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『女神遊戯』中編  作者: 未来野あゆみ


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3/7

内なる地獄 3

アランは掌の赤を見つめたまま、低く言った。


「片づけるな」


「封蝋を、ですか」


「ああ」


レイは一礼した。


「承知しました」


アランは机に手を置いた。

赤い粉が、木目に少し移る。


「……見ておく」


それが何を意味するのか、アラン自身にもまだ分かっていなかった。

罰か。戒めか。未練か。証拠か。


ただ、今はそれを消したくなかった。


アランは、机に残った赤を見ていた。


封蝋の粉は、掌から木目へ移っている。

拭えば消える。水を含ませた布で撫でれば、何事もなかったようになる。王の机に残しておくものではない。書類を汚す。見苦しい。


それでも、片づけるなと言った。


見ておく。

そう言った。


だが、見ているだけでは足りなくなっている。


「……俺は」


声が落ちる。

レイは動かなかった。


アランの視線は、まだ赤から離れない。


「彼女に謝るべきか」


レイはすぐには答えなかった。


謝る。

その言葉だけなら正しい。侍女を怖がらせた。セラフィナ様の沈黙を侍女経由で探った。本人の言葉を一度受け取ったくせに、さらに疑った。謝罪する理由はいくらでもある。


だが、今のアランが言う謝罪は、それだけではない。


謝れば、返事があるかもしれない。

謝れば、彼女の反応が返るかもしれない。

謝れば、沈黙ではない何かをもらえるかもしれない。


レイは書類の角を指で押さえた。


(謝罪の顔をした確認だ。出たな、礼服を着た欲。しかも似合っているのが最悪だ)


「謝罪は、必要になるかもしれません」


レイの声は平坦だった。


アランの指が、赤い粉の上で止まる。


「なら」


「ですが、今すぐではありません」


短い刃だった。


アランの目がレイへ向く。

怒りはまだない。あるのは、止められた衝動が行き場を失う時の、乾いた熱だった。


「なぜだ」


「今の陛下は、謝罪への返答を待つ顔をされています」


部屋の空気が張った。


レイは目を逸らさない。


「セラフィナ様が許すか。怒るか。何かおっしゃるか。それを確かめるための謝罪になるなら、またセラフィナ様に答えを負わせます」


アランは黙った。


封蝋の赤が、机の上でひどく鮮やかに見えた。

謝りたい。違う。許されたい。いや、違う。傷つけたなら謝るべきだ。だが、傷ついたかどうかを知りたい。知りたいから謝るのか。謝るから知りたいのか。


順番が、もう分からない。


「……なら、何をすればいい」


その声は低かった。

王の声ではなかった。少なくとも、命じる声ではなかった。


レイは一瞬だけ、指先に力を入れる。


(ここで正解を求めるな。私に恋愛宗教裁判の判決を出させるな。胃が法服を着る羽目になる)


「何もしないことです」


アランの眉が動いた。


レイは続けた。


「今だけは」


その一言で、少しだけ刃の角度を変える。

永遠に黙れとは言わない。謝るなとも言わない。ただ、今すぐ彼女へ手を伸ばすなと言っている。


アランは机の赤へ視線を戻した。


「……何もしない」


まるで、聞き慣れない命令のように繰り返す。


何もしない。

追わない。呼ばない。侍女を使わない。謝らない。確かめない。沈黙を沈黙のまま置く。


それは、拷問に似ていた。


アランの掌が、ゆっくり閉じる。

今度は封蝋を握らなかった。赤い粉のついた手を、ただ自分の中へ押し込めるように丸めただけだった。


「……長いな」


「はい」


レイは即答した。


「長いと思います」


(しかもまだ一分も経っていない。地獄の体感時間、伸びがいい)


アランは、かすかに息を吐いた。


笑いではない。

諦めでもない。

ただ、今すぐ動き出そうとするものを、喉の奥で噛み潰す音だった。


アランは、ゆっくりと息を吸った。


何もしない。

その言葉は、執務室の中でまだ冷えている。


何もしないなら、何も決めなくていいはずだった。

だが、アランはそれをそのまま置いておけなかった。形のないものは耐えがたい。沈黙も、待つことも、終わりの見えないものはすぐに喉を塞ぐ。


だから、区切る。


「……一刻だけ待つ」


声は低い。

誰かに言い聞かせるというより、自分の喉に鎖を巻くような声だった。


レイは視線を上げた。


「一刻、ですか」


「ああ」


アランは机の赤を見たまま頷く。

封蝋の粉が、木目の上で細く伸びている。拭えば消える。だが今は消さない。消せば、この数分の醜さまで、なかったことにしそうだった。


「一刻は、追わない。侍女も呼ばない。伝言も出さない。謝罪もしない」


言葉にして並べるたび、ひとつずつ欲が剥がされる。

その下から、もっと生々しいものが出てくる。


追いたい。

聞きたい。

謝りたい。

許されたい。

何でもないと言った声の奥を、確かめたい。


アランの指が、机の縁に触れた。

赤い粉を避けた場所に置いたはずなのに、爪の際にはまだ封蝋が残っている。


「一刻後に、まだ必要だと思えば動く」


レイは、ほんのわずかに顎を引いた。


(出た。待機に期限をつけた。無期限の地獄を一刻の地獄に分割したぞ。えらい。いや、えらいのかこれ。時限爆弾に砂時計を添えただけでは)


