↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/16

第十六話 見張り小屋の朝

大砲二門は、川の向こうの台地に据えられた。

台地の下で、峠から下りてくる道が大きく曲がっている。春に王軍が峠を下りてくれば、その曲がり目を上から撃てる。

吹き溜まり分隊は、その台地のさらに前へ出た。尾根に向いた、見張り小屋だ。


川を渡って、半月がたった。


小屋は狭い。壁に沿って、寝床が並んでいる。

ゆうべから、九つになった。

九つ目は戸口の寝床で、すきま風がいちばん先に来る。そこに、きのう着いた補充兵が寝た。

補充兵は、夕方、雪を肩に積もらせて着いた。辞令と、中隊長の書付を持っていた。

ノラは辞令を受け取って、戸口の寝床を指さした。

「おまえの寝床は、そこだ」

「はい」

ゆうべの夜番は、ヘルガと組ませた。寒さに慣れていない者ほど、ヘルガと組む。二人は手をつないで、尾根側の番を一つ受け持った。


         *


朝の火は、小屋の前で焚く。中で焚くと、煙で目が開かない。

戸口の脇に石を組んで鍋をかけ、そのまわりに分隊が座った。尾根の上が、朝日で白い。

小屋の角では、老兵が尾根側の番に立っていた。パンは、片手で噛んでいる。


「あー、だめだめ、浸けちゃだめー。固いのはね、湯気。湯気に当てるの」

ケーテが、補充兵の手からパンを取り上げた。

「こう。鍋の上で、くるくるー。浸けると崩れちゃうでしょ。崩れたパンって、なんか減った気がしない?」

「……しません、けど」

「するの。この世でいちばん悲しいの、パンが減るのは」


補充兵は、真剣な顔でうなずいた。ヨストやエミールより、二つか三つ上に見える。

返されたパンを、鍋の上で回しはじめる。近づけすぎて、指が湯気に巻かれた。

「あつっ」

「回すのはパン。指じゃないの」


「前の納屋のときは、脇でしたよね。挟んで、四半刻」

ヨストが言った。

「おまえ、パンより先に脇が凍ってたじゃん」

エミールが言った。

「凍ってない。……ちょっとしか」

「だって鍋なかったもん。今日はあるの。今日は贅沢な日ー」

補充兵が、そろそろと腕を上げかけた。

「挟むなって。鍋あんだろ」

ヘルガが、手袋で口を押さえた。


「谷の下って。粉屋の、ある?」

「はい。粉屋の、二軒となりです」

「……いいな」

「えー、じゃあ焼きたて食べてた子に、こんなの食べさせてんの? あたしたち、ひどーい」

「いえ。……これも、うまいです。粉の味が、ちゃんとします」

「えっ、味すんの、これ」

「混ぜものが少ないです。この黒いの。いい粉屋の、粉です」

ケーテが、自分のパンを鼻に近づけた。

「わかんない。あたし、黒いとしか思ったことない」

「ケーテの舌が、安いだけだろ」

エミールが言った。

「はあ?」


ノラは、懐から中隊長の書付を出した。辞令と同じ紐で結んであった。紐をほどいて、書付だけを抜いた。

「ベルント」

「ん」

「中隊長からだ。『川の件、大隊が読んだ。《剛力》に、塩漬け肉を一切れ足せ』」

ベルントは、パンを持ったまま止まった。

「……俺に」

「ほかに《剛力》がいるか」

「一切れ?」

ケーテが、鍋の向こうから首を伸ばした。

「大隊が読んで、一切れ? 中隊長、ぜったい計ったでしょ、それ。薄ーく」

「薄くても、肉だ」

ベルントは、ノラの手から書付を取った。二つに畳んで、外套の胸の内側にしまった。


補充兵が、ノラのほうを向いた。

「伍長は、どうやって食べるんですか。湯気ですか、脇ですか」

「……ちぎる」

「ちぎる」

「ちぎって、食べる」

ノラは丸太に座って、自分のパンをちぎった。

ちぎって、口へ運ぶ。ちぎって、運ぶ。

膝の上の布に、かけらが三つ、同じ大きさで並んでいた。


(……いけない。お行儀が出たわ)

屋敷の朝の、銀の皿の並べ方だった。

三つまとめて口に放りこみ、残りに大きくかじりついた。固い。顎が外れそうだった。


「お嬢、なにパンと喧嘩してんの」

「していない」

「してたよー。しかも負けてた」

「負けていない」

「……顎、押さえてらっしゃいます」

補充兵が、遠慮がちに言った。

ノラは、顎から手を下ろした。

(押さえて……いたけれど。いまのは、パンのほうが悪いのよ)


