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第三話 尾根の二つ

二つは、しばらく動かなかった。

夜半を過ぎても、尾根の上にあった。


老兵は目を離さない。ノラは撃鉄に手をかけたまま、老兵の横顔を見ていた。

「……下りてくるぞ」

老兵が低く言った。

「三人だ。二人が先、一人があと。あとの一人が、大きな荷を担いどる」

「二つ、と言ったはずだ」

「奥の一つが、二つに割れた。斥候の並びだ」


ノラには、白い線しか見えない。

(信じるの? 何も見えないのに? ……信じないなら、何のために立たせたのよ)

「分隊を起こす」

「伍長」

老兵が、初めてこちらを見た。

「向こうは三人、こっちは七人だ。夜に荷を担いで山を下りる連中なんぞ、放っておいても通り過ぎる」

「通り過ぎたら、この納屋の場所を持って帰られる。逃がさない」


納屋に駆け戻って、毛布を片端から剥いだ。

「起きろ。敵だ。尾根を下りてくる」

「はァ……?」

一番に跳ね起きたケーテが、乱れた髪のまま噛みついた。

「爺さんの見間違いで、全員叩き起こしたんですか? 爺さんは目が――」

「三人だ。荷を担いでいる。早く立て」

ケーテは、三つ数えるあいだノラの目を見て、舌打ちまじりに毛布を蹴飛ばした。

「弾、配ります! 一人五発。撃ち尽くしても泣き言なしですよ!」

袋の紐を解く手は、文句より速かった。


         *


尾根から納屋までの道は、一本しかない。雪が深くて、道を外れては歩けない。

道は納屋の手前で、大きく曲がる。曲がり角の内側に、人の背丈ほどの薪の山がある。

「薪の裏に伏せる。込めておけ。合図まで、撃つな」

「なんで薪の裏なんです?」

弾を配りながら、ケーテが聞いた。

「道が曲がる。曲がった先は、向こうから見えない。こちらからは、下りてくる斜面が全部見える」

「……最初からそう言やあいいんだよ」

大男が、銃を構えながらぼそりと言った。

老兵は、背嚢の細い銃ではなく、分隊の銃を取っていた。


七人で雪の中に伏せた。込め終えた銃の皿を、手で覆う。

隣で伏せた若い兵のすねに、ノラの布が巻いてあった。

東の空が、白みはじめていた。

(来ない……? やっぱり、見間違いだったら……)

老兵を見る。老兵は斜面の上を見ている。まばたきを、していない。


薪の山から、雪がひと塊、落ちた。


斜面。

人。二つ。あとから、もう一つ。荷。

距離、百二十歩。まだ遠い。

百。八十。

先頭の男の右足が、外を向いている。体が、右に傾いている。撃たれたら、右の窪地へ跳ぶ足だ。

五十。

(右。言え。いま)

口を開けた。息だけが出た。

引き金の指も、動かない。


「右へ跳ぶぞ!」

老兵の声だった。

「撃て!」


銃声が重なった。白い煙で、斜面が消える。

七挺のうち、撃てたのは五挺。ノラは撃たなかった。大男の銃は、また火が出なかった。

煙の向こうで、誰かが叫んだ。

荷が、雪に落ちる音。

足音が遠ざかる。右へ。道を外れる。谷側の斜面を、雪ごと落ちていく。


老兵は、もう二発目を込め終えていた。構える。撃たない。

「追うな。あの斜面を深追いすりゃ、こっちが足を滑らせて死ぬ」


煙が晴れた。

道の上に、大きな革袋が一つ。

雪に、赤い点が三つ。


         *


(……声が、出なかったわ。全部、見えていたのに)

