内なる地獄 1
執務室には、昼の光が薄く差していた。
机の上には、まだ裁可の終わっていない書類が重なっている。王印、封蝋、細い銀のペーパーナイフ。すべてが整っていた。整っているものだけが、この部屋では従順だった。
セラフィナが扉へ向かう。
アランは書類に落としていた視線を上げた。
ただの退室だ。そう判断するには、十分な理由がある。彼女にも用がある。彼女にも、彼の前から離れる自由がある。
分かっている。
分かっているのに、その背中が扉に近づくたび、胸の奥で何かが擦れた。
「セラフィナ」
名前は静かだった。
責める声ではない。引き留める命令でもない。ただ、呼んだ。呼んだだけだ。そう言える程度の声に、ちゃんと抑えた。
セラフィナは、振り返らなかった。
足を止めない。返事もしない。
そのまま扉を開け、執務室を出ていく。
扉が閉まる音がした。
アランの指が、机の縁に触れたまま止まる。
聞こえなかったのか。
急いでいたのか。
今は返す気になれなかっただけか。
それとも。
そこまで考えて、アランは奥歯を噛んだ。
それとも、もう返す価値もないのか。
理屈は、いくつも並べられる。
彼女を責める理由にはならない。沈黙には沈黙の理由がある。答えを急かすな。追うな。今、扉を開けるな。
分かっている。
分かっているのに、身体だけが遅れて熱を持つ。
扉へ向かうべきだと、まだどこかが言っている。顔を見ろ。声を聞け。何か言わせろ。怒りでもいい。冷たい一言でもいい。彼女の中に、まだ自分へ向くものがあると確かめろ。
封蝋の欠片が、親指の下で割れた。
乾いた音に、レイが視線を動かした。
表情は変わらない。
宰相としての顔は、涼しいほど整っている。抱えていた書類の角も乱れない。けれど胸の中では、一歩ぶん後退していた。
(扉は悪くない。まず扉は悪くないぞ)
アランは扉を見たまま、低く言った。
「……今のは、聞こえていたと思うか」
レイは即答しなかった。
答え方を間違えると燃える。
軽くすれば、アランは自分の感情を軽んじられたと思う。重くすれば、沈黙に意味を与えすぎる。どちらにしても面倒だ。よりによって、その面倒の中心に王がいる。
レイは一礼した。
声は冷静だった。
「聞こえていたかどうかは、断言できません」
アランの視線だけが、ゆっくりレイへ向く。
「お前なら、どう見る」
「セラフィナ様は、返答なさらなかった。現時点で確実に言えるのは、それだけです」
硬い答えだった。
冷たいほど正確な答え。
だが、その冷たさはアランを突き放すためではない。余計な意味を足せば、今のアランはその意味ごと飲み込む。毒でも薬でも、彼は飲む。飲んでしまう。
レイの頭の中が、静かに机を叩いた。
(意味を盛るな。沈黙に装飾をつけるな。陛下が全部買い取る)
アランは短く笑った。
笑った、というより、喉の奥で何かが擦れただけだった。
「確実に言えることだけで済めば、楽だな」
「はい」
レイは一拍も置かずに答えた。
「楽です。ですので、今はそこに留めてください」
その言葉に、アランの目がわずかに細くなる。
命じられたわけではない。
慰められたわけでもない。
ただ、止められた。
アランは机から手を離した。割れた封蝋の赤が、指先に少し残っている。
「……追うな、と言うのか」
「今追えば、確認ではなくなります」
レイの声は、最後まで平坦だった。
「答えを求める形をした、命令になります」
執務室の空気が沈む。
アランは何も言わなかった。
扉を見た。次に、自分の指先を見た。赤い封蝋の欠片が、血のように爪の際に入り込んでいる。
その色を見た瞬間、喉の奥の熱がほんの少しだけ形を変えた。
「……そうか」
短い声だった。
納得ではない。
反省でもない。
ただ、今すぐ扉へ向かう足に、一本だけ鎖をかけた声だった。
レイはわずかに顎を引く。
(よし、一本かかった。問題は鎖が細いことだ。あと陛下が馬じゃなくて竜なことだな。胃、今日も働け)
アランは立ち上がった。
椅子が床を擦る音に、レイの指がわずかに止まる。
だがアランは扉へ向かわなかった。扉へ向かうには、足があまりに正直すぎた。今その一歩を許せば、次の一歩も許す。次は取っ手に手がかかる。開ける。呼ぶ。追う。答えを求める。
そこまで見えていた。
だからアランは、机の前に立ったまま、割れた封蝋を見下ろした。