「承知しました」


「時計を見ろ」


「はい」


レイは壁際の時計へ視線を向ける。

針の位置を確認し、静かに戻した。


「一刻後に、私からお伝えします」


アランの目が少しだけ動いた。


「お前が」


「はい。陛下が時計を見続けるよりは、その方がよろしいかと」


冷たいほど実務的な言葉だった。

けれどその中に、逃げ道がある。時計を見るな。針を数えるな。待つことを、すべて一人で抱えるな。


アランは少し黙った。


「……俺は、見る」


レイの胃が静かに沈んだ。


(見るのか。まあ見るよな。見ないアラン陛下ではない。時計、逃げろ。今からお前は拷問器具だ)


アランは椅子に戻らなかった。

机の前に立ったまま、赤い封蝋と壁の時計を交互に見た。


一刻。

たった一刻。


それが、やけに長く見えた。


アランは、時計を見たまま動かなかった。


針は進んでいる。

進んでいるはずなのに、ほとんど動いていないように見える。金属の細い影が、盤面の上でじわじわと時間を削っていく。その遅さが、かえって喉を締めた。


一刻。

自分で決めた。

追わない。呼ばない。侍女を使わない。謝らない。


だが、決めたのは今であって、一刻後の自分ではない。


そのことに気づいた瞬間、アランの中でまた別の不安が形を取った。

一刻後、自分は何をするつもりなのか。謝るのか。手紙を書くのか。何でもないという言葉を、そのまま受け取ったふりをするのか。それともまた、別の形で彼女の沈黙をこじ開けようとするのか。


時計の針から目を離さないまま、アランは低く言った。


「……一刻後に、俺は何をすればいい」


レイは答えなかった。


即答しなかったのではない。

答えの形を、刃物の重さで量っていた。


アランは続ける。


「謝るのか。何もしないままにするのか。もう一度、様子を聞くのか。手紙を書くのか」


言葉を並べるほど、選択肢ではなく逃げ道に聞こえた。

謝罪。沈黙。確認。手紙。どれを選んでも、そこに同じものが混ざる。セラフィナの反応が欲しい。彼女の中で、自分がまだ何かを動かすのか知りたい。


アラン自身、それが分かっていた。


だから、最後の声は少しだけ掠れた。


「……何をすれば、彼女に押しつけずに済む」


レイは、書類を持つ手を下ろした。


紙が擦れる音がする。

その音だけが、妙に現実的だった。


「一刻後に決めてください」


アランの目が、時計からレイへ動く。


「今、決めることではありません」


レイの声は冷えていた。

慰めではない。助言というには硬い。けれど、逃げ場を塞ぐための硬さではなく、今のアランが先回りして自分を追い詰めるのを止めるための硬さだった。


(未来の自分まで尋問するな。現在の陛下だけで部屋が満員だ)


アランはしばらく黙った。


「俺は、一刻後も同じことを聞くぞ」


「その時に答えます」


「答えが変わるのか」


「陛下が変わる可能性があります」


レイの返答に、アランの眉がかすかに寄った。


「一刻でか」


「一刻あれば、封蝋を二度砕かずに済む程度には」


その言葉に、アランの視線が自分の手へ落ちた。


赤い粉。

開いた掌。

木目に残った、拭われない跡。


レイは表情を変えない。


(言った。やや皮肉が出た。まあいい。これくらい刺さらないと時計に負ける)


