第八話 鉄の伍長
鎖の外は、寒かった。
中尉は、腰に縄を結ばれて、列のいちばん後ろを歩かされていた。縄の先は、伍長の腰にある。前の七人は手をつないでいる。手袋も外して。正気ではない。
将校を、縄で引くか。剣を預かったなら、縄は要らない。それが作法だ。作法を知らない分隊に、獲られた。
それなのに、七人の誰も、歯を鳴らさない。
中尉は鳴らしていた。将校の外套の中で、指が手袋の形のまま固まっていく。両手は前で縛られている。剣は、火薬庫の前で、帳簿の娘が取り上げた。
靴の中で、足に布が巻いてある。白パンの袋だった麻布だ。巻いたのは、あの帳簿の娘だった。
前を行く伍長の背中から、湯気が立っていた。七人の息は、白くない。中尉の息だけが、白い。
見まちがいだ。寒さで目が狂っている。
昼は、尾根の裏で伏せた。七人は、手をつないだまま寝た。中尉だけが、眠れずにいた。
二晩目の尾根の上で、右が崖になった。
中尉は、足を滑らせた。わざとではない。縁の雪を、腰まで滑った。
腰の縄が張った。前の伍長が、老兵の手を離した。右手が、腰の短刀へ行った。
切られる。
「切るな!」
老兵の前にいた若い兵が、担いでいた箱を雪に落とした。落として、老兵の脇をすり抜け、伍長の腰を抱えた。
伍長の右手が、短刀から縄へ戻った。両手で、引いた。膝が、雪に沈んだ。
箱は、崖の角で一度跳ねて、見えなくなった。音は来なかった。
中尉の縄は、まだ腰にあった。
伍長の背中から、湯気が消えていた。老兵の手を取り直すと、また立った。
見まちがいではない。
伍長は、若い兵を見た。箱の落ちた崖を見た。何も言わなかった。
列が、また歩き出した。
跳べば、七人を振り切れた力だ。火薬庫の裏で、大男の下から体を浮かせた力。
跳べなかった。膝が、曲がらない。跳ぶには、膝を溜める。溜める膝が、ない。
体が、召命を忘れている。
*
納屋には、別の分隊が入っていた。
戸口で兵が二人、七人を数え、中尉を見て、口笛を吹いた。
「下札が、将校を獲ったか」
伍長は口笛にも、言葉にも返事をせずに、戸口を抜けた。もう一人が、荷をまとめながら言った。
「煙は見えた。谷へは行かん。中隊長は、明日、ここへ来る」
別の分隊は出ていった。老兵が、梁の上から布に巻いた細い銃を下ろし、帳簿の娘が、黒い帳面を下ろした。
中尉は、火鉢から離れた壁ぎわに座らされた。
手の縄は解かれず、足の布だけ、帳簿の娘が巻き直した。きつくも、ゆるくもない。夜番に、壁ぎわの席が一つ増えた。
素手の娘が、白パンを一つ、中尉の膝に置いた。補給所の、おれたちのパンだ。中尉は手をつけずにいた。娘は、パンを置いたまま離れた。
伍長が、前に立った。
若い。中尉と、同じくらいか、下だ。無表情。
聞かれるのは決まっている。守備隊の数、交代の刻、谷の道の配置。答えない。名乗らなかった伍長に、名乗る義理もない。明日、中隊長が来る。本当の尋問は、そこからだ。
「火薬庫の箱は、どこから来た」
中尉は、伍長を見た。
配置も、人数も、来ない。
「答えない」
伍長は頷いて、火鉢のほうへ戻っていった。殴る気配もない。
中尉は、自分が何を聞かれたのかを、もう一度考えた。箱。箱が、どこから来たか。
*
奪った箱が、火鉢の前に並べられた。弾薬の箱、一つ。白パンの袋、二つ。塩。
「弾薬、一箱。玉が四十、紙が二十。崖に一箱」
帳簿の娘が、書きながら読み上げた。
「白パン、六十二。塩、一袋。火薬、なし」
「捕虜は、明日、中隊長に渡す」
伍長が言った。
「火薬がないと、撃てん」老兵が言った。「中隊に言わんと、次は棒で殴ることになる」
「明日、言う」
伍長が答えた。老兵は、弾薬の箱を持ち上げて、蓋を見た。蝋の封印と、その下に、板へ押した焼印。蝋にも、同じ印が沈んでいる。老兵は、目を細めて、それを遠ざけた。
「伍長。印を見ろ」
伍長が、箱の前にしゃがんだ。帳簿の娘も覗いた。
「王軍の工廠は、鷲でしょ。これ、鷲じゃない」
中尉は、壁ぎわから、その封印を見た。
見たことがある。補給所の箱に、何度も。鷲でないのが、当たり前だった。当たり前だったと、いま、気がついた。
伍長が、短刀の先で、蝋を板から浮かせた。
割れないように、ゆっくり。浮かせた蝋を、懐に入れた。
「弾を出せ。出したら、箱は燃やせ」
「箱ごとですか」
「箱ごとだ」
帳簿の娘が、蓋の板を外した。焼印の面を下にして、火鉢に入れた。中尉には、その面が見えない。
「印、燃やしたって書きますよ。日付つきで」
