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第十三話 てこ

軍医は、日が傾く前に、馬で上がってきた。

白い髭の、酒のにおいのする男だった。納屋に入るなり、火鉢に手をかざし、それから大男の毛布をめくった。

腿の布の端を、指で持ち上げた。糸の目を見て、戻した。

「これは、ほどかない。ほどけば、私のほうが下手だ」

火鉢の脇で、ゼルマが針の筒を握り直した。

「二十日。その脚に、体重をかけるな」

「長え」

大男が、毛布に向かって言った。


軍医は、ノラに酒の小瓶を一つ押しつけて、谷へ下りていった。

「熱が出たら、それで拭け。飲むなよ」

熱は、三日目に引いた。小瓶は、半分になった。拭いた分と、拭かなかった分がある。


         *


匙が、折れた。

寝床に縛られて、十日目だった。

大男は、寝たまま鍋に手を伸ばして、木の匙で粥をかき回そうとした。かき回す前に、柄が手の中で二つになった。

「三本目」

ケーテが、帳簿も開かずに言った。

「替えの椀は、残り六。割ったら、ベルントは手で飲んでくださいね」

「割らねえ」

言った手が、椀を取った。椀の縁に、細いひびが一本、走った。


ヨストが中隊で頼んだ軍医は、谷の下の別の分隊に出ていて、戻ったのは次の日だった。

中隊長の返事は、一行。来た軍医は、あの騎兵の中尉が寄越したそうだな。損はない。


ノラは、大男の手を見ていた。

椀を取る前に、肩が固まる。肘が固まる。動くのは、手首から先だけ。

椀を置いたあと、指が細かく震えている。肩が、一度に落ちる。

(峠でも。荷の縄が、肩に食いこんでいたわ)

(礼法の先生なら、扇で一つ肩を叩いて、それで終わりよ。……この肩を、扇で?)

見えている。言い方が、わからない。


ゼルマが、毎朝、大男の腿の布を替えていた。

布をほどくとき、ゼルマは、まだ傷を見ない。見るのは、ほどき終えて、血が出ていないと指で確かめてからだ。

「痛みますか」

「痛え」

「よかった」

「よかねえだろ」

「痛まない脚は、腐っている脚です」

大男は、黙った。それから、天井を見たまま言った。

「……痛え、って言ったら、もう少し、ゆっくり巻いてくれ」

巻く手が、半分の速さになった。


         *


薪の山のいちばん下の丸太が、凍りついて動かなかった。

ヘルガとヨストが、両手で押した。肩で押した。丸太は、雪の中で、指一本ぶんも動かない。

「割るしかないですよ、これ」

ヨストが、斧を取りに行こうとした。

「待て」

ノラは、梁から落ちていた太い棒を二本拾った。それから、手ごろな石を一つ、丸太の脇に置いた。

(お父さまの書斎の本に、絵があったわ。棒と、石と、重い樽の)

一本の棒の先を丸太の下に差しこみ、石にかけた。


「石のほうに、近いと」

少年が、しゃがんで、棒と石を見た。

「長いほうの端を押せば、軽いんだ。鍛冶場で、金床を動かすときと同じだ」

「そうだ」

「なんで知ってんだよ、伍長」

「本で」

ケーテは、何も言わなかった。帳簿も、開かなかった。


「ヨスト。押してみろ」

ヨストが、棒の端に体重をかけた。

丸太が、指二本ぶん、浮いた。浮いて、そこで止まった。ヨストの腕が震えて、棒が下がった。

「……重い。さっきより、ましだけど」


「そんなもんで、動くか」

戸口に、大男が立っていた。松葉杖の代わりの枝に、脇をかけている。

「寝ていろと言われたはずだ」

「片足は、寝てる」

「なら、やってみろ」

大男は、枝にもたれたまま、片手で棒の端をつかんだ。

肩が、固まった。肘が、固まった。

ぐい、と押した。

棒が、石の上で、真ん中から折れた。


「細えんだよ、棒が」

大男の顔が、赤くなった。

ノラは、二本目の棒を拾った。一本目と、同じ太さの棒だった。

石にかけた。端を、大男のほうへ向けた。

「端を。ゆっくり。最後まで」


大男は、ノラを見下ろした。

それから、棒の端に、手のひらを置いた。つかまずに、置いた。

肩が、固まらなかった。

押す。ゆっくり。腕が伸びきるまで。

凍った雪が、丸太の下で、みしりと鳴った。

丸太が、転がった。

(転がったわ……! 見た? 見たわよね、いまの! ベルントの肩、固まらなかったの……! 顔、だめ、顔は動かさないの!)