補充兵が、声を出して笑った。


         *


尾根で、音が一つした。


補充兵が、横に倒れた。

パンを持ったままだった。鍋が倒れた。湯が、雪を溶かした。


「伏せろ。戸口と、角へ」

八人が、雪に伏せた。戸口と小屋の角へ、這った。

(尾根。煙。一つ)

尾根の線の上に、白い煙が一つ浮いていた。

(三百歩)

補充兵の外套の左胸に、黒い穴があった。口から、白い息が出ていない。

(息。ない)


「伍長、あの子――」

ケーテが、雪を掻いた。這い出しかけた。

「出るな」

「でも」

「出るな」

ケーテの手袋が、雪をつかんだまま止まった。


煙は、尾根の右の岩から上がっていた。

左にも、岩が一つある。その上だけ、雪がない。

(左の岩。雪が、落ちている)

「グスタフ。尾根。煙の左。もう一人」

老兵は、小屋の角に伏せたまま、首だけを伸ばした。

「……おる。岩の陰に、もう一本。まだ撃っとらん筒だ」

「猟兵か」

「猟兵だ。組で来よる」


(出れば、左。裏)

小屋の裏から台地へは、窪みが一本、下りている。尾根からは見えない。

「ヨスト。裏の窪みから、台地まで走れ。砲に伝えろ。尾根の岩、二つ。右と左」

「はい」

ヨストが、雪の上を這った。小屋の裏へ回った。足音が、窪みを遠ざかった。

「残りは、壁の陰から出るな。頭も出すな」


(右。込め直し。六十)

ノラは、数えた。

六十を数えたところで、二つ目の音がした。

戸口の柱が、ノラの頭の上で裂けた。木屑が、首筋に落ちた。

二つ目の煙は、右の岩から上がった。左の岩は、白いままだった。

(右が、二つ。左は、まだ待っている)


ゼルマが、伏せたまま補充兵のほうを見ていた。帯の革の筒に、手がかかっていた。

ノラは、首を横に振った。ゼルマの手が、筒から離れた。


数が、三百を越えた。

台地で、太鼓が鳴った。

間があった。地面が、揺れた。

尾根の岩のあたりから、雪が噴き上がった。白い煙が、尾根の線を隠した。


煙が晴れても、誰も頭を上げなかった。

「……おらん」

老兵が言った。

「右も、左も。向こうへ下りよった」

ノラは、もうしばらく伏せていた。それから、立った。


老兵は、尾根を見たまま言った。

「日を背負うて、夜のうちに伏せとった。動かんもんは、わしの目でも拾えん」

少し黙った。

「……朝は、日を背負うて撃て。わしらは、そう教わった」


         *


補充兵は、鍋の脇で横を向いていた。

手は、まだパンを握っていた。


ケーテが、その横に膝をついた。指を一本ずつ開いて、パンを取った。

取ったパンを、ケーテはしばらく持っていた。それから、ひっくり返った鍋の蓋の上に置いた。

ヘルガが、反対の手を取った。両手で包んで、そのまま動かなかった。

ゆうべ、夜番でつないでいた手だった。

(……あんなに上手に、回せていたのに)

(さっき、笑ったばかりだったのよ)


ヨストが、台地から戻ってきた。肩で息をしていた。

「砲兵の少尉どのが、撃ち手は何人か、と」

「二。退いた、と伝えろ」

「はい」

ヨストは、補充兵のほうを見ないようにして、また窪みを下りていった。


報告は、ノラが書く。

膝の上に紙を置いて、鉛筆を出した。

朝、日の出のあと。見張り小屋の前。

(前。尾根から、見える側。……火を焚かせたのは、私)

尾根より狙撃。猟兵、二。砲、一発。敵、退く。戦死、一。

戦死の欄の名前で、手が動かなくなった。


名前が、出てこなかった。

きのう、辞令で読んだ。読んで、戸口の寝床を指さした。おまえの寝床は、そこだ、と言った。

ゆうべの夜番も、ノラが割り当てた。割り当ての紙には、「補充」と書いた。

(……読んだのよ)


懐から、辞令を出した。書付を抜いた紐が、ゆるんで巻きついていた。

紐を解いて、開いた。


補充兵、イェンス。谷の下の村の出。


ノラは、その名前を報告書に写した。

それから、ゆうべの割り当ての紙を出した。「補充」の二字に、線を一本引いた。

横に、イェンス、と書いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。