第二話 衰えた目
「お嬢、朝ですよー。水、カッチコチに凍ってます」
ケーテの声で目を開けたときには、もう納屋じゅうがそう呼んでいた。
「お嬢、靴」
少年までがそう言って、火鉢の灰のそばで乾かした軍靴を投げてよこした。
(伍長と呼びなさい、伍長と……!)
きっぱり言い渡すはずだった。口から出たのは、
「……あ、ありがとう」
だった。
(お礼を言ってどうするのよ、私……!)
腹立ちを全部、靴紐にぶつけた。固く結びすぎて、あとで解くのに爪を痛めた。
外は雪がやんでいた。尾根の上だけが、朝日で白く光っている。
点呼のあと、ノラは分隊を見回した。
「尾根の向こうへ、斥候を一人出す。中隊から、毎朝、敵の動きを知らせろと言われている」
「爺さんが行きゃいいじゃん」
少年があっけらかんと言った。
「だって爺さんの札、《遠見》だろ?」
火鉢の前で背中を丸めていた白髪の老兵が、首を横に振った。
「……目が衰えた。もう、遠くは見えんよ」
分隊の誰も驚かなかった。決まりきった答えらしい。
「グスタフの爺さんは、もう札が上がらない『出涸らし』なんですよ」
ケーテが肩をすくめて、ノラに耳打ちした。
「《遠見》のくせに目が悪いって、笑えるでしょ。教会の札なんて、しょせんそんなもんです」
老兵は返事のかわりに弾薬袋の口を開け、中の数を確かめ始めた。
ノラは、その手元を見ていた。
袋の紐に結んだ木札に、数が書いてある。それを読むとき、老兵は袋を腕いっぱいに遠ざけ、目を細めた。
近くが見えない目だ。
袋から顔を上げた瞬間、老兵の目は尾根へ行った。
尾根の上を、鳥が二羽、横切っていく。黒い点が二つ。老兵の目は、その点を右から左まで、まばたきもせずに追いきった。
(近くは、見えない。……でも、遠くは? 衰えた目は、あんなふうに動かないわ)
斥候には、結局、少年が出た。
昼前に戻ってきた少年は、息を切らせて言った。
「何もなし!」
脚絆が、膝までしか濡れていなかった。尾根の向こうまで行けば、腰まで濡れる。
(行っていないわ。……でも、言えばこの子は、みんなの前で嘘つきになる)
「わかった。ご苦労」
中隊への報告は、ノラが書く。異状なし。そう書いて、しばらく紙を見ていた。
少年の嘘が、自分の字になった。折って、伝令の袋に入れた。
*
昼は荷運びだった。
中隊の荷車が麓の村まで来ている。薪と黒パンと弾薬を、分隊総出で山腹の納屋まで担ぎ上げる。往復で半日。
荷車の番をしていた中隊の軍曹は、分隊の顔ぶれを見て、荷の数を二度数えた。
「吹き溜まりに回す分は、これっぽっちだ。途中で落っことしても、追加は出ねえからな」
「はーい、了解でーす!」
ケーテは愛想よく答えて、軍曹が背を向けた瞬間に、べーっと舌を出した。分隊の何人かが忍び笑いをした。
ノラは笑えなかった。軍曹は、ノラを一度見た。吹き溜まりに場違いな置物が来た、という目だった。
老兵が、背嚢を雪の上に下ろして、薪を背負い直していた。背嚢の口が、少し開いている。
中に、銃が一挺ある。
分隊の銃より細い。短い。銃身に、油を含ませた布が丁寧に巻いてある。
(……分隊のものと、作りがちがうわ)
老兵がこちらの目に気づき、背嚢の紐をきゅっと結び直した。結び終えても、目はこちらから動かなかった。ノラは目を伏せた。
凍った坂で、大男が薪の束を三つ、一度に担いでいた。
縄が肩に食い込んで、首筋の血管が浮いている。あの縛り方では、肩の一か所に全部かかる。
(昨日も銃のことで口を出したばかりよ。今日もだなんて、口うるさい伍長だと思われるわ)
ノラは自分の束を下ろし、縄を解いて、結び直した。肩に当たる輪を広く、二重に。
結び直した束を担いで、大男の前を、すたすたと追い抜いた。
(……気づいてくれるといいのだけれど)
