第五話 峠を越える
中隊本部は、麓の村の、いちばん大きな家だった。
戸口に、荷車の番をしていたあの軍曹が立っていた。分隊の顔ぶれを二度数えた軍曹だ。ノラを見て、後ろのケーテを見て、鼻から息を出した。
「吹き溜まりが何の用だ」
「中隊長に、お取り次ぎを」
(お取り次ぎ!? 兵隊の言葉じゃないわ、舌を噛みたい……!)
「取り次ぎ?」
軍曹は笑わなかった。「伍長が中隊長に直に話すことはない。用があるなら俺が聞く」
「谷の道の件だ」
「第三分隊の命令に、吹き溜まりが口を出すのか」
「出す」
(言った。言ってしまったわ)
外套の下で、背中が汗をかいた。寒いのに。
軍曹は戸口から動かなかった。
ケーテが横から、帳簿を抱えたまま、笑った。
「軍曹どの、靴下の補充の件もあるんです。十三足半しかなくて。半ですよ、半」
「知らん」
戸の中から、声がした。
「白パンの伍長か。入れろ」
軍曹が、戸口を半分空けた。
「クラウゼ中隊長がお呼びだ。短くしろ」
*
中隊長は、若くなかった。
髪に白いものが混じり、机の上に地図を広げ、その上に懐中時計を置いていた。クラウゼ中隊長。名前は、着任の日に書類で読んだだけだ。
ノラを見る目は、軍曹と同じだった。吹き溜まりに来た、変な女。
「斥候に白パンを食わせている、と書いてきた伍長だな。それで、谷の道がどうした」
「第三分隊は、谷では着く前に数えられます」
「数えられる?」
「敵の尾根から、三日のあいだ丸見えです。補給所の見張りは、何人来るか数えてから迎えます」
「知っている」
中隊長は、地図の谷を、指の背で叩いた。
「だから雪が締まるのを待つ。十日もすれば、三日が二日になる。第三分隊には上の札が二人いる。数えられてから殴り合っても、勝てる」
(殴り合って、勝てる。札が二枚あれば。……ほんとうに?)
言い返す言葉を探した。見つかる前に、口が動いた。
「うちが、峠を越えます。夜に。第三分隊には、谷の口の見張りを」
中隊長の口の端が、片方だけ動いた。
「下札の分隊で、冬の峠を、夜に越える。正気か」
「正気です」
「峠は冬は閉じる。誰も通らん。通れん」
「通れます」
(根拠なんて、一度見ただけよ……!)
根拠を言え、と中隊長の顔が言っている。言えない。言えば、寒村の娘が凍えないから、と言うことになる。
沈黙が、長い。時計の音が、机の上で数えている。
「補給所は、何人だ」
「わかりません」
「わからずに行くのか」
「斥候にまで白パンを食わせる所ですよ」
ケーテが、横から言った。中隊長が、初めてケーテを見た。
「少なくはないでしょ。でも、こっちが数えられる前に着けるなら、向こうは数えてない」
「食糧は」
「三日分。一人一日、黒パン二つと塩漬け肉ひと切れ。七人で、パン四十二、肉二十一切れ。いまの蓄えで足ります。峠は尾根伝いで一日半、往復三日。戻りは、奪った物でも食えます。奪えなければ、帰りは食えません」
「昼は」
ノラが答えた。
「尾根の裏で伏せます。火は焚きません。水は、雪を口で溶かします」
「数えたのか」
「帳簿が仕事なんで」
ケーテは帳簿を開いて、中隊長の机の端に、数字の列を向けた。
「それと、うちの分隊は、靴と靴下が揃ってます。十三足半ですけど。自慢できるのは、それだけでーす」
中隊長は、ケーテの帳簿を見なかった。ノラの顔を見ていた。
ノラも、中隊長の顔を見ていた。
口の端は、笑っていない。目尻が、わずかに緩んだ。損をしない人の目尻だ。夜会で何度も見た。
吹き溜まりが峠で全滅しても、中隊は七人を失うだけ。
(怒る? ……怒れないわ。自分で持ち込んだ賭けだもの)
「十日だ」
中隊長が言った。
「第三分隊の出発は十日後。それまでに補給所が落ちなければ、予定どおり谷を行かせる。おまえたちが戻らなくても、だ」
「落ちたことは、どう」
「火薬庫を焼け。峠の向こうの煙は、ここからでも見える。煙が上がらなければ、落ちていない」
「はい」
「谷の口の見張りと、おまえたちの尾根は、第三分隊に替える。行け」
時計を、閉じた。話は終わりだった。
戸口を出るとき、軍曹がノラの背中に言った。
「靴下は出ん。縄なら出る。要るか」
「一本」
軍曹は、戸口の内側から縄を一巻き取って、ケーテに放った。ケーテは受け取ってから、軍曹の背中に舌を出した。
*
納屋で、ノラは分隊を火鉢のまわりに集めた。
(順番に。目的、賭け金、作戦。お父様の本の順よ)
「峠の向こうの補給所を叩く。春まで、敵がこちらに来なくなる」
