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『女神遊戯』中編  作者: 未来野あゆみ


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内なる地獄 2

アランの手が、机の上に残った封蝋へ伸びた。


赤い欠片は、もう役目を終えたものだった。砕けて、散って、押し潰されて、王印の形すら失っている。拾い上げる必要はない。捨てればいい。侍従を呼べば、数秒で片づく。


それなのに、アランはその欠片を握り込んだ。


小さな破片が掌に食い込む。

痛みと呼ぶには浅い。だが、意識をそこへ縫い留めるには十分だった。


扉へ行くな。

セラフィナ本人へ行くな。

では、どこへ行けばいい。


何もない。

何もないから、命令だけが残る。


「レイ」


声が低くなった。


レイは扉の前で止まる。片手はすでに取っ手にかかっていたが、開けない。振り返る動作にも無駄がない。顔は静かで、目だけがアランの握った手を見た。


「はい」


「報告は、すぐに持ってこい」


レイの指が、取っ手から離れた。


「侍女からの報告を、ですか」


「そうだ」


封蝋が掌の中でさらに砕ける。

赤い粉が皮膚の隙間に入り、熱を持った指の内側で潰れた。


「顔色、声、歩き方。何か変わったところがあれば、全部だ」


言ってから、アランは自分の言葉を聞いた。


全部。


その一語は、あまりにも正直だった。

体調を案じる言葉の形をしている。無理に聞き出すなと言った。無視していいとも伝えさせた。返事はいらないとも言った。


だが、報告は全部欲しい。


セラフィナの沈黙は、彼に何も渡さなかった。

だから彼は、沈黙の周囲に落ちている欠片を集めようとしている。顔色。声。足取り。侍女の目。廊下の空気。


返事はいらないと言いながら、返事の残骸を欲しがっている。


レイは一拍置いた。


部屋の空気は動かない。

ただ、アランの掌から、封蝋の粉がひと粒だけ落ちた。


「承知しました」


レイの声は平坦だった。


(全部。出た。全部。顔色から歩き方まで集める気だ。陛下、それは心配という名の採取です。採取対象が妃の沈黙なの、最悪に王城)


アランの目が、わずかに細くなる。


「何だ」


「いえ」


レイは答えた。

冷たいほど早かった。


「ただし、侍女には余計な推測をさせません。私が聞くのは、事実のみです」


「構わない」


「セラフィナ様のお気持ちを探らせることもしません」


その言葉だけ、少し硬かった。


アランの握った手に、力が入る。

封蝋がまた砕けた。


探らせる。

その言葉は、嫌なほど正しかった。


「……俺が、それを命じたように聞こえたか」


「今のままでは、そう受け取られる余地があります」


レイは視線を逸らさない。


(刺した。刺したぞ。刺すしかなかった。胃よ、これは業務上必要な刺突だ)