「書け」
娘は、帳面に書いた。
冷酷だ。
名を聞いたとき、答えなかった。崖では、縄を切ろうと短刀に手をやった。箱が落ちたときも、顔が動かなかった。
鉄だ。
下札、と戸口の兵は言った。その分隊の、鉄の伍長。戻れたら、そう報告する。手をつないで凍えない分隊のことは、報告しない。見まちがいだったからだ。
火鉢の向こうで、帳簿の娘が「お嬢」と呼んだ。伍長が、顔を上げた。
「何だ」
「水、凍ってます。明日の朝も」
帳簿の娘は、顔を上げずに、口の端だけで笑った。
からかいだ。等級の低い兵が、鉄の伍長をそう呼んで、笑っている。
伍長は、懐の蝋を、外套の上から一度、押さえた。
鉄が、そんな手つきをするか。
明日、中隊長が来る。蝋は、伍長の懐にある。
*
王都。報告書が届いた翌日。
兵の手は、熱かった。
施療院の長い部屋の、窓ぎわから三つ目の寝台で、聖女は若い兵の手を両手で包んでいた。弾は腿を抜けていて骨は無事、熱は傷の熱で病の熱ではない。
「痛みますね」
「聖女さま。おれは、もう」
「立てますよ。三日もすれば」
兵の目に水が溜まった。聖女は微笑んで、包帯の端が緩んでいるのを見つけ、自分の手で巻き直した。巻き終わりを内側に折り込む。緩まない巻き方は、孤児院で覚えた。
三日で立てる。七日で歩ける。十日で前線に戻せる。この寝台は十日で空き、空いた寝台に次の一人が入る。
「神さまは、あなたを数えておいでです」
兵が頷いた。聖女は手を離し、次の寝台へ移った。
四つ目の兵は戻せない。胸の音が濁っていて、十日で止まる。その十日、この寝台は戻せる兵に使えない。
「よく、休んで」
聖女は、その手も、同じだけ握った。同じだけ握るのが、仕事だった。
部屋の端で修道女が待っていた。聖女はその耳に口を寄せた。
「窓を、昼は全部開けて。寒くても。病は閉めた部屋で増えます。三つ目の兵は、七日目から中庭を歩かせて」
「はい、聖女さま」
「四つ目の兵には、母親を呼んで。間に合ううちに」
修道女は二つ目までを帳面に書き、三つ目で手を止めた。聖女は微笑んで、その手の甲に触れた。
*
回廊は、長い。
施療院の東の端から執務室まで、百二十歩。柱が十二本。
七本目の柱の前で、数が止まる。この柱の向こうが、昔、孤児院の食堂だった。
歌がうまかった子。噛み癖のあった子。いちばん小さかった、いつも袖を引いていた子。
三人、ではない。三、という数にしたことは、一度もない。
その冬、麦が来なかった。来なかった理由を紙で読んだのは、ずっとあとだ。
八本目の柱で、数が戻る。百二十歩。執務室。
*
回廊の先で、近衛の靴音がした。四つ。
聖女は壁ぎわに寄り、膝を折った。王が通る。一年前まで王太子だった人だ。
「聖女」
「陛下」
「施療院は」
「戻せる兵が、今月は四十一名に」
「そうか」
王の外套の裾が、聖女の膝の前を過ぎた。裾の金糸が、一本ほつれていた。
この人は、あの夜から、こちらの目を見ない。
聖女は膝を伸ばした。王の背中は、近衛の間に消えた。あの夜、壇の上で読み上げる王太子の手が途中で止まったのを、覚えている。何を待っていたのかは、いまも知らない。
広間で読むとは、聞いていなかった。
聞いていなかったことを、誰にも言っていない。言えば、数が崩れる。
*
執務室の机に、昨日の報告書が端に置いたままになっていた。西。山地。補給所が、一つ。
聖女はそれを動かさず、書記が運んできた在庫表を開いた。山地の、前線の補給所の分。落ちた補給所の名が、その中にある。
弾薬の箱数。火薬の樽数。白パンの袋数。落ちた補給所の行だけ、数の上に線が引かれ、脇に「焼失」と書き足してある。四という樽数が、線の下で読めた。
白パンの袋数が多い。斥候まで白パンにしたのは、去年の秋だ。冬の黒パンの麦は、指を落とす。白パンの兵は、指で寝台を取らない。
箱数の横に、受領の印がある。
王軍の工廠の鷲ではない。輪の中に、枝のような線。印は数ではない。出所は、宰相の仕事だ。聖女は、箱数の列に目を戻した。
机の端の報告書を、動かさずに、目で読んだ。
将校一名、行方不明。
死体がない。生きているなら、連れていかれた。
捕虜を連れて、冬の峠をもう一度。それを命じた者が、その分隊にいる。
聖女は鈴を鳴らした。書記が入ってきた。
「峠から来た分隊の名簿を、全員分」
「分隊、ですか。敵の」
「教会の名簿です。全員分」
書記が下がった。
聖女は、机の端の報告書を、初めて、机の真ん中へ動かした。




