第一話 吹き溜まり
断罪は、舞踏の二曲目が終わったあとに始まった。
王太子が壇に上がり、巻いた紙をほどく。楽団が手を止める。公爵令嬢は広間の中央に一人で立たされ、読み上げられる罪状を聞いていた。
穀物の囲い込み。飢饉の年の、領民の餓死。王家への不忠。
(……何を、おっしゃっているの?)
王太子の手は、三つ目の罪状を読み上げる途中で、一度止まった。
紙を持つ指の先が、わずかに浮く。誰かの合図を待つ手だった。待って、来なくて、それから続きを読んだ。
逃げる場所はない。父は王都にいない。
だから、見ていた。
壇の脇に、聖女がいた。白い衣に、白い手。その目が、広間の全員がこちらを向いた瞬間、一度、しばたたいた。
(驚いていらっしゃる。……あの方も、知らなかったの?)
誰も庇わなかった。
扇で口を隠した夫人たち。目を伏せた父の友人たち。半年前まで毎週茶を飲んだ伯爵夫人は、気づかれないほど、席を一つ後ろへ下がった。
壁ぎわに、十五か十六の少女が一人。何か言いたそうに口を開いて、閉じた。髪に挿した白い花だけが、広間でいちばん明るかった。
婚約は破棄された。家名は剥奪された。
王太子は紙を巻き直し、こちらを見ずに言った。「国境へ行け。二度と王都の土を踏むな」
指から外した指輪を、近衛が盆で受け取った。盆の銀が、楽団の蝋燭を映していた。
(こんなときまで、どうして見えてしまうのかしら)
令嬢は背筋を伸ばしたまま、最後まで立っていた。
それしか、教わっていなかった。
*
(寒い……。足が、もう動かないわ)
一年後の冬。辺境。
伍長の階級章を縫いつけた外套の中で、ノラ・ハルトは納屋の戸の前に立っていた。雪は膝まである。戸の隙間から、藁と煙と、湿った毛布のにおいがした。
(落ち着いて。道中で十回は練習したでしょう。短く、低く、絶対に笑わない)
戸を引く。
六人ぶんの目がこちらを向いて、すぐにそれた。誰も立たない。火鉢のまわりで、肩を寄せた兵たちが、また自分の手元に戻る。
一人だけ、帳簿を膝に広げた娘が、にこりと笑った。
「あ、新しい伍長さん? どうぞどうぞ、火のそばへ! 足元、狭いですけど」
笑いながら、娘の目はノラの靴から襟元までを一度でなぞった。値踏みの目だ。夜会で、何百回も見た。
「本日付で、この分隊を預かる。ノラ・ハルト伍長だ」
誰かが鼻を鳴らした。娘は帳簿に何か書きつけて、首をかしげた。
「ケーテです。この隊の帳簿と靴と飯の残りは、ぜーんぶあたしの頭に入ってます。よろしくどうぞ、ハルト伍長」
ケーテは、火鉢のまわりを親指でぐるりと指した。
「見てのとおりの吹き溜まりですよ。全員、下札。ま、伍長もそうでしょ? 上札持ちなら、こんな雪山まで飛ばされてきませんもんね」
下札。
教会は人の召命を見て、名前と等級を札に書いて渡す。その等級の下のほうを、兵隊はこう呼ぶ。
ノラの札には《明眸》と書いてある。美しい目。令嬢向けの、戦場では何の役にも立たない召命。
(見えすぎるのは、札をもらうずっと前からなのに)
よろしく、の一言が、喉で止まった。
ノラは黙って頷き、壁ぎわに立てかけられた銃の列を見た。
六挺。どれも古い。
三挺目。火打ち石が、挟み金の中で斜めに噛んでいる。石を挟む革が古くて、縮んでいる。あれでは火花が皿に落ちない。
(言うの? 着任早々? 嫌われるわ、絶対に。……でも、撃てない銃では峠に出せないもの)
「三挺目。その銃は、撃てない」
納屋が静かになった。
「あァ?」
火鉢の奥から、大男が立ち上がった。梁に頭がつきそうになる。
「新入りが。触りもしねえで、知った口きくんじゃねえ」
「石が斜めに噛んでいる。嘘だと思うなら、空で撃ってみろ」
大男は舌打ちして銃をつかみ、撃鉄を起こした。
引き金。かちり。
乾いた音がしただけで、火花は一つも出なかった。
もう一度。かちり。
大男は銃を見下ろし、それからノラを見た。
(よ、よかった! 合っていたわ!)
