第六話 鎖
最初の二十歩は、届いていなかった。
老兵の手は、冷たかった。つなぐ手だけ、七人とも手袋を外している。自分の右手と、同じ冷たさだった。
(届かない……! 一度しか見ていないものに、七人を賭けてしまったの? ……戻る? いまなら納屋まで半刻よ)
中隊長の、損をしない目尻が浮かんだ。
縄は二本。手は七つ。手のまま、行く。
三十歩。
娘の背中が、尾根の線に入った。
風が、鳴った。
尾根。右の肩。娘の背中。
雪。膝。次で、腿。
一歩。
老兵の手。右手の中。
冷たくない。
左手。負い革。冷たい。
右だけ。老兵の手から、こっちまで。
(届いた。端まで)
風。横から。
娘が止まる。列が止まる。
風が抜ける。娘が進む。
坂。急。
娘の手が、少年を引く。少年がケーテを。ケーテが大男を。大男が若い兵を。若い兵が老兵を。老兵が、ノラを。
七人。引かれて、登る。
尾根の上。風。強い。
左。崖。白い。下は見えない。
娘が右に寄る。列が右に寄る。
足元。雪。固い。
「右の肩を、外すな」
娘の声。風の中で、短い。
一歩。一歩。
大男の足。
左足。
雪が、沈んだ。
大男の体。左へ。荷が、左へ。荷の縄。肩の一か所。縄が、肩から、抜けた。
荷が、崖へ。
大男が、荷へ。
「握れ!」
若い兵の手。大男の右手。
ケーテの手。大男の左手。
列が、左へ引かれる。老兵の手。握る。骨が、鳴る。
踏ん張る。雪。固い。固い。
止まった。
大男の膝が、崖の縁の雪を押していた。荷は、ない。落ちた。
音は、来なかった。深い。
大男が、崖を見ている。
「戻れ」
声が出た。
「戻れ。荷は、見るな」
大男が戻る。若い兵とケーテが、引き上げる。大男の膝が、雪に戻る。
大男の手。震えている。握っている若い兵の手も。
荷。火薬は少年が持っている。弾は各自。落ちたのは、大男のパンと肉と、予備の火打ち石と、縄。
自分の荷に、軍曹の縄。切った片方。ケーテの荷にも、片方。
「ケーテ。ベルントを、縄で腰に結べ。おまえの腰と」
「はい」
ケーテの手が、一度、離れた。縄。結ぶ。
大男が、自分で結び目を取った。ケーテの手から取る。自分の腰で、二重に締める。
ケーテの手が、戻る。握り返す。
強い。さっきより。
「お嬢の縄だ」
大男の声。崖のほうを向いたまま。
「軍曹の縄だ。進め」
進む。
一歩。
老兵の手。さっきより、弱い。老兵が、疲れている。
娘の背中。止まらない。
崖が、右へ離れていく。尾根が、広くなる。
一歩。
*
空が、白んだ。
娘が尾根の裏側へ下り、岩の陰で止まった。風が、ここには来ない。
「昼は、ここ」
娘が言って、座った。座って、初めて手を離した。
手が、離れた。
離れた途端に、冷気が右の手に来た。指の先から。
手袋を、急いではめた。
(通った……! 冬は誰も通らん、って言われた線を、七人で通ったのよ!)
笑いそうになった。笑わない。笑ったら、歯が鳴る。
七人が、岩の陰に座った。火は焚かない。パンを割って、口の中で溶かす。雪も、同じ。
大男は、パンがない。
少年が、自分のパンを半分、大男に渡した。
ノラも、自分のパンを割った。割った半分を、ケーテに渡した。ケーテが、その半分を、大男に回した。
若い兵が、自分の塩漬け肉を半分に裂いて、大男の膝に置いた。置いて、目をそらした。
大男は、両手にパンを持って、どちらから食べるか迷っていた。
迷ってから、少年のほうを先に食べた。ノラのほうは、懐に入れた。
(どうして食べないの? 捨てもしないで。……食べればいいのに、もう!)