アランは、乾いた息を吐いた。


笑ったわけではない。

けれど、喉に詰まっていた熱が、ほんの少しだけ形を崩した。


「……お前は、容赦がないな」


「必要な分だけです」


「必要以上だ」


「では、一刻後に減らします」


アランは今度こそ、わずかに目を細めた。

怒りではなかった。救いでもない。ただ、ほんの一瞬だけ、時計以外のものに意識が向いた。


それでも、針の音は消えない。


アランは再び時計を見た。


「……一刻後に、もう一度聞く」


「承知しました」


レイは静かに頷いた。


「その時まで、何もしないでください」


アランは答えなかった。

答えないことで、かろうじて命令に従った。


一刻後。


レイが戻ってきた時、アランはまだ時計を見ていた。


政務書類は、机の上に開かれている。

だが、判は押されていない。文字を追った痕跡だけがある。読んだ。理解した。処理できる状態ではあった。


それでも、最後の一線を越えられなかった。


時計の針が区切りを示した瞬間、アランの指が机を離れる。

待った。約束した一刻は待った。追わなかった。呼ばなかった。侍女を使わなかった。謝罪もしなかった。


だから。


その「だから」が、もう危なかった。


レイは扉の前で一礼した。


「セラフィナ様より、お返事がございました」


アランの喉が動いた。


「言え」


「……『気にしないで』と」


短い言葉だった。


気にしないで。


アランは、その言葉を受け取った。

受け取った瞬間、胸の奥で何かが落ちる。


気にしていない、ではない。

大丈夫、でもない。

怒っていない、でもない。


気にしないで。


それは優しさにも聞こえた。

拒絶にも聞こえた。

これ以上入ってくるなという線にも、あなたが苦しまなくていいという赦しにも聞こえた。


どちらだ。


アランはすぐに考えた。

考えるなと思うより早く、考えていた。


彼女は俺を気遣ったのか。

それとも、俺に関わるなと言ったのか。

気にしないでとは、俺の不安を見透かした言葉か。

なら、また負わせたのか。

俺が待った一刻ごと、彼女にまで届いたのか。


封蝋の赤は、まだ机に残っている。


アランはその赤を見た。

掌には、乾いた粉が薄く貼りついている。


「……気にするな、と」


声は静かだった。

静かすぎて、レイの胃が一段沈む。


(来た。優しさか拒絶かを一語で判定する地獄の試験だ。しかも問題文が『気にしないで』。採点者は陛下の不安。勝てる気がしない)


レイは顔を上げた。


「はい」


アランは笑わなかった。

怒りもしなかった。


ただ、机の赤へ指を伸ばし、その手前で止めた。


「……優しいな」


その言葉には、ほとんど痛みが混じっていた。


優しい。

だから救われる。

優しい。

だから余計に、自分がそれを引き出したのだと分かる。

セラフィナが何でもないと言い、気にしないでと言った。そのどちらも、アランを安心させるための言葉かもしれない。


だとしたら。


また、彼女に自分の不安の始末をさせた。


アランは、赤い粉のついた手をゆっくり握った。

今度は封蝋を砕く音はしない。もう砕けるものは残っていない。


「レイ」


「はい」


「俺は、気にするなと言われて、気にせずにいられる男に見えるか」


レイは一拍置いた。


答えは明白だった。

だが、明白なものほど、言い方を間違えると刃の向きが変わる。


「見えません」


短く答えた。


アランの目がわずかに細くなる。


レイは続けた。


「ですが、気にすることと、動くことは別です」


アランは黙った。


気にする。

動かない。


また、その分け方だ。

欲を殺せとは言われていない。感情を消せとも言われていない。ただ、感情のままに手を伸ばすなと言われている。


それが、難しい。


「……では、気にしたまま何もするなと」


「はい」


レイの声は、冷たかった。


「今は、それが一番ましです」


(まし。そう、最善じゃない。美談でもない。まし。今日の王城、ましを拾って生きていくしかない)


アランは、時計を見なかった。

今度は、扉も見なかった。


ただ机の上に残った赤を見ていた。


「……長いな」


「はい」


レイは、さっきと同じように答えた。


「長いと思います」


けれど今度の長さは、一刻ではなかった。

返事が来た後の沈黙は、待つよりもずっと輪郭がない。


アランは、机の赤を見たまま呟いた。


「……気にしないで」


一度目は、ただ音を確かめるようだった。


レイは動かない。

その一言に返事をすれば、また別の意味が生まれる。肯定にも、誘導にも、慰めにもなる。今のアランは、置かれた言葉のすべてに歯を立てる。


アランはもう一度、低く繰り返した。


「気にしないで」


気にするな。

気にしなくていい。

あなたのせいではない。

これ以上、触れないで。

放っておいて。

苦しまなくていい。

私は何とも思っていない。


意味が増える。


増やすな。


そう思った瞬間、アランはまた意味を増やしていた。


「……気にしないで、か」


封蝋の赤に触れかけた指が止まる。

拭わない。片づけない。だが、指先は赤の輪郭をなぞるように空中で止まっている。


「気にしていると、分かったから言ったのか」


レイの胃が、静かに拳を握った。


(始まった。解体が始まった。やめろ、言葉は魚じゃない。三枚におろすな)


アランはレイを見ない。


「それとも、俺がまた気にすると思って、先に塞いだのか」


「陛下」


「違うな。塞いだ、ではない。許したのか。いや、許すほどのことではないという意味か。何でもないと言った。その後に、気にしないで。なら、彼女の中では本当に何でもないのか」


言葉が速くなる。


声は荒れていない。

むしろ静かだった。静かなまま、刃だけが増えていく。王として議案を読む時のように、条件を並べ、可能性を切り分け、矛盾を拾う。その分析力が、今はたった一言へ向けられている。


「だが、何でもないなら気にしないでとは言わない。俺が気にしていると知っているからだ。なら、俺はまた見透かされた。いや、違う。彼女は気を遣っただけかもしれない」


アランの指が、机の縁にかかる。


「気を遣わせたのか」


レイは一歩も動かなかった。


顔も声も、冷えている。

ただ、頭の中では椅子を蹴った。


(そこ。そこに行くな。行くとは思った。思ったけど行くな。もう道が崖なんだよ)


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