第十二話 揃った音
「自分です。ハルト伍長であります」
ノラが言うと、将校は手袋を外した手を、胸に当てた。
「騎兵中隊、中尉、ジュスタン・ド・モンフェール」
黒い髪を、うなじで短く束ねている。目の色が薄い。雪の照り返しで、灰色にも青にも見えた。
ノラの耳が、名乗りの「ド」で止まった。
(モンフェール。……辺境伯家の)
王都の夜会で、見たことがある。壁ぎわで、誰とも踊らずに、懐中時計を見ていた若い人。
(顔、覚えられていないわよね。一年、たったもの)
背中で、ケーテが小さく言った。
「辺境伯さまの、坊ちゃん」
ヘルガが、パンを持ったまま背筋を伸ばした。少年は、銃を拭く手を止めた。
ケーテだけが、いつもの笑顔で前に出た。
「吹き溜まり分隊へ、ようこそ。帳簿のケーテです。何もないとこですけど、火だけはあります」
笑いながら、ケーテの目は、将校の拍車から襟の毛皮までを、なぞっていった。
*
「谷の口に、私の中隊が来ている。従卒は、そこに置いてきた」
ジュスタンは、戸口から納屋の中を見た。火鉢、毛布、火鉢の脇に寝かされた大男。
「揃った音のあとに、細いのが一つ聞こえた。上がってくるのに、昼までかかった」
「敵が四。放火の壺を持っておりました」
ジュスタンは、斜面のほうを振り向いた。岩陰の手前に、外套をかけた形が一つ、雪の上にある。
「あれは」
「四人目です。王軍の歩兵。紙は、持っていませんでした」
「名がわからないなら、こちらの帳簿に、日付と場所だけ書いておけ。向こうの帳簿には、行方不明と書かれる」
「書いてありまーす」とケーテが言った。
ジュスタンは、雪の上の踏み荒らしを、目で下から上へたどった。
壺は、雪の中に転がったままだ。
「拾いに戻っていないな。三人とも、後ろを見ずに逃げている」
ジュスタンは、ノラに向き直った。
「私の中隊では、あの音は出せない。馬の上では、誰も数を聞かない。どうやった」
「込める手順を、十二に割りました。数える者が一人」
「誰が数える」
「あたしでーす」
ケーテが、帳簿を持った手を上げた。
ジュスタンの目が、ケーテからノラへ移った。
「数えるだけで、撃たない兵を、一人置いたのか」
「撃つ兵より、数える兵のほうが、足りませんでしたので」
ジュスタンは、しばらく黙った。
「教本の、終わりのほうの章だ。中隊を預かる者が読むところだな」
(……ど、どうして、そこまで)
「拾った本で、読みました」
薪の山の端で、老兵が、咳をした。
「……覚えておく。見せてもらえるか」
空の銃を持てるのは、四人だった。ヨストは中隊へ下りていて、大男は毛布の中にいる。
ヘルガ、エミール、老兵、ノラ。戸口の前に、四人で並んだ。
「一から」
ケーテが数え始めた。帳簿を読む速さで。
噛む。開ける。盛る。
ジュスタンは、腕を組んで、四人の手元ではなく、ケーテの口元を見ていた。
「十一」
撃鉄の音が、四つで、一つになった。
少年の音も、遅れなかった。少年は、鳴ったあとで、自分の銃を見下ろした。
ヘルガは、銃を下ろして、まっすぐ前を見ていた。
「四人でも、一つか」
ジュスタンが、低く言った。
毛布の中で、大男が、熱のある目を薄く開けた。
「……おれのも、入ってりゃ、五つだ」
(辺境伯家の人が。下札の分隊の、数え方を)
耳が熱くなる前に、ノラは大男のほうへ行った。
ジュスタンの目が、薪の山の端で止まった。
老兵が、背の細い銃を、膝に下ろして拭いていた。
「細い銃だな」
「拾いもんでさ」
老兵は、拭く手を止めなかった。
「猟兵の銃だ。銃床の――」
「拾いもんでさ、若様」
老兵が、布を銃床にかけた。