坂の途中で、ケーテが息を弾ませながら、隣を歩く寒村の娘に話しかけた。
「ねえ、隣の中隊、また補充が来ないんだってさ。王都の貴族どもが、兵を出し渋ってるらしいよ」
「出し渋るっていうか……」
娘が、消えそうな声で返した。
「みんな、こんな寒いとこ来たくないんでしょ。内戦なんだから」
「そりゃそうよねぇ。元はといえば、ゾンネタールの娘がさ」
ケーテは束を担ぎ直して、吐き捨てた。
「あの我儘娘のせいで、うちの兄さんは……最初の戦いで、無駄死にさせられたんだからさ」
束が、肩から滑った。
膝で受け止める。薪が二本、雪の上を転がった。
「ま、まあ……っ」
声が出た。
「お嬢? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。なんでもない」
ゾンネタールの娘。辺境の兵は、公爵令嬢をそう呼ぶ。王都では、誰もそう呼ばなかった。
(私のせいで。……この子の、お兄様が)
手袋の中で、指が冷たくなっていく。
ケーテは雪に落ちた薪を拾って、ノラの束にぐいと差し込んだ。
「落っことしても追加は出ないって、軍曹が言ってましたよ」
兄の話は、そこで終わった。
納屋に戻ると、大男は薪を下ろし、右の肩を長いこと揉んでいた。
揉みながら、ノラの背負い縄の結び目を、ちらりと見た。
*
火鉢のまわりに分隊が戻ると、ノラは夜番の割り当てを読み上げた。
「今夜から、尾根側の見張りには、グスタフが立て」
納屋が、昨日と同じ静かさになった。
「……伍長」
ケーテが、帳簿の上で鉛筆を止めた。
「この寒さで、年寄りに夜番を押しつける気ですか? 死にますよ」
「命令だ」
「爺さんは目が悪いんです! 立たせたって見張りの意味がないでしょうが」
「立たせる」
(違うの、遠くは見えるかもしれないの……!)
「……ひでえな」
少年が吐き捨て、大男が鼻を鳴らした。
老兵は火鉢の前で、古い布を折りたたんでいた。こちらを見ない。
ケーテは笑顔のまま、帳簿にがりがりと書きつけた。
「わかりましたー。夜番、グスタフ。新任伍長の命令、と。……爺さんが凍えたら、それも書きますからね。日付つきで」
ノラは頷いた。
鉛筆の音が、がりがりと続いた。
*
見張り台といっても、納屋の裏に積んだ薪の上に板を渡しただけの吹きさらしだ。
老兵は文句ひとつ言わずにそこに立った。ノラも外套の襟を立てて、その隣に立った。
「……伍長が立つことはなかろうに」
「確かめたいことがある」
老兵は、それ以上聞かなかった。
(聞かれないって、こんなに楽なのね)
月はない。雪明かりだけで、尾根の線が、空より少し白く見える。
足の指の感覚が、親指から一本ずつ消えていく。奥歯が鳴る。止めようとして、止まらない。
昼間の、兄さん、という声が、まだ耳に残っている。蜂起の最初の戦いで、辺境の兵が大勢死んだ。王都では、数だけを聞いた。
その一人が、ケーテの兄だった。
老兵は動かなかった。
寒くないはずがない。それでも、尾根から目を離さないために、体のほうを止めている。
ノラも足踏みを止めてみた。百も数えないうちに、また足が動いた。
(あの立ち方。扉を守っていた近衛の古株たちと、同じだわ)
半刻が過ぎた。
ノラの目には、尾根は尾根のままだった。白い線。その上の黒い空。
(私の思い違いだったら? ただの当てずっぽうで、この人を凍えさせているだけだったら……)
もう降りましょう、と口を開きかけた。
老兵の首が、わずかに右へ傾いだ。
顔は動かない。目だけが、闇の一点で止まった。
「――伍長」
火鉢の前とは、ちがう声だった。
「あそこだ。二つ、動いた」
ノラは、老兵の視線の先を見た。
白い線。黒い空。
何も、見えなかった。
見えないまま、ノラは、自分の銃の撃鉄に手をかけた。




