第十話 縫い目
「ハルト伍長の分隊に、補充一」
伝令は戸口で雪を払い、後ろの女を前に出した。
女は、外套の袖を指の先まで下ろしていた。
年は、ノラより六つか七つ上に見える。頭に巻いた布の端から、短く刈った髪がのぞいていた。
ノラの目は、袖口へ行った。
右の袖口の裏に、茶色い染みがある。洗って、薄くなって、まだ落ちていない色だ。
その上から、当て布が縫いつけてあった。縫い目と縫い目のあいだが、どこも同じだった。
「ゼルマです」
女は、腰から深く体を折った。両手を胸の前で重ね、頭を下げきってから、もう一拍、止まる。
「札は《運針》。修道院では、繕いの当番でした」
礼が、長い。
長い礼には、長い返礼をするものだ。
右足が引き、膝が沈み、指が外套の裾をつまんで――
「ようこそ、おいでくださいました」
(……い、いま、私、裾を……!)
つまんでいた。外套の裾を、指の先で、きれいに。
鍋の脇で、ヨストが匙を持ったまま言った。
「伍長。いまの、お屋敷の奥さまみたいな」
「この人ね、お嬢って呼ばれてるんですよ」
ケーテが、帳簿をめくりながら言った。「理由は、いま見たとおり」
ゼルマは頭を下げた形のまま、目だけを、ノラの指に置いていた。それから、ゆっくり体を起こした。
「寝床は、そこだ。腰掛けの横」
ノラは、梁から吊った袋を下ろした。中隊が置いていった白パンの、十のうちの一つを出す。
「歩いてきた分だ」
ゼルマは、両手で受け取った。白いパンを、しばらく見ていた。
「白いパンを、兵隊さんが」
「峠の分だ。中隊が、そう言った」
「この人、峠は越えてませんけどね」とケーテ。
「歩いてきた」
「はいはい」
ゼルマは、パンを抱えたまま、小さな声で言った。
「伝令の方が、こちらの伍長さんは、鉄だと」
「鉄? あれが?」とケーテが笑った。
大男が、鍋の柄から手を離した。振り向いて、ゼルマを見下ろした。
「峠は、あの人の言うとおりに越えた」
それだけ言って、また鍋に向き直った。
少年の匙が、椀のふちで止まっていた。
(え。いま、ベルントが。……え?)
耳だけが、熱かった。
*
「さっそくですけど、針の人」
ケーテが、靴下を一つ、指でつまんで差し出した。かかとが、丸ごとない。
「片っぽ、かかとがないから、帳簿じゃ半で数えてるんです。これのせいで、ずーっと二十三足半。気持ち悪くて気持ち悪くて」
ゼルマは靴下を受け取り、穴に指を通した。帯に吊った細い革の筒から、針を一本抜く。糸は、自分の外套の裾の内側から、一本ほどいて取った。
火鉢のそばで、ゼルマは縫い始めた。
ノラは、銃の手入れをするふりをして、見ていた。
針が布に入る。入る角度が、毎回同じだ。深さも同じ。糸の張りも同じ。
縫い目のあいだは、どこも麦一粒ぶん。
十目。二十目。かかとの縁を一周して、針が最初の目に戻る。ゼルマは、手元を見直していない。
(速いのに、ずれないのね)
横に糸を渡し、縦に編んでいく。かかとの穴に、糸の格子ができた。
四半刻で、穴はふさがった。
「はい」
「はやっ」
ケーテが受け取って、裏返して、表に返して、もう一度裏返した。
「……二十四足。やった、半がなくなった」
帳簿の数字に線を引いて、書き直す音がした。
ノラは、銃を置いた。
「針で、ほかに何を縫った」
ゼルマの手が、止まった。
針を筒に戻す手が、そのまま右の袖口へ行った。当て布の上を、指が押さえた。
「繕い物だけです、伍長さん」
(嘘だわ)
(でも、私も、きのう一つついたもの)
ノラは、それ以上は聞かなかった。
*
黒パンは、脇の下で温めてから削ぐ。分隊の全員が、もうそうしていた。ゼルマも、ケーテに教わってそうした。
ヘルガは、削いだ一枚目を、食べる前に額へ当てた。目を閉じて、唇が動く。
寒村の祈りだ。毎晩のことで、分隊の誰も、もう見ていない。
ゼルマが、自分の一枚を、同じように額へ当てた。
ヘルガの目が開いた。
パンを額に当てたまま、二人の目が合った。
ヘルガの口の端が、笑いかけた。
「で」
ケーテが、パンを噛みながら言った。軽い声だった。
「修道院の人が、なんでまた、こんな吹き溜まりに? 追い出されたって、伝令が言ってましたけど」
帳簿の上の鉛筆は、動いていなかった。
(ケーテ……! いま、それを聞くの?)
