表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハジャルの祈り  作者: ちよ【kindleペンネーム:白井ちよ】


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/7

第五話

 ハサンは答えなかった。いや、答えられなかった。 常であれば一拍も置かず返ってくる返答が、訪れない。


 瞬きを一つ。その次の瞬きが、なかなか訪れなかった。


 部族間の均衡。

 王配選定の慣例。

 三名の候補者。

 王権への影響。

 外交。

 継承権。

 自身の身分。

 そして、女王自らが宰相を王配に指名したという前例のない事態。


 無数の情報が一瞬で脳裏を駆け巡る。


 執務室は、水を打ったように静まり返っていた。


 老臣たちは息を呑み、文官たちは目を見開き、侍従たちは身じろぎ一つできずに立ち尽くす。誰もがハサンと言う男を見ていた。


 どれほど難しい政務であろうと、どれほど複雑な外交案件であろうと、この男は即座に最適解を示してきた。そのハサンが誰が見ても動揺している。



 ようやくハサンは小さく息を吸った。


「……恐れ……ながら、陛下」


 砂漠に一昼夜放り出されたような、ひどく掠れたような声だった。


「この婚姻は、……私一人の返答でお受けすることは、できません」


 異論はなかった。というより、この場で「はい、喜んで」と即答されていたら、今度は部屋中が卒倒していただろう。


「養父母、ならびに一族へ話を通す時間を、お与えいただけますでしょうか」


 婚姻とは、二人だけの契りではない。一族と一族を結び、家と家を結ぶ盟約である。本人だけの意思で即答できるものではなかった。


 ラズィーヤは迷うことなく頷いた。


「もちろんだ」


 その一言に、ハサンはわずかに肩の力を抜く。


「家長と一族への礼を欠くわけにはいかぬ」


 ラズィーヤは玉座にもたれたまま、淡々と続けた。


「政務の引き継ぎを済ませよ。お前がおらぬ間、国政が滞ることは許さん」

「……承知いたしました」

「必要であれば補佐官を増やせ。仕事の調整はこちらでも行う」


 そこまで告げると、ラズィーヤは少しだけ考えるように視線を伏せた。


「私も書簡をしたためよう」


 老臣たちの空気が再び変わる。


「王家より正式に婚姻を申し入れる。お前の養父母へ、そして一族へ。私の名と王印をもって伝えよう」


 ハサンは深く頭を垂れた。


「……恐れ入ります」


 その様子を、最年長の老臣だけが静かに見つめていた。深い皺に刻まれた目が、ラズィーヤへと向けられる。老人はわずかに目を細め、その場では何も言わなかった。


 ラズィーヤは満足そうに一つ頷くと、机の上の書類へ視線を戻した。


「話は以上だな」


 羽根ペンを手に取り、一枚目の決裁書へ目を通す。


「東部灌漑路の修復計画だが、この予算では不足する。予備費から回せ」


 返事が、ない。ラズィーヤは羽根ペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。


「……ハサン?」


 呼ばれた本人は、まだそこに立っていた。先ほどと寸分違わぬ姿勢であり、まるで魂だけがどこか遠くへ旅立ってしまったかのように。


 執務室にいる誰もが、息を潜めてその様子を見守っている。ラズィーヤはもう一度声をかけた。


「どうした」


 一拍の後、ようやくハサンの瞳に光が戻る。


「あ……」


 そして、ゆっくりと頭を下げた。


「はい」


 その返事は、今日一番素直だった。ハサンは一歩前へ進み何事もなかったかのように、ラズィーヤの傍らへ立つ。


「……予備費より三割を充当いたします。詳細な配分案は本日中に作成いたします」

「うむ」

「外交使節への返礼文も修正いたします」

「任せる」


 執務室に流れていた奇妙な緊張がほどけた。文官たちは慌てて羽根ペンを走らせ、侍従は散らかった書簡を抱え直し、老臣たちもそれぞれの持ち場へ戻っていく。


 止まっていた時間が再び動き始めた。最年長の老臣は、机の上に残された三枚の釣書を静かに重ね片付ける。そして、誰にも聞こえぬほど小さく息を吐く。


 若き王は自らの伴侶を選んだ。それなのに当の本人たちは、もう次の決裁へ話を進めている。老人は苦笑を飲み込めなかった。


(ハサンが心労で倒れなければよいが……)


 年長者の余計な気遣いに終わればいいと、老臣は神に祈った。

毒蛇って繊細な生き物なんです。取り扱い注意。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