第七話 煙
闇。雪。何もない。
見張りの目が、火に戻った。十を数えた。
動かない。もう十。
(出た。号令)
顔を上げる。火。二人。座っている二人。
老兵の顔が、こっちを向いた。老兵は、待っている。
(言え。順番に)
「グスタフ。若いのを連れて、ここで伏せろ。火皿を、腹で温めろ。合図まで撃つな」
「合図は」
「火薬庫が燃える。撃つなら、人ではない。扉だ」
老兵が、銃を腹の下に入れた。
「ヘルガ、ケーテ、ベルント、エミール。火薬庫へ。火から遠い側を回る。走らない」
回る。
火が、左に見える。火は、見ない。
雪。浅い。足音。ない。
大きい小屋。壁。黒い。
壁に、背。五人。
扉。閂。外から。鍵は、ない。閂だけ。
開ければ、音。
大男を見る。大男が、閂に手をかける。
「上に、持ち上げてから、引け。屋敷の門番が、夜はそうしていた」
言わなくていいことを、言った。
大男の手。閂が、上がる。音が、しない。引く。扉が、開く。
中。暗い。樽、四。幌。火薬の匂い。
少年。
少年の手が、外套の中から火薬の袋を出す。手が、震えている。
袋の口を切る。火薬を、扉の内側に、線で引く。樽の足元まで、十歩。
線の端に、外套の裾を裂いた布。火薬を揉み込んで、縒る。腕の長さ。
「遅くなる」と少年が言った。「燃えるのが。歩いて二十数えるくらい」
鍛冶屋の倅の手だ。震えていても、縒る手は、速い。
火口。火打ち石。
「エミール。火は見るな。手だけ、動かせ」
打つ。火花。火口に、落ちた。
赤くならない。湿っている。
少年の顔が、火口に近づかない。息を、吹けない。
娘が、少年の火口を持つ手の上に、手を重ねた。少年の手の震えが、止まる。少年が、顔を背けたまま、息を吹いた。
火口が、赤くなる。
右。火のそば。動かない。
左。小さい小屋の戸が、開いた。
一人。火を通らない。こっちへ。火薬庫の裏へ。
銃は、持っていない。腰に、剣。将校の外套。
(小便。……ちがう)
足が、速い。扉を見ている。開いた扉を。
(左。読み違い)
「ベルント。左。小屋から来る。扉の陰。剣を抜く前なら、押さえられる。倒すな、押さえろ」
大男が、扉の陰に入る。
距離、三十。
男の右手。剣の柄に、ない。扉へ伸びている。左手が、口へ。叫ぶ気だ。
肩が落ちた。走る。
「いま」
大男の腕。男の体。雪の上。
男が、暴れた。大男の体が、一度、浮いた。人の力ではない。
大男は、力で返さなかった。男の顔を、雪に押し込んだ。息のできない相手は、浮かない。
ケーテが、男の足に、腰の縄を回した。軍曹の縄。切った片方。男の腰から、剣を抜いて、自分の背に回した。
男の目が、雪の中から、こっちを見た。
「エミール。火」
少年が、火口を、布の端に置いた。
布が、くすぶる。線は、まだ、燃えない。
「離れろ。走るな。歩いて、数えろ」
五人。火から遠いほうへ。雪へ。大男が、縛った男を担ぐ。
十。二十。三十。
後ろで、火薬の線が、音を立てた。
四十。五十。
光。
小さい小屋の戸が、また開いた。
人。出てくる。一人。二人。三人。銃。
火薬庫の光が、全員の顔を照らしている。こっちは、暗い。
四人。五人。
一人が、跳んだ。小屋の屋根の高さまで。雪に降りて、火薬庫へ走る。速い。
もう一人が、雪を抱えて火薬庫へ。雪で消す気だ。
跳んだ男が、扉に手をかけた。雪の男が、その背中にぶつかった。どけ、と跳んだ男が言った。
後ろの闇で、老兵の銃が鳴った。一発。
扉の板が、割れた。跳んだ男の手が、扉から離れた。
残りが、止まった。暗いほうを見た。見えない。
もう一発。当たらない。当たらなくても、止まる。
火薬庫の中で、何かが弾けた。小さく。
「下がれ! 谷へ!」
敵の声。将校は、ここにいる。残りを束ねる、別の声だ。
敵の五人が、下がる。橇の跡へ。谷へ。
谷。第三分隊の道。
追えない。
六十。七十。
伏せろ、と言う前に、娘がノラの腕を引いて、雪に伏せさせた。
火薬庫が、鳴った。
*
音が尾根に当たって戻ってきたとき、ノラは雪に倒れていた。
膝が、立たなかった。
(立って。……立てないわ)
銃を、雪に突く。杖にする。
(見られる。……見られてもいいの。立てないほうが、困るもの)
立った。
火薬庫の屋根が、なかった。火が、空へ上がっている。煙。黒い。尾根より高い。