沈黙が落ちた。


アランはしばらく何も言わなかった。

怒りは来なかった。少なくとも、表には出なかった。ただ、握り込んだ拳の中で、砕けた封蝋が皮膚へ食い込んでいる。


やがて、アランは低く言った。


「なら、お前が削れ」


「承知しました」


「俺の言葉から、余計なものを削って伝えろ」


それは信頼にも聞こえた。

命令にも聞こえた。

そして、自分の欲を自分で整えきれない男が、刃を他人に預ける音にも聞こえた。


レイは深く一礼する。


「必要な分だけ、残します」


アランは答えなかった。


掌を開くこともしなかった。

赤い欠片を握ったまま、彼はただ扉を見ていた。


侍女が戻ったのは、思ったより早かった。


レイが扉を開ける音。低い声での短いやり取り。衣擦れ。控えめな足音。

そのどれもが、執務室の中では妙に大きく聞こえた。


アランは椅子に戻っていなかった。


机の前に立ったまま、握り込んだ封蝋の欠片を離さずにいる。掌の中で砕けた赤は、もう形を失っていた。けれど、痛みだけは残っている。浅く、しつこく、消えない。


レイが戻ってくる。


表情は変わらない。

だが、歩幅が少しだけ短い。


アランはそれを見た。


「言え」


レイは一礼した。


「セラフィナ様からは、一言だけ」


一言。


その言葉だけで、アランの喉がかすかに動いた。

一言でも返った。何もないよりはいい。沈黙ではない。完全な空白ではない。


だが、すぐに別のものが胸の奥へ沈む。


一言だけ。


それは、必要最低限という意味にも聞こえた。


「……何と」


レイは短く告げた。


「『何でもないわ』と」


執務室の空気が止まった。


何でもない。


それは答えだった。

答えではなかった。


怒っていない、とは言っていない。

疲れていない、とは言っていない。

傷ついていない、とは言っていない。

ただ、何でもない。


何でもないなら、なぜ返さなかった。

何でもないなら、なぜ出ていった。

何でもないなら、なぜ一言だけなのか。


考えるな。


そう思った瞬間には、もう考えていた。


アランの手の中で、封蝋がまた砕けた。小さな痛みが掌に散る。

彼はそれを、どこか遠いもののように感じた。


「……何でもない」


そのまま繰り返した声は低かった。

怒りではない。失望でもない。まだ名前のついていないものが、喉の奥で形を探している。


レイはわずかに顎を引いた。


(何でもない、来た。最強の何も分からない返答だ。情報量がゼロなのに破壊力だけ王城級。胃、構えろ。これは来る)


アランは笑った。


ほんの少しだけ。

笑いと呼ぶには乾きすぎていた。


「そうか。何でもないのか」


何でもない。

なら、これ以上踏み込む理由はない。

体調も悪くない。怒ってもいない。何もない。終わりだ。


終われ。


終わればいい。


だが、アランの中のどこかが、その言葉を拒んだ。


何でもないと言われたことが、何でもなく済まない。

それがみっともないと分かっている。彼女にこれ以上を求めれば、沈黙だけではなく、一言の答えまで疑うことになる。


それでも。


「レイ」


「はい」


「侍女は、他に何か言ったか。顔色は。声は」


レイの目が、ほんのわずかに冷えた。


「声は、落ち着いていたとのことです」


「顔色は」


「普段と大きくは変わらない、と」


「大きくは」


言葉尻を拾った瞬間、レイの内心が机の下で膝をついた。


(拾うな。そこを拾うな。大きくは、は侍女の安全柵だ。そこに指をかけるな)


アランは封蝋を握ったまま、目を伏せるでもなく、ただ赤い粉のついた拳を見ていた。


「……そうか」


二度目の返事は、一度目よりも静かだった。

静かすぎて、レイは逆に嫌なものを感じた。


アランは、まだ扉を見ていない。

それがかろうじて残った理性なのか、見れば動くと分かっているからなのか、レイには分からなかった。


ただ、握られた手だけが開かない。


アランの目が、レイへ向いた。


「その侍女を、もう一度呼べ」


声は静かだった。

静かすぎて、先ほどの低さよりも悪い。


レイは動かなかった。

ほんの一拍だけ、書類の角を揃える指が止まる。


「確認なさいますか」


「本当にそう言ったのか、聞くだけだ」


聞くだけ。


アラン自身、その言葉の薄さに気づいていた。

聞くだけで済むはずがない。侍女は王に問われれば答える。声の高さも、言葉の間も、視線の揺れも、すべて差し出すことになる。


それでも止まらない。


何でもない。

その一言の中に、何が入っていたのか知りたい。棘か、疲れか、拒絶か、本当に空なのか。空なら空で、なぜこんなに胸の奥が沈むのか。


アランは封蝋を握り込んだまま、短く言った。


「呼べ」


レイは一礼した。


「承知しました」


(聞くだけ。出ました、王城で一番信用ならない言葉。聞くだけで済むなら宰相はいらない)


レイが扉を開ける。

廊下の冷えた空気が、執務室の中へ細く入り込んだ。


すぐに侍女が呼ばれた。

若い侍女は部屋に入るなり、深く膝を折る。アランはその姿を見下ろした。責めるつもりはない。怖がらせるつもりもない。ただ、確かめたいだけだ。


その「だけ」が、どれほど重いか分かっていながら。


「セラフィナは、本当にそう言ったのか」


侍女の肩が、ほんのわずかに揺れた。


レイの目が細くなる。

顔は動かない。声も出さない。だが心の中では、すでに胃が椅子から滑り落ちていた。


(その聞き方。陛下、その聞き方はもう答えを疑ってる。侍女がかわいそうだし、私の胃も巻き添えです)


侍女は頭を下げたまま答える。


「はい。セラフィナ様は、確かに……『何でもないわ』とだけ」


「声は」


アランの問いは、すぐに続いた。


「声、でございますか」


「いつもの声だったか」


侍女は一瞬だけ迷った。

その一瞬を、アランは見逃さなかった。


レイも見逃さなかった。


(迷った。終わった。陛下が今の迷いを買い取る。高値で)


