第十四話 白い帯
斧が、氷を四度打った。
穴の縁に、ジュスタンが指を当てた。それから、手のひらを縦にして当て直した。
「手のひら一つぶん。……と、少し」
従卒が、川の真ん中のほうへ歩いて、もう一度斧を打った。白い帯の上だった。
ジュスタンは、そこにも指を当てた。
「こちらは、その半分」
川を見た日から、十日。夜明けの前だった。氷の上だけが、雪の照り返しで、うっすら明るい。
氷の縁に、大砲が二門、並んでいた。車輪を外して、橇に縄で縛りつけてある。ゆうべのうちに、ここまで下ろしてあった。砲身に、霜がついていた。
縄の端を持って、二十人が並んでいる。馬を下りた騎兵と、吹き溜まり分隊。砲兵は、橇の両脇についた。
ベルントが、枝を雪に突き立てて、縄のほうへ歩きだした。右の脚に、体重をかけて。
「お待ちなさい!」
岸の全員が、こちらを向いた。
砲兵の列で、誰かが鼻から息を漏らした。それが、二つ、三つと続いた。
(家庭教師よ。いまの、私の家庭教師の声よ)
ジュスタンは、川のほうを向いたまま、咳をした。
ケーテは帳簿を抱えて、息を漏らした砲兵の顔を、端から順に目で数えていた。
「ベルント。脚は、使うな」
「わかってる」
「わかっているなら、枝を持て」
ベルントは、雪から右足を上げた。枝を、もう一度脇にかけた。
*
岸の雪の上に、丸太が十四本、寝かせてあった。
きのうのうちに、分隊が薪の山から谷へ下ろしたものだ。板は十二枚。ジュスタンの中隊が、橇の替えに持ってきた分だ。
砲兵の少尉が、丸太を靴の先で蹴った。
「これは、何だ」
「白い帯の上に、横に並べます。板を、その上に」
「何の帯だ」
「氷の色が、ちがうところがあります。渡る線を、斜めに横切っています。幅は、十歩」
少尉は、ひさしに手をかざして、川を見た。
「中尉。伍長の目で、朝を使うのか。日が尾根を越えれば、氷はゆるむ」
「四半刻で、敷きます」
ノラが言った。少尉の目は、ジュスタンにあった。
ジュスタンは、剣の柄頭に手を置いた。
「柄頭の音は、私も聞いた。高く鳴る氷と、崩れる氷があった」
「音で、大砲を渡すのですか」
「沈んだ大砲は、春まで上がらない。四半刻は、待つ」
分隊が、丸太を担いで氷に下りた。
ノラは、雪の剥げたところを一つずつ踏んで、帯の両の縁に、つま先で印をつけた。
帯は、こちら岸から六十歩のところで渡る線にかかり、十歩で抜ける。
抜けたすぐ先に、雪だまりが一つあった。向こう岸から張り出していて、帯の縁は、その雪の下へもぐっていた。
雪だまりは、腰まであった。掘って斧を入れるには、四半刻では足りない。
(もぐる前の幅は、十歩。……雪の下は、見えないわ)
丸太を十二本、帯に横に並べた。その上に、板を八枚。板の道は十二歩になった。帯の前と後ろに、一歩ずつ足してある。
「余りの板も、敷くか」
少尉が、雪だまりのほうへ顎をしゃくった。
「見えている帯は、十歩です。余りの四枚と丸太二本は、橇の脇に積みます。見えないところで割れたときの、替えに」
「……伍長が、そう言うなら」
縄は、四人と三人のはずだった。
ジュスタンが、ノラを縄から外した。
「伍長は、前を見ろ。私は、縄の先頭にいる」
「はい」
ベルントは棒、老兵は岸。縄に残ったのは、ヘルガ、ヨスト、エミール、ゼルマの四人だった。板の道は一本しかない。大砲は一門ずつ渡り、同じ二十人が、氷の上を戻って二度引く。
ベルントは、橇の後ろについた。脇に枝、手に、丸太より細い棒を一本。
老兵は、岸に残った。見張りの騎兵と並んで、背の細い銃を膝に置いた。
*
「一」
ケーテが言った。二十人が、息を吸った。
「二」
縄が、鳴った。橇は、動かなかった。
滑り木が、夜のうちに、氷に凍りついていた。
「ベルント」
ベルントが、右の脚を伸ばしたまま、左の膝をついた。
棒の先を、滑り木の下へ差しこむ。棒を、橇の脇に積んだ丸太の端にかける。
手のひらを、棒の端に置いた。
押す。ゆっくり。
滑り木の下で、氷が鳴った。橇が、浮いた。
「二」
橇が、半歩、進んだ。
ケーテが数えるのは、拍。ノラが数えるのは、歩。
一拍で、半歩。
二十の足が、一つの音で氷を踏んだ。黒い氷の上を、橇が、まっすぐ滑る。
(二十。四十。五十)
板の端が、近づいた。
(六十。板)