ゼルマは、パンを額から下ろした。
「院長さまに、不浄だと言われました」
「何を、したの」
ヘルガが言った。
ゼルマの指が、袖口を押さえた。
「……人を、縫いました」
ヘルガの口の端が、元に戻った。
「うちの村じゃ、針で縫うのは、死んだ人だけ」
火鉢の炭が、崩れた。
ヘルガは、パンを膝に置いた。立って、自分の毛布をつかんだ。
八つ目の寝床の隣から、毛布を引きずって、納屋のいちばん奥、エミールの向こうまで運んだ。敷き直して、座って、パンの続きを食べた。
祈りは、もうしなかった。
(人を縫う……? 繕い物だけ、と言ったわ)
*
「峠の紙、あとは鐘のとこだけです。明日の朝、出せます」
「見せろ」
「やですよ。出す前に見せたら、お嬢、ぜーんぶ直すでしょ」
ケーテは帳簿を抱えこんだ。ノラは手帳を開いた。
「夜番を読む」
番は六つ。半刻ずつ、尾根側と道側に二人ずつ。
ヘルガと組んだ者は、手をつないで立つ。峠から戻って、それが分隊の決まりになっていた。寒さに慣れていない者ほど、ヘルガと組ませる。
「尾根側、初番。グスタフとヨスト」
読み上げていく。三番。四番。
「道側、四番。ヘルガと、ゼルマ」
「つながない」
毛布の中から、ヘルガが言った。
「その人とは、つながない」
(命じれば、手はつながる。……つながる、だけだわ)
ノラは、手帳の六番の行で、自分の名を消した。四番に書き直した。
「四番を替える。道側、四番。私とゼルマ。ヘルガは私のいた六番へ。エミールと組め」
エミールが、毛布から顔を出した。奥の背中を見て、毛布をかぶり直した。
ケーテが、帳簿の夜番の欄を書き直した。
書き終えると、外套の懐を探って、毛糸の手袋を一組、ノラの膝へ放った。
「替えの。返してくださいよ」
*
道側は、風が正面から来る。
ノラは銃を抱えて立ち、ゼルマはその隣に立った。手は、つないでいない。
四半刻で、足の指がわからなくなった。
「どうして」
ゼルマが、道を見たまま言った。
「伍長さんが、四番に」
「空いていた」
「空いていませんでした」
「空けた」
(言い方! もう少し、何か、あるでしょう、私……!)
ゼルマの口から、白い息が一つ出て、消えた。
ノラは手袋の指先を外して、火皿の蓋を確かめた。凍った鉄に、指の節が貼りついた。
剥がすと、あかぎれの節が裂けた。
赤い玉が、一つ、ふくらんだ。
ゼルマの顔が、横を向いた。
頬から、色が引いた。唇が白くなる。
右手が、帯の革の筒へ行っていた。指が、筒の紐をほどきかけていた。
(顔は逃げて、手は向かってくる。……どちらが、この人なの?)
ノラは、指の節を雪に押し当てた。赤は、雪に吸われて消えた。
ゼルマの指が、紐の上で止まった。
「……すみません」
「何が」
「見られないんです。血を」
「見なくていい。道を見ろ」
ゼルマは、道を見た。右手は、筒を握ったままだった。
(ケーテの手袋を汚さなくて、よかったわ)
*
「伍長」
戸口に、老兵が立っていた。夜明けの光が、まだ灰色だった。
老兵は、目を細めていた。近くを見るときの目だ。
「納屋の裏。足跡が、三つ」
ノラは外へ出た。
納屋の裏の、吹き溜まりの縁。靴の跡が三つ、尾根のほうから来て、尾根のほうへ戻っていた。
靴底の釘の並びが、分隊の靴とちがう。
跡の縁が、崩れていない。雪が、角を立てている。
「いつのだ」
「夜明け前。五番か、六番の時分だ」
老兵は、納屋の角を顎で指した。
「裏は、道からも尾根からも、壁の陰になる。立っとった者には、見えん」
納屋の場所は、敵に知れたものとする。
あの夜、自分でそう書いた。書いて、寝床を一つも動かさなかった。
背中の汗が、冷えた。
三つの跡は、納屋の壁の節穴の前で、しばらく止まっていた。
足を踏みかえた跡が、雪に重なっている。
中を、数えていったのだ。
「……何人と、数えたかの」
老兵が言った。
きのうまで、この納屋は七人だった。
ゆうべから、八人だ。




