第十六話 見張り小屋の朝
大砲二門は、川の向こうの台地に据えられた。
台地の下で、峠から下りてくる道が大きく曲がっている。春に王軍が峠を下りてくれば、その曲がり目を上から撃てる。
吹き溜まり分隊は、その台地のさらに前へ出た。尾根に向いた、見張り小屋だ。
川を渡って、半月がたった。
小屋は狭い。壁に沿って、寝床が並んでいる。
ゆうべから、九つになった。
九つ目は戸口の寝床で、すきま風がいちばん先に来る。そこに、きのう着いた補充兵が寝た。
補充兵は、夕方、雪を肩に積もらせて着いた。辞令と、中隊長の書付を持っていた。
ノラは辞令を受け取って、戸口の寝床を指さした。
「おまえの寝床は、そこだ」
「はい」
ゆうべの夜番は、ヘルガと組ませた。寒さに慣れていない者ほど、ヘルガと組む。二人は手をつないで、尾根側の番を一つ受け持った。
*
朝の火は、小屋の前で焚く。中で焚くと、煙で目が開かない。
戸口の脇に石を組んで鍋をかけ、そのまわりに分隊が座った。尾根の上が、朝日で白い。
小屋の角では、老兵が尾根側の番に立っていた。パンは、片手で噛んでいる。
「あー、だめだめ、浸けちゃだめー。固いのはね、湯気。湯気に当てるの」
ケーテが、補充兵の手からパンを取り上げた。
「こう。鍋の上で、くるくるー。浸けると崩れちゃうでしょ。崩れたパンって、なんか減った気がしない?」
「……しません、けど」
「するの。この世でいちばん悲しいの、パンが減るのは」
補充兵は、真剣な顔でうなずいた。ヨストやエミールより、二つか三つ上に見える。
返されたパンを、鍋の上で回しはじめる。近づけすぎて、指が湯気に巻かれた。
「あつっ」
「回すのはパン。指じゃないの」
「前の納屋のときは、脇でしたよね。挟んで、四半刻」
ヨストが言った。
「おまえ、パンより先に脇が凍ってたじゃん」
エミールが言った。
「凍ってない。……ちょっとしか」
「だって鍋なかったもん。今日はあるの。今日は贅沢な日ー」
補充兵が、そろそろと腕を上げかけた。
「挟むなって。鍋あんだろ」
ヘルガが、手袋で口を押さえた。
「谷の下って。粉屋の、ある?」
「はい。粉屋の、二軒となりです」
「……いいな」
「えー、じゃあ焼きたて食べてた子に、こんなの食べさせてんの? あたしたち、ひどーい」
「いえ。……これも、うまいです。粉の味が、ちゃんとします」
「えっ、味すんの、これ」
「混ぜものが少ないです。この黒いの。いい粉屋の、粉です」
ケーテが、自分のパンを鼻に近づけた。
「わかんない。あたし、黒いとしか思ったことない」
「ケーテの舌が、安いだけだろ」
エミールが言った。
「はあ?」
ノラは、懐から中隊長の書付を出した。辞令と同じ紐で結んであった。紐をほどいて、書付だけを抜いた。
「ベルント」
「ん」
「中隊長からだ。『川の件、大隊が読んだ。《剛力》に、塩漬け肉を一切れ足せ』」
ベルントは、パンを持ったまま止まった。
「……俺に」
「ほかに《剛力》がいるか」
「一切れ?」
ケーテが、鍋の向こうから首を伸ばした。
「大隊が読んで、一切れ? 中隊長、ぜったい計ったでしょ、それ。薄ーく」
「薄くても、肉だ」
ベルントは、ノラの手から書付を取った。二つに畳んで、外套の胸の内側にしまった。
補充兵が、ノラのほうを向いた。
「伍長は、どうやって食べるんですか。湯気ですか、脇ですか」
「……ちぎる」
「ちぎる」
「ちぎって、食べる」
ノラは丸太に座って、自分のパンをちぎった。
ちぎって、口へ運ぶ。ちぎって、運ぶ。
膝の上の布に、かけらが三つ、同じ大きさで並んでいた。
(……いけない。お行儀が出たわ)
屋敷の朝の、銀の皿の並べ方だった。
三つまとめて口に放りこみ、残りに大きくかじりついた。固い。顎が外れそうだった。
「お嬢、なにパンと喧嘩してんの」
「していない」
「してたよー。しかも負けてた」
「負けていない」
「……顎、押さえてらっしゃいます」
補充兵が、遠慮がちに言った。
ノラは、顎から手を下ろした。
