見えます」
アランの眉が微かに寄る。
「それだけか」
「今、事実として言えるのはそれだけです」
事実。
セラフィナは自室にいる。
政務をしている。
小執務には戻っていない。
返事は「気にしないで」。
それ以上は、こちらの飢えが作る。
アランは、その線引きを理解した顔で黙った。
理解した。だから止まる、とは限らない。
彼の視線が、ついに扉へ向く。
小執務の扉。
その向こう、短い廊下を挟んだ先に、セラフィナの自室がある。
遠くない。
遠くないのが、悪い。
手を伸ばせば届く距離にいる。
声をかければ、侍女が取り次ぐ。王としてなら、扉を開けることさえ難しくない。
だからこそ、今その距離がひどく長い。
アランは低く言った。
「……ここではないだけだ」
自分に言い聞かせるような声だった。
「政務はしている。何でもない。気にしないで。なら、ここではないだけだ」
レイは口を挟まなかった。
アランは言葉を重ねる。
「ここではないだけ」
その繰り返しは、納得ではなかった。
受け取る練習でもない。
ただ、扉へ向かう足を止めるために、自分の喉へ打つ釘だった。
レイは静かに立っていた。
(釘。釘を打ってる。問題は陛下、釘抜きも自前で持ってるところです)
アランは、扉を見たまま動かなかった。
アランの視線は、扉に縫い止められていた。
小執務の扉。
その向こうに、短い廊下。
さらにその先に、セラフィナの自室。
遠くない。
遠くないのに、今日はそこが遠い。
距離ではなく、選ばれなかった場所として遠い。
アランは、机に残った封蝋の赤を見なかった。
時計も見なかった。
ただ、扉だけを見ていた。
「……俺がいるから」
レイの指が、書類の端で止まる。
アランの声は低かった。
問いの形をしていたが、半分はもう答えに触れている。
「俺がいるから、ここではないのか」
口にした瞬間、部屋の空気が沈んだ。
言葉になってしまった。
頭の中で暴れていたものが、外へ落ちた。落ちた以上、もう見ないふりはできない。
普段はここで政務をする。
今日も政務はしている。
けれど、ここではない。
なら、違うのは何だ。
この部屋か。
机か。
扉か。
それとも、自分か。
アランの手が、机の縁を掴む。赤い粉のついた指先が、木に薄く跡をつけた。
「何でもない。気にしないで。そう言って、政務は続けている。だが、ここには来ない」
声は荒れていない。
荒れないまま、奥歯で何かを潰すように続いた。
「なら、避けているのは政務ではない」
レイは目を伏せなかった。
表情は変えない。
だが、返す言葉はすぐには出さない。ここで軽く否定すれば、アランはそこに縋る。肯定すれば、扉へ向かう。どちらにしても火薬庫に燭台を投げ込む。
(核心に手を突っ込んだ。素手で。しかも自分から。誰か手袋を持ってこい。いや、もう遅い)
「可能性の一つです」
レイは、そう答えた。
アランの目がレイへ向く。
「一つ」
「はい」
「お前は、違うと思うのか」
「断言はできません」
「断言しろ」
その声に、王の硬さが混じった。
レイの背筋が、わずかに張る。
それでも声は低く、平坦だった。
「できません」
アランの目が細くなる。
レイは続けた。
「セラフィナ様がご自室で政務をなさっている。その事実から言えるのは、セラフィナ様が今、この小執務を選ばなかったということだけです」
「同じことだ」
「違います」
即答だった。
空気が、さらに硬くなる。
レイは一歩も下がらない。
「陛下を避けた、と決めることと、この部屋を選ばなかった、と受け取ることは違います」
アランの指に力が入った。
机が、微かに鳴る。
「詭弁だ」
「必要な線引きです」
(詭弁じゃない。線引きです。今この線を引かないと、陛下がそのまま自分を有罪にして扉を叩く。最悪の自白祭りが始まる)