橇の前が、板に乗った。板が、丸太の上で沈んだ。氷は、鳴らなかった。
(六十五。七十)
橇の前が、板の端を越えた。前の滑り木が、雪だまりを割った。
後ろの滑り木が、板を離れた。
氷が、鈍く鳴った。
橇の後ろが、沈んだ。拳一つぶん。
大砲の重さが、後ろへ寄った。前の縄が、跳ねた。
前の十人が、引いた。後ろの十人の足が、止まった。
拍が、割れた。
橇の頭が、右を向いた。
割れ目から、黒い水が、雪の上へにじんだ。
(帯。雪の下。広い)
(止めるな)
(止めろ)
「止まれ。縄は、張ったまま」
二十人が、止まった。
「ベルント。後ろの滑り木。手だけ」
ベルントは、もう膝をついていた。
棒の先を、沈んだ滑り木の下へ差しこむ。棒の真ん中を、最後の板の、下に丸太の通ったところにかける。
肩は、固まっていない。
押す。
滑り木が、水から上がった。拳一つぶん。割れた氷の縁より、高く。
ベルントの腕は、まだ伸びきっていない。
そこで、止めた。保った。
「替えの板。二枚。ケーテ、数えろ。二十」
ヨストとヘルガが、縄を離した。橇の脇から、板を一枚ずつ抱えた。
「一。二。三。四」
ヨストが、一枚目を、持ち上がった滑り木の下へ差しこむ。割れ目をまたがせる。
ベルントの首の筋が、浮いた。
「十一。十二」
ヘルガが、二枚目を、その先の雪の上へ押し出す。
尾根の上の空が、白くなり始めていた。
「十九。二十」
「下ろせ」
滑り木が、板に乗った。
ベルントの手が、棒の端から離れた。
指は、震えていなかった。
「前の十人、左へ一歩」
橇の頭が、戻った。
「一」
二十人が、息を吸った。
「二」
橇が、半歩、進んだ。
(八十。九十)
後ろの滑り木が、雪だまりを抜けた。
(百)
(百と、十一)
前の滑り木が、向こう岸の雪に乗り上げた。
*
岸から、老兵の声がした。
「伍長。割れ目が、上へ伸びとる。こっちからは、よう見える」
ノラは、振り返った。板の道の脇から、細い黒い線が、川上へ十歩ぶん、走っていた。
「二門目。替えの残り二枚と、丸太二本を、雪だまりの先へ。割れ目から、川下へ一歩ずらして」
二十人が、氷の上を戻った。ヘルガの手袋の指先が、凍って白かった。
ケーテが数えた。
二門目は、一度も止まらなかった。
橇が向こう岸に上がったとき、日が、尾根を越えた。
*
ノラは、割れ目を見に、板の道へ下りた。
板の端の氷が、水を吸って濡れていた。踏んだ足が、前へ抜けた。
板の上に、尻から落ちた。
(……っ、いた……!)
立とうとした。濡れた外套が、板に貼りついている。
影が差した。ベルントだった。枝に脇をかけたまま、空いた片手で、ノラの外套の襟をつかんだ。
「ゆっくり。最後まで」
引き上げる手は、本当に、ゆっくりだった。
(……沈むところだったのよ)
ノラは、立った。ベルントは、もう枝のほうを向いていた。
ケーテが、板の道の端まで来ていた。帳簿を、胸に抱えたままだった。
「なにやってんの、お嬢! 割れ目の上じゃん、そこ!」
言ってから、ケーテは帳簿を抱え直した。
「……ですよ」
砲兵の少尉が、ベルントの前で、足を止めた。
何か言いかけた。言わずに、帽子のつばに、指を一本かけた。
ベルントは、その指が何なのか、わからない顔で見ていた。
少尉は、それから、ノラのほうへ、顎を一つ引いた。
橇の縄を巻いている砲兵たちが、ベルントの手を見ていた。ケーテが数えた顔の、全部だった。
「帯は、広がっていたな」
ジュスタンが、ノラの横に来た。
「雪の下で、です」
「どこで測った」
「剥げたところで」
「雪の下は」
「見えません」
ジュスタンは、川を見た。黒い線の先で、日が、氷を照らしていた。
「見えないところで、止めた」
ジュスタンは、懐から手帳を出した。出す手が、早かった。
(……褒められたの? いま)
「中隊長には、私から書く。大隊にも」
「はい」
「《剛力》の使い方を、上が知っておくべきだ。分隊の名も、全員分」
鉛筆の先が、紙の上で止まった。
「ハルト伍長、吹き溜まり分隊。下札、八名」
ノラは、手帳の「八名」の字を見ていた。
横で、ケーテが、帳簿を胸に抱え直した。目は、ジュスタンの鉛筆の先にあった。
(大隊の名簿なんて、誰も読まないわ)
(……そうでしょう?)




