第九話 八つ目の寝床
桶の水が、凍っていた。
ケーテの言ったとおりだ。表に、指の厚さの氷が張っている。
ケーテが銃床の角で氷を割り、鍋に移して火鉢にかけた。湯になるまで、まだかかる。
「お嬢。パン、湯を待ってたら朝の点呼に間に合いませんよ」
「なら、どうする」
「懐」
ケーテは自分の黒パンを、外套の前を開けて、脇の下に挟んだ。
「脇で抱いて、四半刻。外は石でも、中が少し戻る。戻ったところを短刀で薄く削いで、口の中で温めてから噛む。歯、欠けますから」
ノラは自分のパンを見た。石だ。鍋の湯で浸すつもりでいた。
(人前で、外套を……!?)
「脇の下に、お入れになるの?」
鍋の向こうで、大男の手が止まった。
「……お入れに、なる」
大男が、ゆっくり繰り返した。少年が、膝に顔を伏せた。
(繰り返さないで……!)
ノラは外套を開け、パンを脇に挟み、外套を閉じた。冷たい。石を抱いている。
四半刻後、短刀で削いだ一枚は、紙のように薄く、口の中でほどけた。
「うまい」
「遅いです」とケーテが言った。
*
中隊長は、昼前に来た。
護送の兵を二人連れていた。戸口で、捕虜の中尉を立たせる。手の縄は、前で縛ったままだ。
ケーテが、背に回していた中尉の剣を外して差し出した。中隊長は鞘を払って刃を確かめ、護送の兵に渡し、帳面に書いた。捕虜一、将校、剣一。受領、クラウゼ。
中尉は、連れ出される戸口で振り返った。ノラを見て、護送の兵に言った。
「あの伍長は、鉄か」
護送の兵は答えなかった。ノラを見て、中尉の腕を引いた。
(鉄……!? 峠で膝が立たなかったのよ? 崖では、若いのに腰を抱えられていたのに……!)
(どこが。どこが鉄なの)
(……崖では、短刀に手が行ったけれど)
中隊長は、火鉢の前の腰掛けに座った。着任の日に、蹴られた腰掛けだ。
懐中時計を出して、膝に置いた。
「報告しろ」
「補給所の火薬庫を焼きました。持ち帰ったのは弾薬一箱、白パン六十二、塩一袋、捕虜一。分隊に損害はありません」
「煙は見た。十日待つと言って、三日目の朝だ」
中隊長の目尻が、緩んだ。第三分隊を谷へ出さずに済んだ。七日分、得をした顔だった。
「白パンは中隊で預かる。十は置いていけ。峠を越えた足の分だ」
「崖で、弾薬を一箱、谷へ落としました」
(黙っていれば、いつか誰かの首になるわ。箱が一つ足りないって)
「落とした?」
「捕虜が足を滑らせ、私が引かれました。箱を捨てさせたのは、私です」
鍋の脇で、若い兵の匙が止まった。
中隊長は、ノラを見た。それから、若い兵を見た。目尻は、動かなかった。
「そう書く。伍長の判断で一箱を失った。次は、箱も拾え」
「はい」
「それと、火薬を」
「出ん」
中隊長は、すぐに言った。
「谷が開くまで、中隊の分も薄い。峠を落とした分隊は、春まで尾根で寝ていろ」
「尾根で斥候と出くわせば、撃ち合いになります。撃てない分隊は、そこで終わります」
中隊長は、時計の蓋を指で叩いた。一つ、二つ。
「……峠を落とした分隊が、撃てずに尾根で狩られた。それを上に書くのは、俺か」
蓋を閉じた。
「紙包みを二百。夕方までに届けさせる。靴下を十」
「二百で、一人、二十八発と少し」
ケーテが、帳簿の陰で言った。「足りまーす。撃ちすぎなければ」
中隊長は帳面を閉じかけて、手を止めた。
「その弾薬の箱は」
「弾を出して、燃やしました」
中隊長の目が、火鉢へ行った。灰しかない。
「どこの工廠の箱だった。向こうの弾の出どころは、上が欲しがる」
外套の内側で、蝋が、胸に当たっている。輪の中に、枝のような線が沈んだ蝋。
(帳面に載れば、上の誰が読むか知れないわ)
「見ていません。夜で、煤だらけでした」
中隊長は、ノラの顔を見た。それから、帳面を閉じた。
火鉢の向こうで、老兵は銃を拭く手を止めなかった。
*
「名を書く。上に出す紙だ」
中隊長が、中隊の名簿を開いた。分隊の行を読み上げ、顔と合わせていく。
「グスタフ、《遠見》」
老兵が、銃を拭いたまま、指を一本上げた。
「ヘルガ、《耐寒》。エミール、《灯火》」
娘が手を上げ、エミールが遅れて上げた。
「ベルント」
中隊長は、大男を見上げた。
「《剛力》か。荷運びに使え。それがいちばん損がない」
「峠も、運んだ」
大男が、湯に向かって言った。
「ケーテ。札は――」
「愛想だけです、中隊長どの」
ケーテは、帳簿から顔を上げずに言った。中隊長は、名簿の字を読まずに、次の行へ指を進めた。
「ヨスト」
返事がなかった。
中隊長の指が、名簿の上で止まった。分隊が、互いを見た。誰の名か、すぐには出てこない。
鍋の脇で、若い兵が、遅れて手を上げた。
「……おれです」
ヨスト。
帳簿で読んだ字が、声になった。
「七人。揃っているな」
中隊長は名簿を閉じ、時計をしまった。戸口で、振り返らずに言った。
「峠のことを、紙で出せ。明後日まで。大隊へ上げる。それと、明日、補充を一人回す。おまえのところが、いちばん寝床が空いている」
*
夕方、紙包みが届いた。
届けに来た中隊の兵は、箱を下ろす前に、納屋の中を見回した。
「鉄の伍長の分隊は、ここか」
分隊の目が、全部、ノラに来た。
(また……! 昼に一人が言ったのが、夕方には中隊じゅうに? 噂って、峠を越えた分隊より足が速いの……?)
