第四話 手をつないでいた二人
隣の分隊で、指が落ちた。
伝えに来た中隊の伝令は、本数は言わなかった。聞ける顔でもなかった。
火鉢に手をかざす者が、一人増えた。
「靴下、数え直しまーす」
ケーテが帳簿を開いた。
「一人二足のはずなんで、十四。いま履いてるのも脱いで見せて。穴は穴で数えますよ」
兵たちが靴を脱いだ。藁と、足のにおいが、火鉢の熱で立った。
ノラも脱いだ。自分の靴下には、穴が一つもなかった。
(……穴がないのが、恥ずかしいなんて)
「お嬢だけきれい」
「替えを履いていない」
「はいはい。十三足半。半は、かかとが丸ごとない奴」
大男が、自分のかかとを見た。見てから、靴下を脱いだまま火鉢に足を向けた。
老兵は靴を脱がなかった。ケーテが「爺さん」と言うと、「穴はない」とだけ答えた。
「夜番を変える」
ノラは言った。分隊の顔が、全部こちらを向いた。
(見ないの。見たら、声が裏返るわ)
「一晩を六つに割る。一つが半刻。二人ずつ、尾根側と道側」
「いままでの倍、起こされるってこと?」
「一度に外にいるのは、半刻だけだ」
ケーテは鉛筆を動かして、割った。「まあ、指よりはね」
老兵だけが、尾根側の初番を自分で取った。あの夜から、毎晩そうしている。ノラは、その名を尾根側の初番に読み上げた。
*
荷運びの道は、朝のうちに凍る。滑る坂を、分隊のいちばん後ろで、娘が一人で薪を担いで上っていた。
寒村の娘だ。名前をヘルガという。
札は《耐寒》。荷運びの名簿に名前が載って、それきりの娘だった。
坂の途中で、大男が束を一つ落とした。拾おうとしてかがんだ大男の横を、娘は束を担いだまま、足も止めずに抜いていった。手袋をしていない。
素手で、縄を握っている。指が赤くない。
ノラは自分の手袋を見た。二重に巻いた布の中で、指は冷たい。
(……どうして、あの指は赤くならないの?)
坂の上で、娘が谷を見下ろして言った。
「谷は、もう胸まで来てる」
「雪が?」
「うちの村、谷の口にあったから。冬は谷を通らない。尾根を回る」
言って、娘は束を担ぎ直した。ノラは、谷の白さを、もう一度見た。
納屋に戻ると、少年が火鉢の炭を足していた。
長い火箸の先で、炭を一つ、遠くから落とす。腕を伸ばしきって、顔を背けて。炭が火に落ちて、火の粉が一つ跳ねると、少年は一歩下がった。
「鍛冶屋の倅のくせに」
大男が言った。いつもの文句らしく、誰も笑わなかった。少年も怒らなかった。
「火は嫌いなんだよ」
「エミール、それ毎日言ってる」とケーテが言った。
少年の名前はエミールという。札は《灯火》。火が嫌いな《灯火》だ。鍛冶場で何があったのかは、分隊の誰も知らないふりをしていた。
ノラは、火箸を持つ少年の手を見ていた。
火から、いちばん遠い手だ。それなのに、炭の落ちる場所は外さない。
夜、ノラは火鉢の隅で、紙を噛んだ。
三。五。八。三。五。八。
五で、また紙が破れた。四十回で、指が言うことを聞かなくなった。
(百には、まだ遠いわね……)
*
夜番の最後の番は、娘と少年だった。道側に二人。
朝、二人が戻ってきた。尾根側で老兵と組んだ若い兵は、毛布を頭からかぶったまま、火鉢の前に崩れた。歯の音が、納屋の端まで聞こえた。
娘と少年は、戸口に立ったまま、手を離さなかった。
つないだ手を、二人とも見ていなかった。頬の色が、ふつうだった。
「おい」
ケーテが、帳簿から顔を上げた。
「なにそれ。半刻ずーっと握ってたの?」
「寒いから」
娘が言った。言ってから、手を見て、離した。
少年は耳まで赤くなった。火の粉より赤い。
(は、半刻も、手を……!? 見ていませんわ、私は何も)
「寒いからで手ぇつなぐなら、あたしとも」
「ケーテは手が冷たい」
「冷たくて悪かったな!」
分隊が笑った。久しぶりの笑いで、若い兵の歯の音が、笑いの下に隠れた。
ノラは笑わなかった。笑う前に、見えていた。
手が離れた、その瞬間。
少年の頬から、色が引いた。戸口の冷気に当たって、鼻の頭が白くなり始めた。半刻、外にいた顔に、いまなった。
娘は、何も変わらない。
(つないでいるあいだだけ……? あの子は、ヘルガの寒さの中にいたの?)
