第四十七話:モテなくなった俺を、誰も見てくれなくなった
大学へ向かう電車の中で、神谷は違和感を覚えた。
誰も見てこない。
正確には、乗客たちは神谷の存在に特別な関心を示さなかった。
隣の席の女性はイヤホンで音楽を聴いている。
向かいの学生は眠っている。
ドアの前に立つ会社員は、窓の外を眺めている。
誰も、神谷を追いかけない。
誰も、連絡先を聞かない。
誰も、突然泣き出さない。
(……普通だ)
神谷は思わず笑った。
何年も欲しかった、普通の朝。
ただし、ひとつだけ問題があった。
普通すぎて、少し落ち着かない。
大学の正門を通る。
警備員が軽く会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけだった。
いつもなら、過剰に心配されたり、長々と話しかけられたりすることがあった。
今日は、何もない。
「……すごい」
神谷は小さく呟いた。
すると、背後から佐伯が現れた。
「おーい、神谷!」
神谷は振り返る。
「……お前は来るのか」
「何だその残念そうな顔!」
「いや、誰にも話しかけられないと思ってたから」
「俺まで消えたら友達ゼロだろ!」
「そこまで言わなくても!」
佐伯は神谷の顔を覗き込んだ。
「……何か違うな」
「分かる?」
「うん。いつもより疲れてない」
神谷は少し驚いた。
「……そうかも」
「あと、周りが静か」
「それが一番の変化だな」
佐伯は腕を組んだ。
「つまり、お前のモテモテが終わった?」
「たぶん」
「……おめでとう」
「ありがとう」
「じゃあ、これからは俺と同じ世界の住人だな」
「どんな世界だよ」
「自分から話しかけないと誰も話しかけてこない世界」
神谷は少し考えた。
「……普通じゃないか」
「普通の厳しさを知らない男め!」
佐伯は大げさに天を仰いだ。
講義室でも、変化は明らかだった。
以前は神谷の近くの席が不自然に埋まった。
今は、空いている席が普通に空いている。
誰かが隣に座っても、必要な会話をするだけ。
神谷はノートを開いた。
(……集中できる)
教授の説明が頭に入ってくる。
板書を書き写せる。
授業が、授業として成立している。
(大学って、こんな場所だったのか)
感動していると、隣の席に七瀬が座った。
「おはよう」
神谷は顔を上げる。
「……七瀬」
「何、その顔」
「いや、誰も来ないと思ってたから」
七瀬は眉を上げた。
「私まで来なくなると思った?」
「……ちょっとだけ」
七瀬は呆れたようにため息をついた。
「恒一。私、何回言えばいいの」
「……ごめん」
「能力が効かないって、最初から分かってたでしょ」
「うん」
「じゃあ、私がここに座る理由は、変わらないよ」
神谷は少し笑った。
「……そうだね」
七瀬はノートを開いた。
「それで、封印したって本当?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「神様の説明が曖昧で……」
「そこはいつも通りだね」
「本当に」
二人は小さく笑った。
講義が始まる。
神谷は七瀬の横顔を見た。
能力がなくても、七瀬は隣にいる。
当たり前のようで、当たり前ではないことだった。
昼休み。
学食の列に並ぶと、神谷はさらに驚いた。
店員が普通に注文を聞いてくる。
「日替わり定食で」
「はい、六百円です」
「……六百円?」
「はい」
神谷は財布を開いた。
以前なら、なぜか大盛りにされたり、サービスを追加されたりしたことがあった。
今日は、六百円。
ごく普通の値段だ。
「……素晴らしい」
店員が怪訝な顔をした。
「お客様?」
「すみません。六百円が嬉しくて」
「……はあ」
七瀬が後ろで肩を震わせていた。
「恒一、普通の会計で感動しすぎ」
「分かるか、この感動!」
「分かんない。私はずっと六百円だったから」
「そうだった!」
二人は席に着いた。
佐伯もやってきた。
「なあ神谷。モテなくなった記念に、何かやろうぜ」
「何を?」
「合コン」
神谷は味噌汁を吹きそうになった。
「何でだよ!」
「普通の大学生っぽいだろ」
「普通の方向性が間違ってる!」
七瀬が静かに箸を置いた。
「佐伯くん」
「はい」
「恒一を合コンに連れていくなら、私も行くけど」
佐伯は一瞬、固まった。
「……彼女同伴の合コン?」
「まだ彼女じゃない」と神谷。
七瀬も同時に言った。
「……まだね」
佐伯は天井を見上げた。
「もういいから付き合えよ!」
学食に笑い声が響いた。
神谷は笑いながら、胸の奥を確かめた。
不気味な熱は、ない。
それでも、七瀬の笑顔を見ると、心臓が少し速くなる。
(……これは、残るんだな)
能力が消えても、恋心までは消えない。
その事実が、神谷には何より嬉しかった。
夕方、二人は大学の中庭を歩いた。
風が冷たくなっている。
七瀬が言った。
「恒一、これからどうするの?」
「どうするって?」
「能力がなくなったあとの生活」
神谷は少し考えた。
「普通に授業受けて、バイトして、友達と飯食って」
「うん」
「……七瀬と、出かけたい」
七瀬は足を止めた。
「……それ、普通の生活に入ってるんだ」
「入れたい」
七瀬は少し頬を赤くした。
「……いいよ」
神谷は笑った。
「ありがとう」
七瀬は手を差し出した。
「じゃあ、帰ろうか」
神谷はその手を握った。
誰も見ていない。
誰も騒がない。
誰も追いかけてこない。
それでも、手を繋いで歩くことが、こんなに嬉しい。
神谷は空を見上げた。
(……モテなくなって、よかった)
そして、少しだけ思った。
(……でも、七瀬には、これからも好きでいてほしい)
その願いだけは、能力では叶えられない。
だからこそ、大切にしたかった。




