9、帝都へ
フローラ姫の後ろから一人の若い男が姿を現わした。
「あなた、お客さん」
フローラが振り向いてそう言う。
「どちら様でしょうか?」
案内してくれた農夫はゼロウたちを少し見た後去っていった。ゼロウは軽く頭を下げて礼を言った。
目の前にいるのがアナートン。元ゼリウスの臣下に仕えていた若者だ。年は三十前後に見える。あご髭を生やしているが端正な顔立ちだ。眉目秀麗と言っていいだろう。並んで立つと似合いの若夫婦だ。
「ゼロウと言います。夜分遅くにすみません。コロという小さな町から来ました」
帝都とは関りがないことをとりあえず伝えた方がいいだろう。警戒しているかもしれない。
「まあ、お上がりなさい」
そう言って家に招かれた。ゼロウは遠慮なく上がらせてもらった。
戸口のところで栗の袋をついでにフローラに渡した。フローラはちょうどお湯が沸いたところです、と言った。
リビングのようなところに案内された。木のテーブルと椅子が二つ。ゼロウとアナートンはそこに腰かけた。外からはボロ家に見えたが家の中は小綺麗だった。フローラは炊事場で栗を茹で始めた。
「それで、今日はどのような御用件で?」
アナートンが尋ねる。ここからは慎重にいかなければならない。警戒させずに事情を説明せねば。どこから話し始めるかが大事だ。
「私はゼリウス領とはいえ、ここと同じように外れの方に住んでいます。北の外れです」
「ええ、コロは私も知っています。行ったことはありませんが。よくそんなところから遥々参られた」
アナートンはテーブルに置いた二つのコップの自分の方を取り、その水を飲んで言った。ゼロウが話を続ける。
「この間、帝都にたまたま行く機会があり、町の中を歩きました。そうは言っても大した用事ではありません。すぐ帰ってきましたが。アナートンさんは帝都が今、どのような状況かは御存じですか?」
これは賭けだった。帝都の状況を知っていれば、警戒されるだろう。その元凶たるフローラを匿っていることは負い目になる。そこを突かれれば場に緊張が走る。
「いえ、私はご覧のように辺境で細々と暮らしています故、国のことはとんと疎くて。もしよければどんな状況かお聞かせ願えませんか」
アナートンはフローラがいなくなった後のことを知らない。そしてそれを知りたがっている。皇帝が愛する妹を失って悲嘆に暮れるのは想像に容易いだろう。しかしそれがどれほどの惨状を生んでしまっているかまでは知らない。ゼロウは慎重に言葉を選びながら続けた。
「こんなものを、見たことはありますか?」
そう言って二等国民証をテーブルにおいて差し出した。アナートンがそれを手に取って見る。
「二等国民証。ゼロウ・リオンダルト。何ですかな、これは?」
アナートンは何も知らない。ゼロウはフローラのことは伏せ、ゼリウスが今どのような有様であるか、どのような法が施行され、国民がどのような生活を強いられているか。そして、最後になって、慎重にナスハルトが変わり果てたことを教えた。
「……」
「騎士の中にはクーデターを企むものも現れ始めています。このままではまず、他国との戦争は不可避でしょう」
「あなたはそれを伝えるためにここに参ったのですか?」
アナートンの目が鋭くなる。警戒とは少し違う。元は戦士であったのだろう。死線を潜り抜けた経験のあるものの目つきだ。
「そうです」
ゼロウも同じくアナートンを見据える。
「私の名を知っていた時点で疑うべきでした。ガイゼルの手のものですね?」
「ガイゼル?」
『フローラをさらった重臣の名前だ』
トルテの声が挟まれた。
「違います。ガイゼルという名は初めて聞きました」
「ガイゼルではない? では一体どこから、この私とフローラのことを嗅ぎつけたのです?」
「……」
「皇帝自らの差し金か?」
「違います。もう少し、長話をしても構いませんか?」
「……」
ゼロウはロディアスが膨張しつつあること、そしてその引き金が皇帝の変貌であり、このままだと世界がロディアスに飲まれること。それを回避するには皇帝に正気を取り戻させることが不可欠であることを説いた。
天候に恵まれていてもここのところ不作が続いている。その理由がわからなかった。アナートンは、さらにとどめを刺された。
「フローラ姫は、死の間際に記憶を取り戻します。失ったのが辛い経験であれば、取り戻すのも辛い経験です。死の間際に真実を知って、衝撃を受ける。絶望の中で我々と共に命を落とすのです。今、皇帝の元に帰ればその香り、その佇まい、周りの全てのものが緩やかに癒すように記憶を戻らせるはずです」
ゼロウの話には矛盾もなく、どれも説得力があった。しかしその出所がわからない。
フローラの手を握り、いくつもの監視の目を抜けてこの村へ二人で落ち延びる様子をゼロウは語った。そんなものはフローラと自分だけしか知るはずがないことだ。それらはトルテから聞いた話から自分が想像した光景だったが、全て的を得ていたようだ。
「……ガイゼルでも皇帝の使いでもなく、それなのに全てを知っている。あなたは何者なのですか?」
「今は詳しくは申せません。ずっとコロで薬屋をやっていました」
「おまちどうさま」
ちょうどそのとき、フローラが茹でた栗を皿に乗せて持ってきた。
「ありがとう」
アナートンがそう言ってフローラに向かって笑いかけると、腹を決めたように切り出した。
「わかりました。私も城へ出頭しましょう。私の命は助かるまいが、フローラのことを思えばこそ」
切実な声色に変わる。
それを聞いてフローラが不安を顔に浮かべた。
「命? 何のことですか?」
「妹君にも、伝えて構いませんか?」
ゼロウが言うと、アナートンは黙って頷いた。
「そ、そんな。私は嫌です」
フローラが声を震わせて言う。
「アナートンが死んでしまうなんて、私は嫌です。行きません」
どうやらアナートンは認めたがフローラの方が拒んでいるようだ。予想と少し違う展開だ。どうしたらいいだろう。困り果てていると声が聞こえた。
『問題ない』
トルテの声だがトーンが少し違う。ゼロウは素早く汲み取った。
『ガイゼルならすでに死んでいる』
「ガイゼルならすでに死んでいる」
『フローラが条件を出せばいい』
「フローラが条件を出せばいい」
『自分の身と引き替えにアナートンの命は保証すると』
「自分の身と引き替えにアナートンの命は保証すると」
「?」
声の感じが変わった。誰かと話している?
この男には不思議な何かが憑いているのだろう。アナートンがこの先、最後にゼロウに対して抱く感想だ。
「愛した男を皇帝に認めさせることができれば、城で二人で暮らせるだろう」
最後の言葉を繰り返し、ゼロウが笑って言った。
「ほ、本当に?」
フローラが泣き出しそうな顔で言う。アナートンが死なないでくれればいいのだ。そしてそのまま一緒に暮らせるならそれは願ってもないことだ。
二人には長い共同生活の中で切っても切れない絆が出来上がっていた。
「これは俺の戦いでもあり、フローラの戦いでもあり、アナートンも立ち向かわなければならない」
二人に向けて言う。
「わかりました」
アナートンが頷く。
「やってみましょう。いいね? フローラ」
「……はい」
こうして三人は村を出て、翌日、帝都を目指す。
そこで待ち受けているものがどのようなものであるのかは、誰にもわからない。