「ここだ」
兵は、ノラを上から下まで見て、箱を下ろした。戸口で、もう一度振り向いて見てから、帰っていった。
ケーテが、帳簿で口を隠していた。肩が揺れていた。
「鉄のお嬢」
「やめろ」
「教練をやる」
ノラが銃を取ると、分隊の顔が、そろって嫌そうになった。そろうのは、顔だけだ。
「込める手順を、十二に割る。数に合わせて手を動かせ。先に終わるな。遅れるな」
「数えなくても撃てる」と大男が言った。
「撃てる。そろわない」
「そろうと、何かいいんですか?」とケーテ。
「やればわかる」
空の銃で、一回目はノラが数えた。
「一、噛む。二、開ける。三、盛る」
大男は七で終わって、退屈そうに立っていた。少年は五で紙を落とした。ヨストは、皿を開けないまま三で盛ろうとした。老兵だけが、数の上を歩くように、ぴたりと合わせてきた。
「二回目。ケーテ、数えろ。私も込める」
「えー。何で数えりゃいいんです」
「一から十二まで。同じ速さで」
ケーテの声は、ノラより速かった。帳簿の数を読む速さだった。
(速いわ……! 舞踏の稽古なら、三拍目で裾を踏むわ)
噛む。開ける。盛る。三。
三と五と八は、峠の前に百回を越えた。
十二。構えていたのは、老兵と、ノラの二人だった。
(合っているわ。人の数に)
(ちょっと、すごくないかしら)
顔は動かさなかった。動かさなかったつもりだった。ケーテが、数えるのをやめて、こっちを見ていた。
「……いっちばんビリの人、どこ行きましたー?」
「三回目」
「えー」
四回目で、少年が紙を落とさなくなった。五回目で、大男が七で止まって、待つことを覚えた。待ちきれずに、八の前に棒へ手をかけて、老兵に肘で突かれた。七回目で、ヨストが皿を開け忘れなくなった。
十回目。
十一、と数が落ちたところで、撃鉄を起こす音が、六挺のうち五つ、一つに重なった。少年の一つだけが、遅れて鳴った。
かちり。
大男が、自分の銃と、隣の老兵の銃を見比べた。
「……いまの、一つに聞こえた」
「だから、やる」
*
ケーテが火鉢のそばで、中隊長に出す紙を書いていた。
「お嬢。時刻って、どう書くんです。夜中、とか?」
「鐘で書く。三つ目の鐘のあと。方角は、尾根の線から。峠を右手に見て、と」
「めんどくさ」
「読む人は、峠を見たことがない」
めんどくさ、ともう一度言いながら、ケーテは書き直した。
夜番の組を、ノラが読み上げた。半刻ずつ、六番まで。
「道側、初番。ヘルガとエミール。尾根側、初番。グスタフと――」
止まった。
(若いの、で通じるわ。分隊は、それでわかる。……でも)
「ヨスト」
寝床で、ヨストが顔を上げた。
老兵が先に立ち、銃を取った。戸口でノラの横を過ぎるとき、分隊に聞こえない声で言った。
「中隊長に聞かれても、わしは印なんぞ見とらん」
老兵は、返事を待たずに戸を出た。
ヨストが外套を取って、戸口で立ち止まった。
「伍長。崖の箱。捨てたのは、おれです」
「知っている」
ヨストは、何か言いかけて、やめた。
「次は、箱も拾います」
戸の外へ出た。
すねの青は、もう消えていた。
戸が閉まると、ケーテが帳簿の名前の列を指でたどって、いちばん下に一行あけた。
「補充の人の寝床、どこにします?」
「腰掛けの横を空ける」
「修道院の人ですって。追い出された。血を見ると、真っ青になるそうですよ」
帳簿の、あけた一行の頭に、ケーテは「八」と書いた。




