第十一話 四つ目の足跡
「裏にも、一人立てる」
ノラは、手帳の夜番の欄に、三つ目の列を引いた。
「道側に二人、尾根側に二人、裏に一人。番ごとに五人」
「銃を持つのは七人で、六番で、五人ずつ」
ケーテが帳簿の端で数えた。
「一人、一晩に四回と、ちょっと。……ちょっとって何ですか、ちょっとって」
「ちょっとは、私が立つ」
「そういう数え方、帳簿にないんですけど」
節穴は、藁を詰めて布でふさいだ。壁ぎわの寝床は、二つとも火鉢の側へ寄せた。
ケーテは峠の紙の最後に、一行足した。
今朝、夜明け前、納屋の裏に敵の足跡三。尾根より来て尾根へ戻る。
「ヨスト。これ、中隊まで」
「はい」
ヨストは紙を外套の内側に入れて、雪の道を下りていった。
(三つ。三人)
*
空の銃で、教練をやった。
ケーテが数え、六人が込める。十一で、撃鉄の音が重なる。五つ。少年の一つだけが、遅れて鳴る。
「エミール。目を閉じるな」
「閉じてない」
「閉じている。十一で」
少年は唇を噛んで、もう一度、銃を下ろした。
ゼルマは銃を持っていない。補充は人だけで来た。
火鉢の脇で、ゼルマは針の筒を膝に置いて、教練を見ていた。
「ゼルマ。何かあったら、おまえは火のそばにいろ。外へ出るな」
「はい」
答えてから、ゼルマは筒の紐を、ほどいて、また結んだ。
日が落ちる前に、ヨストが戻った。
「中隊長どのは、紙を読んで、こう言いました」
ヨストは、中隊長の声をまねずに、そのまま言った。
「『納屋のほかに、屋根はない。春までは、そこで寝ろ。裏に立てろ』」
「立てている」
「それも言いました。そしたら、『なら、いい』って」
*
裏の戸が鳴った。五番の終わりだった。
老兵が、半身だけ入れていた。背に、細い銃を負っている。夜番に出るときは、いつもそうしている。
「尾根。下りてくる。三つ……いや」
「いや?」
「三つしか見えん。岩の陰が、気に入らん」
老兵は、尾根のほうへ顎をしゃくった。
「火を持っとる。壺だ。煙が一筋」
(尾根。火。納屋)
納屋の中にいるのは、三人だけだった。ノラと、ケーテと、ゼルマ。
「外の四人を薪の山へ。声を出すな」
ケーテが戸の隙間から手を振った。ノラは自分の銃に紙包みを噛み切って込めた。込める音は、一つ。
「ゼルマ、火のそば。ケーテ、数えるだけだ。撃つな」
「了解」
納屋の横手、薪の山の陰に、六人とケーテが膝をついた。
ヘルガ、エミール、大男、ヨスト。道側と尾根側に立っていた四人の銃は、とうに込めてある。老兵は、分隊の銃を持っていた。
「グスタフ。撃ったら、岩を見ていろ」
「おう」
尾根からの斜面。雪明かり。
影が、下りてくる。三つ。並んで、間を空けずに。
先頭の手元に、布をかぶせた壺。布の縁から、赤がのぞく。
壺を下げた右腕だけが、体から離れている。足は、三歩ごとに止まる。止まるたびに、首が納屋の屋根へ向く。
狙いは、屋根だ。
距離、百歩。八十。
(まだ。引きつける)
六十。
五十。
「十一」
ケーテの声は、低かった。
撃鉄を起こす音が、一つに重なった。六つで、一つ。
斜面の三つの影が、止まった。
「撃て」
六挺が、一つの音で鳴った。
白い煙が、薪の山の前を埋めた。
煙の向こうで、壺が雪に落ちる音。誰かが叫ぶ。影が二つ、斜面を戻っていく。一つが、膝をついた。這う。立つ。
込め終えた銃は、まだ一つもない。
「込めろ。追うな」
銃が一挺、薪の山に立てかけてある。大男は、煙の中にいた。
「ベルント、追うな!」
這っていた影に、大男が上からかぶさった。腕をつかむ。雪に押しつける。力で。
岩陰から、四つ目の影が立った。
(岩。四人目)
四つ目は、銃剣の先を低く構えていた。大男は、背中を向けていた。
「左!」
遅かった。
銃剣が、大男の右の腿に入った。
薪の山の端で、老兵が背の銃を肩に回していた。
乾いた音が、一つ。
四つ目の影が、銃剣を残して、雪に倒れた。
大男の下から、這っていた男が抜けた。斜面を、逃げていく。
*
ヨストが、大男を薪の山の陰まで引きずってきた。
大男は、雪に座りこんだ。腿から、赤が噴く。止まる。また噴く。拍に合わせて。
ノラはケーテの手袋を、雪に捨てた。両手で、傷を押さえた。指のあいだから、温かいものが押し返してくる。
(止まらない。拍。強い。……間に合わない)
「ゼルマ!」
薪の山の端に、ゼルマがいた。火のそばにいろ、と言われた人が、もう外にいた。