「お召し上がりになって」
少年が、口の中のパンを吹きそうになった。
「食え」
言い直した。言い直しても、遅い。
「いまの、お嬢のですよね?」
「食え」
大男は、懐のパンを出さなかった。出さないまま、腰の縄の結び目を、親指でなぞっていた。
「お嬢」
ケーテが、口の中のパンを飲み込んで言った。
「いま、あたしたち、誰も凍えてませんよね」
「そうだ」
「ヘルガの手、つないでるあいだだけ」
「そうだ」
ケーテは、それ以上聞かなかった。娘を見た。娘は、岩に寄りかかって、もう目を閉じていた。
少年が、娘の隣に座っていた。手は、つないでいない。少年の鼻の頭が、白くなり始めている。
「エミール。手」
ノラが言うと、少年は寝ている娘の手を取った。鼻の頭の白が、引いた。
ケーテが、それを見ていた。右手の指が、鉛筆を持つ形に曲がって、戻った。帳簿は、梁の上だ。
寝るのは、娘の両側で、二人ずつ。手をつないだまま寝て、半刻で替わる。残りは起きて、尾根を見る。
ノラは寝なかった。
(十日のうち、一日が消えたわ)
右手が、まだ老兵の手の形を覚えていた。
老兵も、寝なかった。岩の端から、尾根の向こうを見ている。
「伍長」
尾根から目を離さずに、老兵が言った。
「補給所の見張りは、火に当たっとる。わしなら、火に当たらん」
「なぜ」
「火を見た目は、闇を見られん。猟兵は、火に背を向けて立つ」
(……猟兵は?)
老兵は、自分で言ったことに気づいていない顔だった。
「見張りが火を見ていれば」
「向こうからは、こっちが見えん。こっちからは、向こうが見える」
ノラは頷いた。老兵は、尾根に目を戻した。
(聞かないわ。戻ってから。……戻れたら)
「崖の下は、谷だ」
聞く前に、老兵が言った。「春まで、誰も拾わん」
*
夕方。風が、弱まった。
娘が立って、尾根を見た。
「向こうの雲、降りてくる。登ってるあいだは、雪」
「見えなくなるか」
「背中だけ、見てて」
尾根に戻る。鎖。同じ順。娘が先頭。
手。老兵の手。今度は、十歩で、届いた。
(なぜ早い。……あとだ)
夜。雪が、横から来る。
前が見えない。娘の背中だけ。
一歩。
雪が、切れた。
老兵の手が、止まった。
列が、止まる。
老兵が、顔を上げている。遠く。右。斜め下。
「火だ」
老兵の声。
「火が、三つ。小屋が、二つ。大きいのと小さいの」
目を凝らす。黒。黒。黒の中に、赤い点。老兵には三つ。ノラには、一つ。
「距離」
「歩いて、半刻。下り」
補給所。
「人は」
「火のまわりに、四人。立っとるのが二人、座っとるのが二人。交代組だ。小屋の中は、わからん」
外に四人なら、中は、その倍か、三倍。
七人で。
膝。震えている。暗い。誰にも見えない。
(数えろ)
距離、半刻。下り。雪。火は向こうにある。向こうからこっちは、見えない。こっちから向こうは、見える。
火に当たる見張り。猟兵ではない。
(グスタフが見える。グスタフを、先に)
「鎖のまま、下る。ヘルガ、グスタフの後ろにつけ。グスタフが先頭」
列が、組み直る。老兵の手が、娘の手に。娘の手が、ノラの手に。
娘の手が、冷たくない。
娘まで、一人。
下る。
老兵が、鳴らない雪を選ぶ。娘が、その足跡を踏む。七人が、同じ足跡を踏む。
一歩。一歩。
火が、消えない。向こうは、まだ知らない。
火が、近くなる。赤い点が、三つになる。小屋の影。大きい。小さい。
大きいほうの小屋に、扉。扉の前に、箱。積んである。幌。火から、いちばん遠い。
小さいほうに、煙突。煙。守備隊は、小さいほうで寝ている。
小屋の裏から、橇の跡。谷へ、下りている。
人。立っている二人。銃を持っている。顔が、火を向いている。老兵の言うとおりなら、こっちは見えない。
距離、三百。
老兵が、止まった。
「ここからは、伏せて進む」
鎖を解く。手が、離れる。ケーテが、腰の縄を解く。巻く。
冷気が来る。右手。左手。
火皿。凍っている。撃てない。撃たない。火に当たるまで。
伏せる。雪。胸。冷たい。構わない。
尾根の裏の下りは、風が雪を払っている。浅い。跡は、残る。残っても、夜は見えない。
匍匐。腕一本分。また腕一本分。七つの体が、雪の上を進む。
距離、二百。
火。立っている二人の顔。若い。片方が、あくびをした。
距離、百五十。
見張りの、左の男。
肩。右の肩が、下がった。
首が、回る前。肩が、先に動く。右を向く。こっちを向く。
半拍。
「伏せろ」
七つの体が、雪に沈んだ。
見張りが、こっちを見た。