(押さえて……いたけれど。いまのは、パンのほうが悪いのよ)
補充兵が、声を出して笑った。
*
尾根で、音が一つした。
補充兵が、横に倒れた。
パンを持ったままだった。鍋が倒れた。湯が、雪を溶かした。
「伏せろ。戸口と、角へ」
八人が、雪に伏せた。戸口と小屋の角へ、這った。
(尾根。煙。一つ)
尾根の線の上に、白い煙が一つ浮いていた。
(三百歩)
補充兵の外套の左胸に、黒い穴があった。口から、白い息が出ていない。
(息。ない)
「伍長、あの子――」
ケーテが、雪を掻いた。這い出しかけた。
「出るな」
「でも」
「出るな」
ケーテの手袋が、雪をつかんだまま止まった。
煙は、尾根の右の岩から上がっていた。
左にも、岩が一つある。その上だけ、雪がない。
(左の岩。雪が、落ちている)
「グスタフ。尾根。煙の左。もう一人」
老兵は、小屋の角に伏せたまま、首だけを伸ばした。
「……おる。岩の陰に、もう一本。まだ撃っとらん筒だ」
「猟兵か」
「猟兵だ。組で来よる」
(出れば、左。裏)
小屋の裏から台地へは、窪みが一本、下りている。尾根からは見えない。
「ヨスト。裏の窪みから、台地まで走れ。砲に伝えろ。尾根の岩、二つ。右と左」
「はい」
ヨストが、雪の上を這った。小屋の裏へ回った。足音が、窪みを遠ざかった。
「残りは、壁の陰から出るな。頭も出すな」
(右。込め直し。六十)
ノラは、数えた。
六十を数えたところで、二つ目の音がした。
戸口の柱が、ノラの頭の上で裂けた。木屑が、首筋に落ちた。
二つ目の煙は、右の岩から上がった。左の岩は、白いままだった。
(右が、二つ。左は、まだ待っている)
ゼルマが、伏せたまま補充兵のほうを見ていた。帯の革の筒に、手がかかっていた。
ノラは、首を横に振った。ゼルマの手が、筒から離れた。
数が、三百を越えた。
台地で、太鼓が鳴った。
間があった。地面が、揺れた。
尾根の岩のあたりから、雪が噴き上がった。白い煙が、尾根の線を隠した。
煙が晴れても、誰も頭を上げなかった。
「……おらん」
老兵が言った。
「右も、左も。向こうへ下りよった」
ノラは、もうしばらく伏せていた。それから、立った。
老兵は、尾根を見たまま言った。
「日を背負うて、夜のうちに伏せとった。動かんもんは、わしの目でも拾えん」
少し黙った。
「……朝は、日を背負うて撃て。わしらは、そう教わった」
*
補充兵は、鍋の脇で横を向いていた。
手は、まだパンを握っていた。
ケーテが、その横に膝をついた。指を一本ずつ開いて、パンを取った。
取ったパンを、ケーテはしばらく持っていた。それから、ひっくり返った鍋の蓋の上に置いた。
ヘルガが、反対の手を取った。両手で包んで、そのまま動かなかった。
ゆうべ、夜番でつないでいた手だった。
(……あんなに上手に、回せていたのに)
(さっき、笑ったばかりだったのよ)
ヨストが、台地から戻ってきた。肩で息をしていた。
「砲兵の少尉どのが、撃ち手は何人か、と」
「二。退いた、と伝えろ」
「はい」
ヨストは、補充兵のほうを見ないようにして、また窪みを下りていった。
報告は、ノラが書く。
膝の上に紙を置いて、鉛筆を出した。
朝、日の出のあと。見張り小屋の前。
(前。尾根から、見える側。……火を焚かせたのは、私)
尾根より狙撃。猟兵、二。砲、一発。敵、退く。戦死、一。
戦死の欄の名前で、手が動かなくなった。
名前が、出てこなかった。
きのう、辞令で読んだ。読んで、戸口の寝床を指さした。おまえの寝床は、そこだ、と言った。
ゆうべの夜番も、ノラが割り当てた。割り当ての紙には、「補充」と書いた。
(……読んだのよ)
懐から、辞令を出した。書付を抜いた紐が、ゆるんで巻きついていた。
紐を解いて、開いた。
補充兵、イェンス。谷の下の村の出。
ノラは、その名前を報告書に写した。
それから、ゆうべの割り当ての紙を出した。「補充」の二字に、線を一本引いた。
横に、イェンス、と書いた。