誰も何も言わない。
「失敗すれば、分隊は雪の中で終わる。中隊は、第三分隊を谷の道から行かせる」
「それ、賭け金ってやつですか」
ケーテが言った。「後のほうは、うちらには関係ないでしょ」
「関係ある」
(雪の中で終わる分隊が、もう一つ増えるのよ。私が始めた戦争の中で)
言えなかった。言えば、別のものが漏れる。
「作戦。今夜、峠を越える。尾根伝いに一日半。昼は尾根の裏で伏せる。火は焚かない。一列で歩く。先頭はヘルガ」
分隊が、娘を見た。娘が、自分を指した。
「あたし?」
「おまえだ」
「なんで」
「先頭が、いちばん寒い」
(先頭がいちばん寒いの。だから、あの子なのよ)
老兵が、火鉢の向こうから言った。
「峠では撃つな。火皿が凍って、火花が落ちん。撃つなら、補給所の火に当たってからだ」
大男が鼻を鳴らした。
「下札の荷運びを先頭に立てて、吹雪で道を見失ったら誰のせいだ」
「私のせいだ」
大男は、自分の縄の端を見ていた。
*
昼のあいだ、ノラは火鉢の隅で紙を噛んだ。三。五。八。数えていくと、百を越えたあたりで、指が数より先に動いた。
夕方、荷を縛った。
火薬、弾、パン、塩漬け肉、縄、予備の火打ち石、短刀。ケーテが読み上げ、一人ずつ背負う。
「ベルントの銃。革、替えた?」
「替えた。お嬢の革だ」
大男が撃鉄を起こして、空で引いた。かちり。火花が、皿に一つ落ちた。ケーテが、帳簿に印をつけた。
大男が、自分の荷を一度で縛った。縄を回して、力で締めて、背負った。縄が肩の一か所に食い込んで、外套の生地が、そこだけ皺になった。
「ベルント」
ケーテが言った。「その縛り方、こないだ坂で、お嬢が直して見せてたやつでしょ」
「見てねえ」
「見てたじゃん。あんた、あのあと肩揉んでた」
大男は、縄を解かなかった。背負い直しただけだった。
(あの肩で、一日半。崖で、滑るわ)
ノラは、軍曹の縄を解いて、二つに切った。一つを自分の荷に、一つをケーテの荷に縛りつけた。大男が、それを見ていた。
老兵が、背嚢から、あの細い銃を出した。
油を含ませた布を巻き直す。布の端から、銃床の印が一瞬のぞいた。王軍の、猟兵の印。老兵は布でそれを隠し、納屋の梁の上に、押し込んだ。
「置いていくのか」
「峠では込められん。指が利かん。普通の銃で足りる」
老兵は、いつもの銃を担いだ。黄色くなった指は、もう赤かった。
少年が、予備の火薬の袋を、外套の中に入れた。胸の、いちばん奥に。
「濡らすなよ」とケーテが言った。
「濡らさない。おれが、いちばん温かい」
火鉢からいちばん遠い場所に座ったまま、少年は言った。誰も、鍛冶屋の倅のくせに、とは言わなかった。
若い兵が、自分の荷の紐を、二度結び直した。着任の日に、腰掛けを蹴った兵だ。すねの青は、まだ消えていない。ノラの目の前で結び直して、ノラを見なかった。
(名前を、まだ呼んでいないわ。帳簿には、あるのに)
*
出発の前に、ケーテが帳簿を閉じた。
閉じた帳簿を、梁の上に伸ばした手で置く。老兵の細い銃の、隣だった。
帳簿のないケーテを、ノラは初めて見た。
「お嬢」
「何だ」
「死んだら恨みますからね」
分隊に聞こえる声だった。
(恨まれるのは、慣れておりますわ)
声には出なかった。出なくて、よかった。
「死なない」
ケーテは、頷きも笑いもせず、自分の荷を背負った。
*
峠の入口は、月のない夜だった。
尾根の線が、空より少し白い。その線の上を、風が、こちらへ向かって吹いている。
娘が、尾根を見上げて言った。
「風は、こっちから。登るなら、右の肩から」
村で、冬に尾根を回っていた娘の言い方だった。
縄で結ぶ。普通は、そうする。縄なら両手が空く。
(でも、縄で渡るところは見ていないわ。手でしか、見ていないの)
ノラは、娘の手を取った。
手袋を外させた。素手の指は、やはり赤くない。
その手を、少年の手に握らせた。少年の反対の手を、ケーテの手に。ケーテの反対を、大男に。大男の後ろに、若い兵。その後ろに、老兵。老兵の手を、最後に、自分の手に。
七人。一列。
(端まで届くかしら。届かないなら、いちばん遠い私が、最初に知るわ)
「なにこれ」
ケーテが、暗がりで言った。
「手ぇつないで峠越えるんですか? お祭りの行列?」
少年の手が、娘の手の中で、握り直した。大男の息が、暗がりで白かった。
ノラは、列の最後から、先頭の娘の背中を見た。
風が、尾根の線を越えてきた。
「鎖になれ」




