↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/10

第六話 鎖

最初の二十歩は、届いていなかった。


老兵の手は、冷たかった。つなぐ手だけ、七人とも手袋を外している。自分の右手と、同じ冷たさだった。

(届かない……! 一度しか見ていないものに、七人を賭けてしまったの? ……戻る? いまなら納屋まで半刻よ)

中隊長の、損をしない目尻が浮かんだ。

縄は二本。手は七つ。手のまま、行く。

三十歩。

娘の背中が、尾根の線に入った。


風が、鳴った。


尾根。右の肩。娘の背中。

雪。膝。次で、腿。

一歩。


老兵の手。右手の中。

冷たくない。

左手。負い革。冷たい。

右だけ。老兵の手から、こっちまで。

(届いた。端まで)


風。横から。

娘が止まる。列が止まる。

風が抜ける。娘が進む。

坂。急。

娘の手が、少年を引く。少年がケーテを。ケーテが大男を。大男が若い兵を。若い兵が老兵を。老兵が、ノラを。

七人。引かれて、登る。


尾根の上。風。強い。

左。崖。白い。下は見えない。

娘が右に寄る。列が右に寄る。

足元。雪。固い。

「右の肩を、外すな」

娘の声。風の中で、短い。

一歩。一歩。


大男の足。

左足。

雪が、沈んだ。

大男の体。左へ。荷が、左へ。荷の縄。肩の一か所。縄が、肩から、抜けた。

荷が、崖へ。

大男が、荷へ。


「握れ!」

若い兵の手。大男の右手。

ケーテの手。大男の左手。

列が、左へ引かれる。老兵の手。握る。骨が、鳴る。

踏ん張る。雪。固い。固い。

止まった。

大男の膝が、崖の縁の雪を押していた。荷は、ない。落ちた。

音は、来なかった。深い。

大男が、崖を見ている。

「戻れ」

声が出た。

「戻れ。荷は、見るな」

大男が戻る。若い兵とケーテが、引き上げる。大男の膝が、雪に戻る。

大男の手。震えている。握っている若い兵の手も。


荷。火薬は少年が持っている。弾は各自。落ちたのは、大男のパンと肉と、予備の火打ち石と、縄。

自分の荷に、軍曹の縄。切った片方。ケーテの荷にも、片方。

「ケーテ。ベルントを、縄で腰に結べ。おまえの腰と」

「はい」

ケーテの手が、一度、離れた。縄。結ぶ。

大男が、自分で結び目を取った。ケーテの手から取る。自分の腰で、二重に締める。

ケーテの手が、戻る。握り返す。

強い。さっきより。

「お嬢の縄だ」

大男の声。崖のほうを向いたまま。

「軍曹の縄だ。進め」

進む。


一歩。

老兵の手。さっきより、弱い。老兵が、疲れている。

娘の背中。止まらない。

崖が、右へ離れていく。尾根が、広くなる。

一歩。


         *


空が、白んだ。

娘が尾根の裏側へ下り、岩の陰で止まった。風が、ここには来ない。

「昼は、ここ」

娘が言って、座った。座って、初めて手を離した。


手が、離れた。

離れた途端に、冷気が右の手に来た。指の先から。

手袋を、急いではめた。

(通った……! 冬は誰も通らん、って言われた線を、七人で通ったのよ!)

笑いそうになった。笑わない。笑ったら、歯が鳴る。


七人が、岩の陰に座った。火は焚かない。パンを割って、口の中で溶かす。雪も、同じ。

大男は、パンがない。

少年が、自分のパンを半分、大男に渡した。

ノラも、自分のパンを割った。割った半分を、ケーテに渡した。ケーテが、その半分を、大男に回した。

若い兵が、自分の塩漬け肉を半分に裂いて、大男の膝に置いた。置いて、目をそらした。

大男は、両手にパンを持って、どちらから食べるか迷っていた。

迷ってから、少年のほうを先に食べた。ノラのほうは、懐に入れた。

(どうして食べないの? 捨てもしないで。……食べればいいのに、もう!)