頬の色くらい、火鉢の明かりでも変わる。
けれど、順番がちがう。外から戻ったばかりなら、戸口でいちばん白いはずだ。少年は、手を離してから白くなった。
*
老兵が、最後に戻ってきた。初番の半刻のあと、もう一度、自分で立ったらしい。
銃を壁に立て、手袋を外す。指を使わずに、歯で引き抜いた。
出てきた指が、黄色かった。蝋の色だ。親指と人差し指の、先の一節。
ノラは立った。腰掛けが倒れた。
「グスタフ。お手を」
火鉢が、しんとした。
「手だ。出せ。火に近づくな」
老兵が、こちらを見た。それから自分の指を見た。見て、顔色が変わった。感覚がないから、気づいていなかったのだ。
ケーテが帳簿を放って立った。
「湯。誰か、湯!」
「湯は沸かせ。使うかは、あとで言う」
(言えた。……続けて)
「ヘルガ。グスタフの手を握れ。両手で。火から離れたところで」
「あたしが?」
娘は、自分の胸を指した。
「おまえが。早く」
娘は老兵の前にしゃがみ、蝋の色の指を両手で包んだ。
少年が火箸を置いて、娘の隣にしゃがんだ。
「……おれも、手、貸す」
娘の肘に、少年の手が添えられた。誰も、からかわなかった。
長い。火鉢の炭が一つ崩れるあいだ。ケーテが、沸きかけた鍋を持ったまま、ノラと老兵の指とを見比べていた。
「……来た」
老兵が、低く言った。
「指が、痛い」
娘の手の中で、蝋の色が、節のところから赤へ戻っていく。戻った赤が、指先へ降りる。老兵は顔をしかめた。肩が、一度すくんだ。
「温めただけでしょ」
大男が言った。「火鉢のほうが早い」
「火鉢に近づけたら、皮が剥ける」
半分だけ、言った。残りは、ノラ自身もまだ信じていない。
娘は、老兵の指を包んだまま、ノラを見上げていた。
自分が何をしたのか、わかっていない顔だった。
ノラは、娘の顔を見て、それから少年の顔を見た。少年の鼻の頭は、もう白くなかった。娘の肘に手を添えた、それだけで。
(寒さに強いだけじゃないわ。触れているあいだ、相手まで寒くないのよ。……この子は、それを知らない)
口から出たのは、これだけだった。
「今夜も、同じ組で立て。ヘルガとエミール。手は、つないでいい」
少年が、また耳まで赤くなった。
ケーテが、放り出した帳簿を拾った。
(来るわ。年寄りに、とか、冷たっ、とか)
ケーテは鉛筆を取って、言った。
「……了解」
帳簿に、何か書いた。
書いた顔が、笑っていなかった。
*
ケーテが、ノラの隣に来て火鉢の炭を直した。
直す必要のない炭だった。
「お嬢」
「何だ」
「爺さんの手、なんで火に近づけちゃだめなんですか」
「凍った指を急に温めると、中が先に溶けない。皮だけ溶けて、剥ける」
「誰に聞いたんです?」
(侍医に、なんて言えないわ!)
「本で読んだ」
「本」
ケーテは、炭をもう一つ直した。
「本、読むんですねぇ。そんな本、どこに売ってんだろ」
ノラは答えなかった。ケーテは、三つ目の炭を直した。
*
夕方、中隊の伝令がまた来た。今度はノラだけを戸口へ呼んだ。
尾根の斥候を追い払った朝の報告は、中隊に届いていた。敵の斥候三人、荷一つ、白パン。伝令は「それで」と言って、本題に入った。
「春までに、峠の向こうの補給所を叩く。中隊長の命令だ。行くのは第三分隊」
「うちは」
「谷の口で、第三分隊が出たあとの道を見張れ。三日。それだけだ」
伝令は、口で言った。紙はない。言い終えると帰っていった。
「第三分隊って、上の札が二人いるとこでしょ」
ケーテが、戸口の後ろで言った。「隣の隣。指が落ちた分隊の、向こう側」
「谷の道を行くのか」
「谷しか道がないもん」
ノラは、自分の手帳を開いた。
着任の日に、中隊の地図を写し取った一枚がある。線は細く、書き込みは少ない。
谷の道は、川に沿って峠の裏へ回る。一本道で、両側が開けている。徒歩で三日。三日、敵の尾根から丸見えで、胸までの雪を歩く。
(あの道では、着く前に、補給所の見張りに数えられてしまうわ。上の札が二人いても)
場所の知れた納屋も、谷を行く分隊も、春まで持たない。
(中隊長に? 顔も知らない人よ。吹き溜まりの伍長が、よその分隊の命令に口を出すなんて)
ノラは手帳から目を離さなかった。
谷の道の上に、もう一本、道でない線がある。尾根を直に越える、雪の峠。写したとき、何の線か中隊の書記に聞いたら、「冬は誰も通らん」とだけ言われた線だ。
村の娘は、冬は尾根を回ると言った。
夜番の交代の時刻が来た。
娘と少年が、戸口で、今度は自分たちから手をつないだ。
ノラは、手帳の細い線の上に、指を置いた。