(見える。あれなら、中隊から見えるわ)
数える。
娘。少年。ケーテ。大男。老兵。若い兵。それと、縛った男。
(六人と、私。七人。全員)
数え直した。七人。
少年の手に、火口の火傷。赤い。小さい。
大男の頬に、殴られた跡。青い。
老兵は、立っている。腹で温めた銃を、もう拭いている。
若い兵は、座り込んで、震えている。
娘が、若い兵の隣にしゃがんで、手を取った。震えが、止まった。
縛った男が、雪の上に座らされていた。若い。将校の外套。
ノラを見る目は、わからない、という目だった。七人に落とされた、ということが。
ノラは、口を閉じていた。
「名は」
男が、先に言った。「名を、聞いておく。伍長の名を」
ノラは答えなかった。男の目が、冷えた。
(ハルト、と言えばいいだけなのに。……いま口を開けたら、ハルトの前に、別の名が出てしまう)
置いていけば、谷の守備隊が拾う。殺しはしない。
(連れていくわ。置いていけば、谷で私たちの数を言うもの)
大男が、懐から黒パンを出した。昼に入れた、ノラのパンだ。
半分に割って、半分を男の口に押し込んだ。残りを、自分で食べた。
「食ったぞ」
誰に言ったのかは、言わなかった。
扉の前の、燃えていない箱の山を、ケーテが数え始めた。
「弾薬の箱、六。一箱、玉が四十。紙が足りない。パン、白いの、二袋。塩。火薬は全部燃えた。いい燃え方」
少年が、白パンの袋を抱えた。今度は、懐に入れなかった。
「お嬢」
ケーテが、箱の上から言った。
「燃やした分、帳簿にどう書きます?」
「燃えたと書け」
「帳簿、梁の上ですけど」
「戻ってから書け」
「戻るんですね」
「戻る」
ケーテは頷いて、箱の数を数え直した。
「帰りだ」
ノラは、尾根を見た。登ってきた線。
「弾薬の箱は、二つだけ。エミールと若いのが担ぐ。残りは燃やす。白パンは全部持つ。捕虜は、私の縄で、いちばん後ろ」
「鎖は」
「鎖のまま。捕虜は、私の後ろ。手は、つながない」
縛った男が、鎖、と口の中で言った。意味は、わからない顔だった。
「崖で捕虜が落ちたら」
「縄を切れ」
ケーテが、ノラを見た。それから、縛った男の靴を見た。
「靴下、濡れてる奴。白パンの袋の端、裂いて巻いて。凍える前に」
帳簿がなくても、数える声は同じだった。
*
夜明けが、来た。十日の、三日目の朝だった。
峠の向こうの尾根が、東から順に、白から灰色、灰色から淡い金に変わっていった。煙だけが、その色の中を黒く昇り、尾根の高さで風にちぎれて、谷のほうへ流れた。
ケーテが、隣に来た。
補給所の小屋から拾ってきた水筒を、差し出した。
ノラは、水筒とケーテの顔を見比べた。ケーテは、こっちを見ていなかった。煙を見ていた。
受け取って、口を開けた。
「……いただきますわ」
誰も笑わなかった。笑う力が、もう誰にも残っていなかった。
(い、いまのは……! 喉が、乾いていただけで……!)
ケーテが、煙を見たまま、水筒の栓を指で回した。
水を飲んだ。冷たい。喉に、落ちる。
水筒を返した。受け取った手が、ノラの指に触れて、離れた。
老兵が、尾根の向こうを見ていた。
「伍長」
「何だ」
「煙、見えとるぞ。中隊から」
「見えるか」
「わしには、見える」
*
王都。七日のち。
施療院の執務室で、聖女は、三枚目の報告書を机の端に置いた。
東の前線。病で死んだ兵の数、十二。回復して戻した兵の数、三十一。差し引き、十九。悪くない。
戸が開いて、修道女が茶を置いた。聖女は顔を上げ、白い手を修道女の手に重ねて、礼を言った。修道女は頬を赤くして、戸を閉めた。
四枚目。
西。山地。補給所が、一つ落ちた。
損害、火薬庫一棟、弾薬六箱、将校一名、行方不明。守備隊十四名、うち上位の召命を持つ者三名。襲ったのは、少数。夜。峠側から。
峠側から。
聖女は、紙を読み返した。一度目は、数字を読んだ。二度目は、言葉を読んだ。
雪の峠を、冬に越えた。辺境軍が、分隊一つを、峠から出した。
上位の召命があれば、谷を使う。谷で殴り合える。
下位。
聖女は、紙を置いた。もう一度、取った。
上位の召命を三つ揃えた守備隊が、下位の分隊に落とされた。数が、合わない。
合わない数は、どこかに、数えていないものがある。
この分隊を率いているのは、誰?