ジュスタンは、手袋をはめ直した。指の股まで、きっちりと。
*
「負傷は」
「一名。腿を、銃剣で。縫ってあります。熱は、もう出ています」
「軍医は」
「呼びに出しました。徒歩で」
「なら遅い」
ジュスタンは、すぐに言った。
「谷の口の中隊に、軍医が一人いる。私が戻ったら、馬で寄越す。日が傾く前には着く」
「中隊を通さずに、よろしいのですか」
「中隊長どのには、私から書く」
大男は、毛布の中で浅く息をしていた。額に、汗が玉になっている。
ゼルマが、その額に、雪で冷やした布を当てていた。
「思ったより、早く出てきました」
「軍医が来る。日が傾く前に」
「はい」
ゼルマは、布を裏返した。ヘルガが、黙って新しい雪を桶に足した。
ジュスタンは、火鉢のそばのケーテに目を移した。帳簿の数字を、上から見た。
「よく書いてある。平民の娘にしては、字が揃っている」
「どうも」
ケーテは笑った顔のまま、火箸で炭を一つ、返した。いつもより、ゆっくり返した。
ジュスタンの目は、帳簿の数字に残っていた。
*
ノラの手は、まだ血で茶色かった。
夜明けから、湯にも雪にも、まともに浸していない。指の節のあかぎれが、また開いていた。
ジュスタンが、それを見た。腰の革の水筒を外して、栓を抜いた。
「強い酒だ。手にかけろ。残りは、飲んでいい」
差し出された水筒は、口金が銀だった。
指が、勝手に動いた。左の手のひらで、底を受けた。
「痛み入りますわ」
「出た」とヘルガが言った。
薪の山のほうで、笑い声が上がった。
(……し、しまっ……!)
(辺境伯家の人の前で。銀の口金の前で。よりによって、「痛み入りますわ」なんて)
(手。手まで、底を受けてしまったわ。夜会で、杯を受けるときの手で)
ジュスタンだけが、笑っていなかった。
水筒を渡した手が、宙で、一拍止まっていた。
その目が、底を受けたノラの左手にあった。
「この人、寒いと、ときどき育ちがよくなるんです」
ケーテが、帳簿を抱えたまま言った。
ジュスタンは、目を、ノラの手から外した。
「なら、早く暖まることだ」
ノラは、酒を手にかけた。あかぎれに、酒が沁みた。
声は、出さなかった。
*
ジュスタンが馬の支度に出ると、ケーテが、ノラの横に来た。
帳簿を胸に抱えて、戸口の外を見たまま、小声で言った。
「お嬢。あの人と、どっかで会いました?」
「ない」
「ふーん」
ケーテは、帳簿を開いた。何か一行、書いた。
「……何を書いた」
「靴下の数です」
靴下は、今朝、数えていない。
ジュスタンは、馬の腹帯を締め直しながら言った。
「川が凍りきったら、谷の向こうへ渡る話がある。騎兵だけでは、運べないものがある」
「何をです」
「大砲だ」
腹帯の留め金が、鳴った。
(大砲。凍った川を。……あの大きな車輪を、人の手で)
ノラの目が、毛布の中の大男へ行った。
「下札の分隊に頼む話ではない。だが、この分隊なら、頼むかもしれない」
ジュスタンは、鐙に足をかけて、止まった。
「ハルト伍長。名は」
「ノラです」
「……ノラ」
ジュスタンの唇が、二度、動いた。
「短い名だ。呼びやすい」
(短いのよ。……長いほうから、切ったのだもの)
「伍長」
鞍に上がりかけて、振り向いた。
「前に、どこかで――」
ノラの背中が、固くなった。
ジュスタンは、自分で首を振った。
「いや。……人違いだ」
馬の腹を、軽く蹴った。
蹄の音が、谷の道を下りていった。
ノラは、戸口に立ったまま、それを聞いていた。
(違わないのよ)
(いたの。王都の、あの夜会に。……あなたが時計を見ていた、あの壁の、反対側に)




