第十五話 合わない数
紙は、辺境の教区の封で閉じてあった。
蝋の縁に、乾いた泥がこびりついている。山から王都まで、雪の道を馬の鞍袋に入って下りてきた紙だった。
封を切ったのは記録係の老いた司祭で、聖女の机に広げ終えるまで中の字を一度も見ようとしなかった。
「聖女さまのお尋ねの分隊を、辺境の教区の司祭が写して送ってまいりました。大隊で読み上げられた名の中から、抜き出したそうで」
「雪の道を、遠くから。ありがとう存じます」
「私どもは、棚の帳と照らし合わせただけでございます。照らせなかった行も、ございますが」
「運んでくださる方がいなければ、紙はどこにも着きません」
聖女は司祭に椅子を勧め、自分の手で茶を注いだ。司祭は茶碗を両手で受けて、恐縮したまま座った。
写しの紙は一枚で、見出しの一行だけが太い字だった。
吹き溜まり分隊。下札、八名。
*
一行目に、分隊を率いる者の名があった。
ハルト、ノラ。伍長。《明眸》、下位。
断罪した公爵家の娘の札も、これだった。《明眸》は娘に多い札で、教区の帳をめくれば一冊に何人も出てくる。聖女の目は二行目へ移った。
《遠見》、下位。《耐寒》、下位。《灯火》、下位。《剛力》、下位。《運針》、下位。
どれも、儀の日に司祭が読み上げれば聞いた者が笑う類の札だった。
札の名の欄が空いた行が、二つあった。等級の欄には、ほかの行と同じ二字が書いてある。大隊で読み上げたとき、札の名が読まれなかったのだろう。
紙の下の端に、添え書きが一行あった。読み上げのあとに、騎兵の中尉の報せとして付け足されたものだという。
凍った川で大砲二門を渡す。滑り木を手で外したのは、《剛力》、下位。
峠のあとも、この分隊は止まっていない。
探していたのは、この八行のうちの一行だった。
捕虜を連れて冬の峠をもう一度越えさせた者がいる。その者の札は、どこかで等級の欄からはみ出しているはずだった。中位が一つ混じっているか、上位が下の札を名乗っているか。
はみ出している行は、なかった。
落ちた補給所の守備隊は十四名で、上位の札が混じっていた。それを夜のうちに、下位が八つで焼いて、将校を一人連れていった。
そういう数は、こちらの表のどこにもない。
聖女は見出しから読み直した。八つは八つのまま、等級の欄も同じ二字のままだった。
照合の欄に教会の印が押してあるのは五行で、三行が空いていた。山奥の教区には、帳の写しを王都へ上げたことのない所がある。
上位が下の札を名乗っているなら、その帳を引けばわかる。空いた三行のどれかが、そうなのかもしれない。
「聖女さま。お茶が、冷めます」
司祭が言った。聖女は微笑んで、茶碗を取った。茶は、もう冷めていた。
*
「この写しは、宰相府へも回しますか」
司祭が帽子を膝に置いたまま聞いた。
「こちらで足ります」
「宰相府は、敵の兵の数を欲しがっておいでで」
「数なら、こちらからお伝えします。宰相さまのお手を、わたくしの用で煩わせたくはありませんもの」
司祭はそれ以上は言わず、頭を下げた。
数は、先に持った者のものになる。
あの夜の広間で、こちらはそれを覚えた。王に上げるつもりだった帳簿が、こちらの知らないうちに壇の上で読み上げられていた。
「空いている三行も、埋めてください。山の教区の帳を引いて」
「帳の冊子は、紙一枚とは違います。峠が開くまでは、山を下りません」
「では、春までに」
「春までに」
司祭は帽子を持って立ち上がり、戸口でもう一度深く頭を下げた。
聖女は、司祭の足音が回廊の角を曲がるまで、戸口の方を向いて微笑んでいた。
*
施療院の長い部屋の窓は、昼のあいだ開けてあった。
窓ぎわから三つ目の寝台には、知らない兵が寝ていた。前にいた腿の兵は、十二日目に前線へ戻った。見積もりより二日遅かった。
四つ目の寝台の敷布は、畳まれていた。母親は、最後の二日に間に合った。
聖女は三つ目の寝台の兵の額に手を当てた。額は熱く、包帯の下から膿のにおいがした。
「どこで撃たれたのか、聞かせてくださいな」
「山の、峠の下で。……荷車で、六日かかりました」
「よく、我慢なさいましたね」
「聖女さまの、お顔が見られたので」
「では、もう少し見ていてくださいな。目を閉じると、熱が上がりますから」
兵が笑おうとして、咳をした。聖女は布で兵の口をぬぐい、布を修道女に渡した。
腿を撃たれた兵は、三日で立てる。荷車に六日揺られた腿は、腐り始めてから寝台に着く。この兵は、十日では戻らない。
峠の向こうでは、下位が八つで、上位の混じる守備隊を焼いた。
荷車の上で腐っているのも、下位の一人だった。
「施療院を、山の麓へ出します」
部屋の端で帳面を抱えていた年かさの修道女が、顔を上げた。
「山へ、ですか。修道女が」
「兵のいるところが、施療院です。荷車の六日を、半日にしましょう」
「ここの寝台は、どうなさいます。東の街道からも、毎日運ばれてまいりますのに」
「王都には、街の女たちがいます。包帯の巻き方は、わたくしが教えます」
修道女を四十。麓の村の教会を一つ借りて、寝台を並べる。
四十の修道女が山へ上がれば、東から運ばれてくる兵の寝台は手が足りなくなり、その分は王都で死ぬ。街の女たちの手で、その半分は拾える。山の麓で戻る数のほうが、多い。
「みなさんを、危ない目には遭わせません。麓は、山の向こうからは遠いのです」
修道女は胸の前で手を組んで、うなずいた。
*
王は、広間にいた。
楽団が春の夜会の稽古をしていて、王は壇の脇の椅子に一人で座り、二曲目を聞いていた。近衛は扉の外に残されていた。
あの夜も、断罪は二曲目のあとだった。
壇の脇の同じ場所に、聖女は立った。
あの夜、読み上げが終わったあとで、壁ぎわから誰より先に広間を出ていった娘がいた。髪に、白い花を挿していた。あの娘の部屋は王宮の東の棟にあって、秋から閉じている。
「聖女。施療院のことか」
「はい、陛下。書付を、二つ」
一つ目は、施療院を山地の麓へ出すこと。修道女四十。
二つ目は、一行だけだった。山地の猟兵を、峠の側へ。
下位の分隊に、上位の兵を当てるまでもない。猟兵は、遠くの一人を撃つ兵だ。
王は二つ目の行で目を止めず、最後の行の聖女の署名を見て、その下に自分の名を書いた。王の名の書付は、明日の朝には将軍たちの机に回る。
「おまえの書くものは、いつも正しい」
「お心のままに、陛下」
楽団が、三曲目に入った。
*
執務室に戻ると、日は傾いていた。
写しの紙は、机の真ん中に置いたままだった。聖女は灯りを近づけて、八行をもう一度、上から読んだ。
一行目の照合の欄は、空いたままだった。
雪は、春には解ける。