ノラの指は、まだ引き金の手前で固まっていた。


「爺さぁぁん!」

ケーテが、老兵の背中をばしばし叩いた。

「見えてんじゃん! 何が『目が衰えた』ですか、大嘘つき!」

「……近くは見えんと言うた」

「遠くが見えりゃ十分すぎますー! ずるいずるい!」

少年が、落ちた革袋を引きずってきた。大男が、照れくさそうに老兵の肩をつかんで、すぐ離した。

分隊が、老兵を囲んでいた。


ノラは、その輪の外にいた。

膝がまだ震えている。見せられない。銃を杖にして立つわけにもいかない。


「……伍長」

ケーテが振り返った。笑いが、引っ込んだ。

「知ってたんですか? 爺さんの目、遠くなら見えるって」

「近くが見えないだけだ。遠くは見えるかもしれない、と思った」

「だったら最初から言ってくださいよぉ。あたし、本気で爺さん凍え死ぬと思ったんですからね」

「確かめる前に言うのは、無責任だ」

「うわ、冷たっ!」


分隊の何人かが笑った。老兵を囲んだままで。

「ま、終わりよけりゃ、ですけどね!」

ケーテが笑いながら、ノラの背中へ手を伸ばした。老兵にしたのと同じ、背中を叩く手だ。

肘が先に動くのが見えた。

半歩、引く。手は空を叩いた。


「――お、おやめになってっ!」


ケーテの手が宙で止まり、口の端が、にやりと上がった。

「……出た」

ケーテが、ノラに指を突きつけた。

「また半歩。それと、出ましたよ、お嬢。敵が来たときの号令より先に、そっちが出ちゃうんですか?」


号令より、先に。

言い返せなかった。

大男が腹を抱え、少年が雪の上を転げた。ノラは顔を伏せたまま、敵の落とした革袋のほうへ歩いた。


袋を解く。

きめの細かい、白いパン。上等な塩。火薬が、少し。

「……白パンだ」

少年が、息をのんだ。

「向こうの王軍は、斥候にまで、白パン食わせてんのかよ」

誰も答えなかった。少年は白パンを一つ、懐に入れた。ノラは、見なかったことにした。


         *


片づけの途中で、老兵が薪を一本抱えて、ノラの横を通った。

分隊には聞こえない距離で、足を止める。

「……伍長」

「何だ」

「わしが叫ぶより前に、あんたの口が動いとったな」


(見られていた……!)

あの、声の出なかった口を。

「『右だ』と、言おうとしたんだろう」

喉が、また詰まった。老兵は待った。薪を抱えたまま、尾根を見るときと同じ顔で。

「……そうだ」

「なら、次は腹から声を出せ。わしは、いつまでもおらん」


老兵は薪を抱えて、納屋へ歩いていった。

(いつまでも、いない……)

ノラは、薪の山の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


朝のうちに、中隊への報告を書いた。

尾根より敵斥候三。撃退。荷一つ(白パン、塩、火薬少々)を得る。こちらの損害なし。三人とも谷へ逃れる。この納屋の場所は、敵に知れたものとする。

(逃がさない、と言ったのに)

昨日の紙には、異状なし、と書いた。同じ尾根だ。

ケーテが横から読み上げた。少年は、火鉢のそばで乾かしている自分の脚絆に、目を落とした。


         *


その夜、分隊は、袋の塩で、いつもより濃い汁を作った。

老兵の椀に、少年が肉の切れ端を多めによそった。老兵は文句も礼も言わずに食べた。

ノラの椀にも、同じだけ入っていた。よそったのは、ケーテだった。

「爺さんの目と、伍長の薪の山。半分ずつです。……半分だけですからね」

「……あ、ありがとう」

今度は、小さく言えた。


火鉢の向こうで、大男が、火打ち石の革を爪でいじっていた。削っただけで、替えていない。

(……着任した日に、私が替えさせていれば)

ノラは荷の底から革を一枚切って、大男の膝に置いた。大男は革を見て、ノラを見て、黙って挟み金を外し始めた。


火鉢の隅で、ノラは自分の銃を膝に置いた。

(次は、声を出すの。私の始めた戦で、この人たちを死なせたりしないわ)

点呼で数えたときは、七つだった。七つでは、どこで遅れたかがわからない。もっと細かく割る。


噛む、一。皿を開ける、二。盛る、三。皿を閉じる、四。

注ぐ、五。玉、六。紙を押し込む、七。棒を抜く、八。

突く、九。棒を戻す、十。撃鉄、十一。構える、十二。


(十二。……遅れたのは、三で指が震えたとき。五で紙が裂けたとき。八で棒が抜けなかったとき)

(三と、五と、八。ほかは、そんなに遅くないわ。……この三つを、百回)


かちり。かちり。

空の銃を操るノラを、火鉢の向こうからケーテが見ていた。

目が合うと、ケーテはにやっと笑って、帳簿に何か書きつけた。

(どうぞ、お書きなさい。『冷たい伍長が、夜中に一人で銃遊び』でも、何とでも!)

ノラは顎を引き、また、一から数えた。


火鉢の向こうで、老兵が、あの細い銃を布で拭いていた。

油を含ませた布が、銃床をなでる。磨かれた木に、火鉢の明かりが映る。

銃床の、頬を当てるあたりに、印が一つ刻んであった。

王軍の、猟兵の連隊の、古い印だった。

老兵の手が、止まった。こちらを見ないまま、布で印を覆った。

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