「力、残ってる」

大男が言った。押し終えた手を、もう一度、棒の端に置いた。

「押したあとに、まだ、ある」

ヨストが、斧を持ったまま、口を開けていた。

ヘルガが、転がった丸太を、薪の山の上へ運んだ。


昼の粥は、大男が寝床からかき回した。

匙は、鍋の底まで行って、戻ってきた。

「……四本目」

ケーテが言った。椀の縁のひびは、一本のままだった。


         *


谷の道に、馬が二騎、見えた。

クラウゼ中隊長と、ジュスタンだった。

中隊長は、馬を下りもせずに、懐中時計を出した。

「凍った川で、大砲を二門、向こう岸へ渡す。荷は、おまえの分隊も持て」

「いつですか」

「氷しだいだ。十日か、それより先か」


ジュスタンが、馬の上から言った。

「一門で、牛二頭ぶんの目方がある。車輪を外して、橇に載せる。橇と縄は、こちらで用意する」

「馬では、引けないのですか」

「蹄は、一点に重さをかける。氷を割る。人の足のほうが、重さが散る」

「一門に、何人」

「二十人。砲兵が八人つく。私の中隊は、半分が馬を下りて縄を引き、半分は馬の上で岸を見張る」

「それでも足りない分が、この分隊ですか」

「足りないのは、数ではない」

ジュスタンは、ノラを見た。

「二十人が、同じ拍で引けない。拍がずれると、橇は氷の上で横を向く。太鼓を打てば、谷の向こうの敵にも聞こえる。……一つに揃った音を出す分隊が、要る」


「それと」

中隊長は、時計の蓋を指で叩いた。

「ベルントは、置いていけ。脚の悪い荷運びは、荷だ」

「連れていきます」

「大砲一門は、分隊十個より高い。氷の上で落としたら、上に書かれるのは俺の名だ」

「橇の滑り木は、氷に凍りつきます。止まるたびに、です。手だけで、それを外せる者が要ります」

中隊長の目が、薪の山の脇へ行った。

石の上で折れた棒と、雪の上の丸太の跡。


「あの丸太は、誰が出した」

「ベルントが」

少年が言った。「片手で。棒で」

「ヨストは、浮かせただけだった」とヘルガが言った。

中隊長は、しばらく、折れた棒を見ていた。

「……片手で、丸太が出るなら」

時計の蓋が、閉じた。

「両手で、何が出るか。それは、上に書いてもいい話だ」

中隊長は、ノラを見下ろした。

「氷の上では、そいつの脚を使わせるな。手だけだ」

「はい」


ケーテが、指を折った。

「なら、八人。縄は、四人と四人ですね」

「ケーテは数えろ。縄は持つな」

「えー。じゃあ、七人。四人と三人」

ゼルマが、針の筒を帯の後ろへ回して、うなずいた。


中隊長は、そのまま谷へ馬を返した。ジュスタンだけが、残った。


         *


ジュスタンが、川の渡しを見せると言った。

谷を下りきったところで、川は、雪をかぶった白い道になっていた。向こう岸まで、百歩と少し。

「ここが、いちばん浅い。夏なら、馬で渡れる」

「氷は、もう人を乗せるのですか」

「人と馬なら。大砲は、まだわからない」


谷の下で待っていた従卒が、斧で氷に小さな穴を開けた。

穴の縁に、ジュスタンが指を当てた。

「指三本ぶん。大砲を乗せるなら、手のひら一つぶんは要る」

それから、剣の柄頭で、足もとの氷を叩いた。

高く鳴った。叩いた跡に、細い線が三本、まっすぐ走って止まった。

一歩横へ寄って、もう一度叩いた。

鈍い音がした。線は走らず、叩いた跡が白く崩れた。

「……音が、ちがうな」

ジュスタンは、柄頭を見下ろした。


ノラは、川を見た。

雪は、薄い。風に掃かれて、ところどころ、まだらに剥げている。

剥げたところの氷が、二色だった。

黒く澄んで、下に川底の石が透けている氷。

白く濁って、細かい泡が詰まっている氷。

剥げたところを、目で一つずつつないでいく。

白は、ばらばらではなかった。

一本の帯になって、こちら岸から向こう岸へ、渡る線を斜めに横切っていた。


「伍長。何を見ている」

「氷の、色を」

ジュスタンが、ノラの目の先を追った。雪のまだらの上を、目が行って、戻った。

「私には、雪しか見えないが」


「手は、治ったか」

ジュスタンが、川を見たまま言った。

「あの酒で」

「はい。おかげさまで」

「それは、よかった」

(お、覚えて……いらしたの? あかぎれの、ことまで?)

(違うわ。将校が、兵の手を気にするのは、当たり前のことよ。……当たり前の、ことよ)

ノラは、外套の中で、治りかけた指を握った。


この浅瀬のどこから入っても、大砲は、あの白い帯を一度は越えなければ、向こう岸へ着かない。

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