第五話
ハサンは答えなかった。いや、答えられなかった。 常であれば一拍も置かず返ってくる返答が、訪れない。
瞬きを一つ。その次の瞬きが、なかなか訪れなかった。
部族間の均衡。
王配選定の慣例。
三名の候補者。
王権への影響。
外交。
継承権。
自身の身分。
そして、女王自らが宰相を王配に指名したという前例のない事態。
無数の情報が一瞬で脳裏を駆け巡る。
執務室は、水を打ったように静まり返っていた。
老臣たちは息を呑み、文官たちは目を見開き、侍従たちは身じろぎ一つできずに立ち尽くす。誰もがハサンと言う男を見ていた。
どれほど難しい政務であろうと、どれほど複雑な外交案件であろうと、この男は即座に最適解を示してきた。そのハサンが誰が見ても動揺している。
ようやくハサンは小さく息を吸った。
「……恐れ……ながら、陛下」
砂漠に一昼夜放り出されたような、ひどく掠れたような声だった。
「この婚姻は、……私一人の返答でお受けすることは、できません」
異論はなかった。というより、この場で「はい、喜んで」と即答されていたら、今度は部屋中が卒倒していただろう。
「養父母、ならびに一族へ話を通す時間を、お与えいただけますでしょうか」
婚姻とは、二人だけの契りではない。一族と一族を結び、家と家を結ぶ盟約である。本人だけの意思で即答できるものではなかった。
ラズィーヤは迷うことなく頷いた。
「もちろんだ」
その一言に、ハサンはわずかに肩の力を抜く。
「家長と一族への礼を欠くわけにはいかぬ」
ラズィーヤは玉座にもたれたまま、淡々と続けた。
「政務の引き継ぎを済ませよ。お前がおらぬ間、国政が滞ることは許さん」
「……承知いたしました」
「必要であれば補佐官を増やせ。仕事の調整はこちらでも行う」
そこまで告げると、ラズィーヤは少しだけ考えるように視線を伏せた。
「私も書簡をしたためよう」
老臣たちの空気が再び変わる。
「王家より正式に婚姻を申し入れる。お前の養父母へ、そして一族へ。私の名と王印をもって伝えよう」
ハサンは深く頭を垂れた。
「……恐れ入ります」
その様子を、最年長の老臣だけが静かに見つめていた。深い皺に刻まれた目が、ラズィーヤへと向けられる。老人はわずかに目を細め、その場では何も言わなかった。
ラズィーヤは満足そうに一つ頷くと、机の上の書類へ視線を戻した。
「話は以上だな」
羽根ペンを手に取り、一枚目の決裁書へ目を通す。
「東部灌漑路の修復計画だが、この予算では不足する。予備費から回せ」
返事が、ない。ラズィーヤは羽根ペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……ハサン?」
呼ばれた本人は、まだそこに立っていた。先ほどと寸分違わぬ姿勢であり、まるで魂だけがどこか遠くへ旅立ってしまったかのように。
執務室にいる誰もが、息を潜めてその様子を見守っている。ラズィーヤはもう一度声をかけた。
「どうした」
一拍の後、ようやくハサンの瞳に光が戻る。
「あ……」
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「はい」
その返事は、今日一番素直だった。ハサンは一歩前へ進み何事もなかったかのように、ラズィーヤの傍らへ立つ。
「……予備費より三割を充当いたします。詳細な配分案は本日中に作成いたします」
「うむ」
「外交使節への返礼文も修正いたします」
「任せる」
執務室に流れていた奇妙な緊張がほどけた。文官たちは慌てて羽根ペンを走らせ、侍従は散らかった書簡を抱え直し、老臣たちもそれぞれの持ち場へ戻っていく。
止まっていた時間が再び動き始めた。最年長の老臣は、机の上に残された三枚の釣書を静かに重ね片付ける。そして、誰にも聞こえぬほど小さく息を吐く。
若き王は自らの伴侶を選んだ。それなのに当の本人たちは、もう次の決裁へ話を進めている。老人は苦笑を飲み込めなかった。
(ハサンが心労で倒れなければよいが……)
年長者の余計な気遣いに終わればいいと、老臣は神に祈った。
毒蛇って繊細な生き物なんです。取り扱い注意。