「……落ち着いておいででした」


「いつもと同じか」


侍女の指が、膝の上で固く重なる。


「恐れながら、私には……」


そこで侍女の声が細くなる。


アランの拳の中で、封蝋が音を立てた。

ほんの小さな音だった。だが侍女はさらに頭を下げる。


レイが一歩、前へ出た。


「陛下」


呼びかけは低い。

止める声ではなく、刃を床に置くような声だった。


アランは侍女を見たまま、動かない。


「下がらせます」


「まだ答えていない」


「答えられない問いです」


レイの声は冷たかった。


(はい、刺した。ここで刺さないと侍女が紙みたいに畳まれる。あと陛下、それ以上やると完全に尋問です。名前を変えても尋問です)


アランの視線が、ようやくレイへ移る。


「俺は、尋問しているように見えるか」


レイは一拍も置かなかった。


「見えます」


部屋の空気が、硬くなる。


侍女は頭を下げたまま動けない。

アランは何も言わない。拳の中の封蝋だけが、赤く潰れている。


やがて、アランは低く告げた。


「……下がれ」


侍女が震えるほど深く礼をして、退く。

扉が閉まるまで、アランはその背を見なかった。


ただ、自分の拳を見下ろしていた。


赤い粉が、掌の隙間からこぼれている。


扉が閉まったあと、しばらく音が戻らなかった。


侍女の足音はもう遠い。

それでも、床に残った緊張だけが、まだ部屋の隅に張りついている。


アランは握った拳を見下ろしていた。


赤い封蝋の粉が、掌の隙間から落ちている。

血ではない。傷でもない。痛みと呼ぶには浅い。けれど、その赤はあまりにも都合よく、彼の手の中で砕けていた。


尋問。


レイはそう言った。

見えます、と。


アランはその言葉を、怒りで弾かなかった。弾けなかった。

侍女の肩が揺れた瞬間を見ていた。頭を深く下げ、声を細くして、それでも王に逆らえず答えようとした姿を見ていた。


そして、自分がそれを止めなかったことも。


「……レイ」


「はい」


アランは少しだけ顔を上げた。

扉ではなく、レイを見る。


「今の俺は、彼女にもああ見えるのか」


声は低かった。

だが、責める低さではなかった。刃を向ける声でもない。もっと悪い。自分の喉に刃を当てて、その切っ先をレイに確認させる声だった。


レイはすぐに答えなかった。


答えを選ぶ沈黙が、部屋の空気をさらに重くする。

けれどアランは急かさなかった。急かせば、その時点で答えが出る。今の自分は、また命じている。そういう形になる。


レイは、手元の書類を一度だけ揃えた。


紙の端が、乾いた音を立てる。


「セラフィナ様がどうご覧になるかは、私には断言できません」


逃げではない。

断言しないという、冷たい線引きだった。


アランの目が細くなる。


「なら、お前にはどう見えた」


レイは顔を上げた。

目は逸らさない。


「怖かったと思います」


短い答えだった。


アランの指が、わずかに動く。

握った封蝋が、また細かく砕けた。


(言った。言ったぞ。今、王に向かって真正面から怖いって言った。胃、拍手はいい。逃げる準備をしろ)


レイの声は続いた。


「侍女にとっては、陛下が何をお望みか分からないまま、正しい答えを探す時間でした。先ほどの問いは、答えを確認しているようで、実際には間違いを探しているようにも聞こえます」


アランは黙って聞いていた。


怒れたら、楽だった。

レイを黙らせればいい。侍女の報告が曖昧だったから確かめただけだと、いくらでも言える。セラフィナの体調を案じただけだと、正しい形に整えられる。


だが、掌の中の赤が邪魔だった。


「……セラフィナにも」


喉が、一度そこで止まる。


「俺は、そう見えるのか」


レイはわずかに息を吸った。


今度の答えは、先ほどよりもさらに薄い刃だった。


「見える瞬間は、あるかと」


部屋の温度が落ちた。


アランは笑わなかった。

否定もしなかった。


ただ、握った拳をゆっくり開く。

砕けた封蝋が、掌の上で赤い粉になっていた。王印の形など、もうどこにもない。


「……そうか」


その一言は、床へ落ちる前に少しだけ掠れた。


レイは動かなかった。

慰める言葉を出さない。今ここで慰めれば、アランはそこに縋る。刺したあとに布を巻けば、刃まで正当化される。


だから、レイはただ立っていた。


(ここで慰めたら終わる。ここで優しくしたら、たぶん陛下は救われてしまう。救われた顔で、また同じことをする。胃、今日は冷酷でいこう)


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