第四話
戴冠から七日。
王宮にはようやく静けさが戻りつつあった。
だが、それは決して平穏を意味するものではない。
王が代われば、国もまた動く。
砂漠を潤す水利権の再配分。各部族への通達。父王の代に結ばれた盟約の再確認。隣国から届く祝辞への返礼。各地の族長との謁見。山のように積み上げられた書簡は、一枚裁いても二枚増える始末だった。
執務室の窓から差し込む陽光が、机の上に積まれた羊皮紙を黄金色に染めている。その中央で、ラズィーヤは一枚の報告書に目を通していた。
「東部の灌漑路は予定どおり修復を開始いたしました」
低く落ち着いた声が響く。机の傍らに控えるハサンは、次々と報告書を差し出していく。
「南方三部族からも恭順の使者が到着しております」
「北の隊商は」
「明朝、王都へ入ります」
「外交使節への返礼は」
「既に草案を作成しております」
短い問答が淀みなく続く。王が決裁し、宰相が動かす。執務室の隅で控えていた老臣たちは、互いに目配せを交わす。
若き王の即位は不安視されていた。しかし、少なくとも政務は滞っていない。むしろ父王の晩年より決裁は早かった。ラズィーヤは必ず決める。ハサンはその決定を寸分違わず形にする。
まるで何年も共に国を動かしてきた主従のようだった。ひと区切りついたところで、最年長の老臣が静かに進み出る。
「陛下」
「なんだ」
「本日は、一つご相談がございます」
ラズィーヤは羽根ペンを置き、老臣へ視線を向けた。
「申せ」
「戴冠も無事に終わり、風の神より王としてのお認めもいただきました」
「うむ」
「陛下が日夜、国政に心を砕いておられることも、我ら重々承知しております」
老臣は一度深く頭を下げる。
「しかしながら、王家にはもう一つ、大切なお務めがございます」
部屋の空気が少しだけ引き締まる。
「お世継ぎにございます」
その言葉にラズィーヤは静かに目を伏せた。逃れられぬ話だ。王とは一人の人間である前に、王家という血を未来へ繋ぐ存在でもある。
「戴冠前より選定を進めておりました王配候補は、現在三名まで絞られております」
老臣が合図すると侍従が三枚の書状を恭しく机へ並べた。いずれも砂漠の有力部族を率いる若き男たちだ。
武勇に優れた者。
民望の厚い者。
外交に長けた者。
誰が選ばれても、国にとって大きな利益となる顔ぶれだった。
「本来であれば、あと数年のお時間をかけ、ゆっくりとお選びいただく予定でございました」
老臣の声音には、前王の突然の病を惜しむ響きが混じる。
「ですが情勢は変わりました。恐れながら、陛下には今年中にも王配をお決めいただきたく存じます」
執務室は静まり返った。
ラズィーヤは三枚の書状を見つめる。知らぬ相手ではない、幼少の頃から幾度となく顔を合わせ公務でも言葉を交わしてきた。
誰もが誠実で有能な男たちだった、王配として不足はない。ラズィーヤはゆっくりと口を開いた。
「……私が決めてよいのか」
その問いに、老臣たちは一斉に頭を垂れる。
「もちろんにございます」
「我らは、陛下がお選びになった方を全力でお支えいたします」
「どうか、ご自身のお心でお決めください」
最年長の老臣がラズィーヤの目を見据えて地鳴りのような声で言った。
「伴侶を選ぶのは陛下です。その決定権だけは、誰にも譲ってはなりません」
ラズィーヤはしばらく彼を見つめた。
「そうか」
小さく息を吐く、そして三枚の書状を閉じた。
「ならば」
誰もが息を止める、次に呼ばれる名を待っていた。
「ハサン、お前だ」
執務室の時が止まった。老臣の一人が目を見開き、侍従の手から書簡が滑り落ちた。部屋の隅で控えていた文官が口を半開きにしたまま固まる。誰一人、声を出せなかった。
ラズィーヤはそんな空気など存在しないかのように続ける。
「私は、お前を王配に望む」
なおも静寂は続いた。やがて部屋中の視線がただ一人の男へ集まる。当のハサンは、いつもの無表情のまま立っていた。
……ように見えた。
実際には、その思考は完全に停止していた。人生で一度も想定したことのない事態だった。どれほど複雑な政略も、どれほど難解な外交も処理してきた男の頭が生まれて初めて真っ白になる。
ようやく彼の唇が動いた。
「…………えっと、はい?」
その一言だけが、静まり返った執務室に、あまりにも間の抜けた声で響いた。