分隊の目が、気味の悪いものを見る目に変わった。
大男はどかりと座り直し、親指の爪で、挟み金の革をがりがりと削り始めた。
ノラは、空いた腰掛けに腰を下ろそうとした。
その横で、二十歳に届かない若い兵の、足の筋が動いた。
膝が沈む。つま先が床をつかむ。腰掛けの脚を蹴る気だ。
ノラは腰を落とさず、半歩、引いた。
蹴りは腰掛けだけをさらって壁に当たり、若い兵は勢いあまって、藁の上に横倒しになった。ごつん、と、すねを床板の角に打つ音がした。
誰も笑わなかった。ノラは無表情のまま、転がった腰掛けを起こした。
(い、痛そう……! あれは青くなるわ。この寒さで皮が破れたら……!)
気づいたときには、手を差し伸べていた。
「――お怪我は、ございませんこと?」
火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。
(……し、しまったああっ!)
言った。いま、言った。一年、隠してきた口が。
「伍長」
ケーテが、帳簿をぱたんと閉じた。
「いま、『ございませんこと』って言いました?」
「……言っていない」
「言いましたよねえ? 完全に言いましたよね? どこの深窓のお嬢様ですか、あんた」
「そ、そのようなことは断じて……いや、そんなことはない」
否定するたびに、ぼろが出る。ノラは唇を噛んで黙った。
若い兵の腕を取って立たせ、すぐに手を離す。若い兵は、ノラの顔から目を離さなかった。
*
夕方の点呼で、装填の速さを数えた。
ケーテが帳簿を膝に、声で数を取る。一、二、三。
紙を噛む。皿に盛る。銃口に注ぐ。玉を込める。棒を抜く。突く。撃鉄を起こす。
大男が終わる。十八。老兵が終わる。二十。寒村から来た娘が終わる。二十二。
少年が終わる。二十三。若い兵が終わる。二十六。
ノラの棒は、まだ銃身の下の溝から抜けていなかった。
皿に盛るとき、指が震えて、火薬が一つまみこぼれた。銃口に注ぐとき、紙が裂けて、粉が袖に散った。棒は、溝の途中で引っかかった。
(見えているのに……! どこで遅れているか、全部見えているのに、指が追いつかないの……!)
一年前まで、火打ち箱の蓋を開けるのさえ、侍女の仕事だった。
三十一。三十二。
「はい、伍長がいっちばんビリですね!」
ケーテが明るく言い、誰かが笑った。今度は何人かが笑った。
ノラは棒を戻し、撃鉄を起こし、頷いた。
頬の内側を、噛んでいた。
*
夕食は黒パンと、塩漬け肉の切れ端だった。
兵たちは火鉢の湯にパンを浸して、ふやかしてからかじっている。ノラは知らずに、指でちぎった一片を、音を立てずに噛んだ。
膝の上で、指先の粉を払う。払ってから、誰も粉など払っていないことに気づいた。
(私だけ、お茶会みたい)
ケーテがこちらを見て、目を外して、自分のパンを湯に浸した。手本のつもりなのか、ただの食事なのか、わからなかった。
夜。火鉢の炭が小さくなり、兵たちは毛布にくるまった。
ノラは荷の底から、布を一枚出した。王都を出るとき、持ち物でまともなのはこれしか残らなかった。洗ってたたんだまま、使わずにいた。
転んだ兵は、壁ぎわで寝息を立てていた。毛布から出たすねが、火鉢の明かりで青黒い。
ノラは布をその足元に掛け、そのまま自分の寝床へ戻った。
(お礼なんて、言われなくていいの。話しかけられたら、また何か漏れてしまうもの)
帳簿の上で、ケーテの鉛筆が止まっていた。
ケーテは手を止めたまま、ノラの背中を見ていた。
やがて、帳簿が閉じられた。
「ねえ、みんな」
ケーテの声が、暗い納屋に通った。
「決めた。今日から、この人は『お嬢』ね。異議のある奴は手ぇ挙げてー」
誰も手を挙げなかった。少年が毛布の中でくすくす笑った。
(お、お嬢!? ち、違います、私は伍長です! どうして一日でばれかけているの!)
ノラは毛布を頭からかぶった。
(訂正しなくては。明日の朝いちばんに、きっぱりと!)
火鉢の向こうで、ケーテがあくびをした。
「……でもさ。公爵領のあの我儘なお嬢様が、おとなしく王太子殿下に嫁いでりゃ、こんな内戦、起きなかったのにねぇ」
「……まったくだ」
誰かが答えた。
ノラは壁を向いたまま、動かなかった。
閉じたまぶたの裏に、紙を持つ指が浮かんだ。三つ目の罪状の途中で、一度止まった指。来なかった合図。
毛布の中で、背筋だけが、見えないコルセットに締め上げられたように、まっすぐに伸びていた。