赤い欠片が、木目の溝に散っている。
ただの封蝋だ。王印を受けるために溶かされ、固められ、割られるもの。意味を閉じ込め、破られれば役目を終えるもの。
その赤が、妙に目についた。
「……壊すつもりはなかった」
小さく落ちた声は、封蝋に向けたものなのか、扉の向こうに消えた沈黙に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
レイは顔を上げた。
表情は変えない。宰相として、その言葉を拾うにも捨てるにも早すぎる。だが頭の中だけが、机の下で盛大に頭を抱えた。
(封蝋に謝り始めた。いや違う、封蝋じゃない。分かってる。分かってるが、今の相手は封蝋だ。封蝋、荷が重いぞ)
アランの指が、割れた欠片に触れる。
拾い集めようとしたわけではない。だが指先は、散った赤の輪郭をなぞっていた。爪の際に入り込んだ色が取れない。
「俺は、何を確かめようとした」
レイは一拍置いた。
ここで「セラフィナ様のお気持ちを」と言えば、アランは沈む。
「ご自身の不安を」と言えば、刺さる。
「何も」と言えば、嘘になる。
冷徹な宰相の顔で、レイは一番痛みが少なく、一番逃げ道の少ない言葉を選んだ。
「陛下が、まだ届く位置にいるかを」
アランの指が止まった。
音はしなかった。
けれど部屋の中で、何かが一段深く沈んだ。
「……届く位置」
「はい」
レイは視線を伏せない。
ここで逸らせば、慰めになる。慰めは今のアランにとって、甘すぎる毒になる。
「ですが、それを今すぐに証明させる必要はありません」
アランは封蝋から指を離した。
「証明」
言葉を噛むような声だった。
王が誰かに証明を求める。
愛されているか。拒まれていないか。まだ見捨てられていないか。そんなものを、彼女の沈黙の直後に差し出せと求める。
醜い。
そう思った瞬間、熱が逆向きに走った。セラフィナへ伸びかけていたものが、自分の内側へ刃を返す。
アランは短く息を吸った。
「……そうだな」
納得した声ではなかった。
ただ、扉へ向かう衝動を封蝋の赤に縫い留める声だった。
レイは無言で控えたまま、抱えた書類を少しだけ持ち直す。
(よし、今は封蝋が身代わりになった。ありがとう封蝋。あとで高級品を発注してやる。胃の予算はない)
アランは立ち上がった。
椅子が床を擦る。
けれど、扉へは向かわなかった。そこへ行けば、追ったことになる。名前を呼べば、引き止めたことになる。問いかければ、答えを求めたことになる。
それは分かっていた。
分かっているから、別の道を選んだ。
アランの視線は、机の上に散った赤い封蝋へ落ちる。割れた欠片が、木目の溝に入り込んでいた。親指の腹に残った赤を見下ろしながら、彼は低く言った。
「侍女を呼べ」
レイの指が、書類の角で止まった。
表情は動かない。
「どの侍女を」
「セラフィナ付きの者だ」
早い。
迷った跡がない。
レイは一礼した。声も、姿勢も乱れない。
(行った。正面玄関は我慢したのに、裏口から入る気だ。しかも鍵を王権で開ける気だ)
アランは封蝋の欠片から目を離さない。
「体調を崩していないか確認しろ。疲れているなら、今日は下がらせていい。……それと」
言葉が一度、喉で止まった。
伝えるべきことはいくつも浮かんだ。
怒っているなら言え。嫌だったなら言え。先ほどの沈黙は何だ。俺は何を間違えた。まだ俺の言葉は届いているのか。
どれも、伝言の形をした要求だった。
アランはそれを理解した。
理解した上で、やめなかった。
「返事はいらない。そう伝えろ」
レイのまぶたが、ほんのわずかに下がる。
「承知しました」
(返事はいらない、は返事が欲しい人間の言葉なんだよな……いや、言わない。今それを言ったら封蝋の次に私が割れる)
アランはようやく顔を上げた。
扉ではなく、レイを見る。
「いや」
レイの視線が戻る。
「無理に返事はいらない、だ」
一文字ぶん、欲が増えた。
言葉の端に、引っかかるような未練がある。無理でなければ返せ。そう聞こえてしまう。アラン自身にも、それは聞こえていた。
それでも、撤回しない。
「……それと」
レイは黙って待った。
アランの指が、赤い欠片を一つ押し潰す。粉になった封蝋が、爪の際に残る。
「怒っているなら、侍女には言わせるな。俺に言え」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
