第四十一話:俺の能力を、俺自身に使うことはできない
神谷は大学の図書館で、ノートを開いていた。
『能力について分かっていること』
一、他人の好意や親近感を増幅する。
二、距離や接触で影響が強まる場合がある。
三、七瀬との接触で影響が静まる。
四、自分自身の感情は操作できない。
四つ目を書いて、ペンが止まった。
(……本当に、そうなのか?)
神様は自分の気持ちは自分のものだと言った。
だが、能力を持つ自分の感情まで、どこか歪んでいる可能性はないのか。
「難しい顔してるね」
七瀬が向かいに座った。
「また能力のこと?」
「うん。俺、自分の気持ちまで疑ってるのかもしれない」
「どんなふうに?」
「七瀬さんを好きだと思うのも、能力のせいなんじゃないかって」
七瀬は目を瞬いた。
「私には効かないのに?」
「効かないのは七瀬さんのほうだろ。俺の中は分からない」
七瀬は少し考えた。
「じゃあ、今ここで答えを出さなくてもいいよ」
「……嫌じゃない?」
「少しは嫌だよ。でも、疑問があるのに無理に好きって言われるほうが嫌」
神谷は俯いた。
七瀬はノートを指差した。
「四番目、断定できる?」
「……できない」
「じゃあ『今のところ、自分の感情を操作した例はない』にしておけば?」
神谷は書き直した。
そのとき、相談室の担当者から連絡が入った。
『広告を見た来訪者の一人が、改めて相談を希望しています。
神谷さんへの接触は求めていません』
神谷は画面を見た。
「……俺に会わずに、話を聞きたいって」
「それなら、まず担当者さんに任せよう」と七瀬。
午後、大学の相談室で担当者が状況を説明した。
来訪者の男性は、神谷の広告を見たとき、会わなければならないという強い衝動を感じたという。
数日経った今は落ち着いているが、なぜそんな行動を取ったのか、本人にも分からない。
「直接会う必要はありません」と担当者。
「むしろ、本人が落ち着くまでは距離を置きましょう」
神谷は頷いた。
しかし、胸の奥で別の疑問が膨らんだ。
(俺だって、七瀬さんに会いたいと思う)
相手の男性が感じた衝動と、自分の気持ちは何が違うのだろう。
神谷は帰り道で、その疑問を七瀬に話した。
「俺、会いたいって思うだけで怖くなるんだ」
「……私に?」
「うん。あの人たちみたいに、気持ちを勝手に大きくされてるんじゃないかって」
七瀬は足を止めた。
「それ、私が決めていいことじゃないね」
「……そうだよな」
「でも、確かめられることはあると思う」
七瀬は神谷を見た。
「例えば、私が『今日は一人で帰りたい』って言ったら?」
「……分かった、って言う」
「本当に?」
「寂しいとは思う。でも、七瀬さんがそうしたいなら、尊重する」
七瀬は小さく頷いた。
「じゃあ、今日は一人で帰る」
神谷は言葉を失った。
「……え?」
「嫌?」
「嫌っていうか、寂しい」
「そう」
七瀬は少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
そして本当に、一人で歩き出した。
神谷は追いかけなかった。
足が動きかけたのを、自分で止めた。
(……行きたい)
もっと話したい。
さっきの返事が冗談だったのか聞きたい。
けれど、七瀬は一人で帰ると言った。
神谷は反対方向の駅へ歩いた。
寂しさは消えなかった。
だが、相手の意思を踏みにじる理由にもならなかった。
翌朝。
七瀬はいつものベンチに座っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「怒ってる?」
「ちょっと」
七瀬が眉を上げる。
「何に?」
「急に一人で帰るって言われたから。でも、七瀬さんがそうしたいなら、それは七瀬さんの自由だし」
七瀬は少し困った顔になった。
「ごめん。試すみたいな言い方だったね」
「……うん。実験台にされるの、好きじゃない」
神谷が言うと、七瀬ははっとした。
「それ、私がいつも言ってることだ」
「そう」
「ごめん。昨日は私も、神谷くんの気持ちを勝手に測ろうとした」
神谷は首を振った。
「でも、分かったことはある」
「何?」
「寂しくても、追いかけないって決められた」
七瀬は黙った。
「俺の能力が自分に効くかどうか、これで証明できたわけじゃない。でも、気持ちが強くても、どう動くかは選べるんだなって」
七瀬は頷いた。
「……うん。それは大きいと思う」
神谷はノートを取り出した。
『自分自身への能力作用は未確認。
感情と行動は区別できる』
「また記録?」
「大事だから」
「ほんと、研究者みたい」
「研究対象が俺なんだけどな」
七瀬が笑った。
「でもさ、神谷くん」
「何?」
「昨日、一人で帰ってみて、私も分かったことがある」
「……何?」
「普通に寂しかった」
神谷は固まった。
「……え?」
「あなたが隣にいないと、帰り道が長かった」
七瀬は頬を赤くした。
「能力の遮断も、危険回避も、関係ないのに」
神谷の胸が熱くなる。
いつもの、能力が暴走するときの熱ではなかった。
「俺も、同じだった」
七瀬は目を逸らした。
「……そう」
少しの沈黙。
神谷は言った。
「七瀬さん。俺、能力がなくなっても、また一緒に映画を見たい」
「泣かないやつ?」
「まだそれ言う!?」
「だって前に、結構泣いてたから」
「感動しただけです!」
二人は笑った。
神谷はノートを閉じた。
自分の能力を自分自身に使えるかどうか。
その答えは、まだ完全には分からない。
でも、七瀬を好きだという気持ちを、証明のために相手へ押しつける必要はない。
明日も隣にいたい。
その願いを言葉にするときは、相手が断れる余地を残しておこう。
それが、今の神谷にできる、一番確かな選択だった。