「お召し上がりになって」

少年が、口の中のパンを吹きそうになった。

「食え」

言い直した。言い直しても、遅い。

「いまの、お嬢のですよね?」

「食え」

大男は、懐のパンを出さなかった。出さないまま、腰の縄の結び目を、親指でなぞっていた。


「お嬢」

ケーテが、口の中のパンを飲み込んで言った。

「いま、あたしたち、誰も凍えてませんよね」

「そうだ」

「ヘルガの手、つないでるあいだだけ」

「そうだ」

ケーテは、それ以上聞かなかった。娘を見た。娘は、岩に寄りかかって、もう目を閉じていた。

少年が、娘の隣に座っていた。手は、つないでいない。少年の鼻の頭が、白くなり始めている。

「エミール。手」

ノラが言うと、少年は寝ている娘の手を取った。鼻の頭の白が、引いた。

ケーテが、それを見ていた。右手の指が、鉛筆を持つ形に曲がって、戻った。帳簿は、梁の上だ。


寝るのは、娘の両側で、二人ずつ。手をつないだまま寝て、半刻で替わる。残りは起きて、尾根を見る。

ノラは寝なかった。

(十日のうち、一日が消えたわ)

右手が、まだ老兵の手の形を覚えていた。


老兵も、寝なかった。岩の端から、尾根の向こうを見ている。

「伍長」

尾根から目を離さずに、老兵が言った。

「補給所の見張りは、火に当たっとる。わしなら、火に当たらん」

「なぜ」

「火を見た目は、闇を見られん。猟兵は、火に背を向けて立つ」

(……猟兵は?)

老兵は、自分で言ったことに気づいていない顔だった。

「見張りが火を見ていれば」

「向こうからは、こっちが見えん。こっちからは、向こうが見える」

ノラは頷いた。老兵は、尾根に目を戻した。

(聞かないわ。戻ってから。……戻れたら)

「崖の下は、谷だ」

聞く前に、老兵が言った。「春まで、誰も拾わん」


         *


夕方。風が、弱まった。

娘が立って、尾根を見た。

「向こうの雲、降りてくる。登ってるあいだは、雪」

「見えなくなるか」

「背中だけ、見てて」

尾根に戻る。鎖。同じ順。娘が先頭。

手。老兵の手。今度は、十歩で、届いた。

(なぜ早い。……あとだ)

夜。雪が、横から来る。

前が見えない。娘の背中だけ。

一歩。


雪が、切れた。

老兵の手が、止まった。

列が、止まる。

老兵が、顔を上げている。遠く。右。斜め下。

「火だ」

老兵の声。

「火が、三つ。小屋が、二つ。大きいのと小さいの」

目を凝らす。黒。黒。黒の中に、赤い点。老兵には三つ。ノラには、一つ。

「距離」

「歩いて、半刻。下り」

補給所。

「人は」

「火のまわりに、四人。立っとるのが二人、座っとるのが二人。交代組だ。小屋の中は、わからん」


外に四人なら、中は、その倍か、三倍。

七人で。

膝。震えている。暗い。誰にも見えない。

(数えろ)

距離、半刻。下り。雪。火は向こうにある。向こうからこっちは、見えない。こっちから向こうは、見える。

火に当たる見張り。猟兵ではない。

(グスタフが見える。グスタフを、先に)


「鎖のまま、下る。ヘルガ、グスタフの後ろにつけ。グスタフが先頭」

列が、組み直る。老兵の手が、娘の手に。娘の手が、ノラの手に。

娘の手が、冷たくない。

娘まで、一人。


下る。

老兵が、鳴らない雪を選ぶ。娘が、その足跡を踏む。七人が、同じ足跡を踏む。

一歩。一歩。

火が、消えない。向こうは、まだ知らない。

火が、近くなる。赤い点が、三つになる。小屋の影。大きい。小さい。

大きいほうの小屋に、扉。扉の前に、箱。積んである。幌。火から、いちばん遠い。

小さいほうに、煙突。煙。守備隊は、小さいほうで寝ている。

小屋の裏から、橇の跡。谷へ、下りている。

人。立っている二人。銃を持っている。顔が、火を向いている。老兵の言うとおりなら、こっちは見えない。


距離、三百。

老兵が、止まった。

「ここからは、伏せて進む」

鎖を解く。手が、離れる。ケーテが、腰の縄を解く。巻く。

冷気が来る。右手。左手。

火皿。凍っている。撃てない。撃たない。火に当たるまで。

伏せる。雪。胸。冷たい。構わない。

尾根の裏の下りは、風が雪を払っている。浅い。跡は、残る。残っても、夜は見えない。

匍匐。腕一本分。また腕一本分。七つの体が、雪の上を進む。

距離、二百。

火。立っている二人の顔。若い。片方が、あくびをした。

距離、百五十。


見張りの、左の男。

肩。右の肩が、下がった。

首が、回る前。肩が、先に動く。右を向く。こっちを向く。

半拍。


「伏せろ」


七つの体が、雪に沈んだ。

見張りが、こっちを見た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。