顔が、真っ白だった。目が、横へ逃げる。
右手は、針の筒を握っていた。
「来い。血は見るな」
ゼルマが、膝をついた。顔は、まだ横を向いている。
「ケーテ、火。ゼルマ、私の指を見ろ」
ケーテが、火鉢の炭を鍋の蓋に移して持ってきた。赤い光が、手元に落ちた。
ノラは、片手を傷から浮かせた。
赤がいちばん先に湧く場所。傷の、上の端。拍のたびに、そこから。
人差し指の先を、そこに置いた。
「ここ」
ゼルマの目が、ノラの指へ来た。指だけを見ている。
針が、指の脇に入った。思ったより、深く。
抜く。締める。麦一粒ぶん、下。
「次。ここ」
指を動かす。針が、指を追う。
ヘルガが、雪を踏んで来た。誰も呼んでいない。
大男の手を、両手で握った。
白くなりかけていた大男の指に、色が戻り始めた。
糸が締まるたびに、噴く拍が遠くなった。
六目。七目。
傷の縁が、糸に寄っていく。引いたより、少し多く。
十目で、噴くのが止まった。にじむだけになった。
「……終わりました」
ゼルマが、初めて、傷を見た。
手は、赤かった。その手で、糸の端を結んだ。
ノラは立とうとした。膝が、雪から離れなかった。
脇の下に、手が入った。ケーテの手だった。
「お嬢、膝」
「立てる」
「立ててません」
引き上げられて、立った。ケーテはすぐに手を離して、捨てられた手袋を拾いに行った。
*
四つ目の男は、岩陰の手前で、うつ伏せのまま動かなかった。
王軍の外套。記章は、歩兵の並のもの。懐に、黒パンと火打ち石。紙は持っていなかった。
靴底の釘の並びが、裏の足跡と同じだった。
ノラは、裏の足跡を、もう一度見に行った。
ゆうべの雪で、縁が丸くなっている。三つの跡。
あの朝の灰色の光では、どれも同じ深さに見えた。
そのうち一つだけが、ほかの二つより深く沈んでいた。かかとの跡が、二重になっている。
(同じ跡を、二人が踏んだのね。……あの朝から、四人だったのよ)
三つと数えたのは、自分だった。
「中隊へ。紙はあとでいい、口で言え」
ノラは、ヨストに言った。
「夜明け前、敵四、放火の壺一。敵の死一、逃げた三。味方、負傷一、腿。軍医を一人」
「はい」
ヨストが、雪の道を駆け下りていった。
「動かしてはいけません」
ゼルマが、大男の腿の布を見たまま言った。「糸が、まだ馴染んでいません。熱が出るのは、今夜からです」
ケーテが、帳簿を開いた。
「紙六、撃つ。それと、爺さんの細い銃の一発。……これ、どう書きます?」
「書かんでいい」
老兵が、銃を拭きながら言った。「わしの弾だ」
ケーテは、六とだけ書いた。
少年が、銃の火皿を拭きながら言った。
「閉じなかった。十一で」
「聞こえた。六つで、一つだった」
少年の、火皿を拭く手が速くなった。
大男が、薄く目を開けた。
「……追うなって、言ってたな」
「言った」
「聞こえてた。押さえりゃ、済むと思った」
大男は、毛布から出た手を、握って、開いた。
ゼルマが、その横で、針を一本ずつ湯で洗っていた。
ノラは、その手元を見た。
「お見事でございました」
針を洗う手が、止まった。
ゼルマは、湯の中を見たまま、口の端だけで笑った。
「伍長さんの指が、よく見えましたので」
(……お針子をねぎらう奥さまの口よ。上から言ってどうするのよ、私)
ケーテは帳簿をつけていた。書く音が、一つ途切れた。
昼前、ヘルガが毛布を引きずって戻ってきた。
納屋のいちばん奥から、八つ目の寝床の隣へ。敷き直して、座った。
ゼルマのほうは見ずに、言った。
「生きてる人を、縫った」
ゼルマが、うなずいた。
昼の黒パンを、ヘルガは額に当てた。ゼルマも当てた。
今度は、ヘルガの口の端が、笑いきった。
*
蹄の音が、谷の道から上がってきた。
一騎。ヨストの呼んだ軍医ではない。早すぎる。
納屋の前で手綱を引いたのは、若い将校だった。毛皮の襟、騎兵の外套。息を白くして、馬の上から、薪の山の煙の跡と、斜面の踏み荒らしを見た。
「谷で、銃声を聞いた。一つに揃った銃声だった」
将校は、馬を下りた。
「この納屋の頭は、誰だ」
ノラは戸口に出た。
将校が、手綱を鞍に掛けて、手袋を外した。
革の手袋の、指の股の縫い目。目が細かくて、糸の色を革に合わせてある。
(……王都の、仕立てだわ)
外套の内側で、蝋が、胸に当たった。
(この人。夜会で、見たことのある顔かしら)