レイは一瞬だけ、書類を持つ手に力を入れた。
紙は折れなかった。顔も崩れなかった。
(増やした。しかも重い方に増やした。返事はいらないからの俺に言え、情緒が全速力で逆走している)
「そのまま、お伝えしますか」
「伝えろ」
短い命令だった。
その声には、王の形があった。
けれど奥にあるのは、もっと個人的で、もっと乾いたものだった。沈黙に触れられない男が、沈黙の周りから指を差し込んでいる。
レイは深く一礼した。
「承知しました」
アランは頷かなかった。
ただ、封蝋の赤を見下ろしたまま、低く付け足した。
「……顔色だけでいい。無理に聞き出すな」
無理に聞き出すな。
そう言いながら、命じている。
レイは扉へ向かう前に、半歩だけ足を止めた。
「陛下」
アランの目が動く。
「侍女が戻りましたら、報告は私が受けます」
沈黙が落ちた。
アランはしばらくレイを見ていた。
それが監視だと分かったのか。配慮だと受け取ったのか。あるいは、どちらでもあると気づいたのか。
やがて、短く息を吐く。
「好きにしろ」
許可だった。
苛立ちも混じっていた。
それでも、止めはしなかった。
レイは扉へ向かう。
(好きにしろ、いただきました。好きにした結果、胃が死ぬ予定です。なお異議申し立ては受け付けない)
扉が開く。
今度は、セラフィナが出ていった時よりも、少しだけ重い音がした。
レイが扉へ向かいかけた、その背に。
「待て」
アランの声が落ちた。
低い。
だが、先ほどよりもわずかに速い。考えが追いつく前に、欲が言葉の形を取り始めている。
レイは足を止めた。振り返る角度は最小限だった。
書類を抱えた腕も、表情も、乱れない。
「はい」
アランは封蝋の赤を見下ろしていた。
割れた欠片のひとつを、指先で横へ押す。粉になった赤が、木目に薄く擦りついた。
「……いや、伝言を足せ」
レイの眉は動かなかった。
(足すな。いや足すだろうなとは思った。思ったが、足すな)
「なんと」
アランはすぐには答えなかった。
無視していい。
そう言えばいい。
彼女に返事を強いる気はない。
彼女の沈黙を責めるつもりもない。
怒っていてもいい。疲れていてもいい。何も言いたくないなら、それでいい。
そう言いたい。
言いたいのに、言葉にすればするほど、そこに自分が混ざる。
無視していい。だが本当に無視されたら。
返事はいらない。だが本当に返ってこなかったら。
怒っているなら俺に言え。だが、何も言われなかったら。
アランは小さく息を吸った。
「……無視していい、と」
レイは黙って聞いていた。
「先ほどの伝言も、俺が呼んだことも。気にしなくていい。返す必要もない。怒っているなら……いや、それもいい。言いたくなければ、言わなくていい」
ひどい矛盾だった。
返事はいらない。
無視していい。
言わなくていい。
それを、わざわざ侍女を通して伝えさせる。
沈黙を許す言葉で、沈黙の中へ手を伸ばしている。
レイは一礼した。
声は平坦だった。
「そのまま、お伝えします」
(無視していい、を無視できない形で届ける。美しい地獄の包装紙だな。熨斗までついてる)
アランの指が止まった。
「……そのままではない」
レイは顔を上げる。
アランは、赤く汚れた親指を見ていた。
そこに付いた封蝋を、落とそうともせずに。
「柔らかく言え」
レイの胃が、静かに壁を見た。
(出た。柔らかく。刃物を布で包めば贈り物になると思っている。ならない。刺さる時は刺さる)
「承知しました」
「それと」
まだ増える。
レイは表情を変えなかった。内心だけが、書類棚に頭を打ちつけている。
アランは言葉を探した。
探して、選んで、結局いちばん欲深いものを避けきれなかった。
「……顔色が悪ければ、すぐに知らせろ」
沈黙。
それはもう、無視していい伝言ではなかった。
返事はいらないと言いながら、反応の欠片を求めている。言葉が駄目なら、顔色。声が駄目なら、侍女の報告。直接触れられないなら、周りの空気。
アランはそれを分かっている。
分かっている顔で、命じている。
レイは深く頭を下げた。
「承知しました」
アランは椅子へ戻らない。
扉にも向かわない。
ただ、机の前に立ったまま、割れた封蝋を見下ろしていた。
その赤い欠片だけが、彼の代わりに何かを壊したように散っている。




