第三十五話:神谷が組織に協力すると宣言した
七瀬に一億円の契約書が届いた翌朝、神谷は大学の相談室で言った。
「俺、研究会に協力すると伝えます」
担当職員のペンが止まった。
「……神谷さん。契約書の内容は理解していますか」
「理解してます。だから、契約はしません」
「協力するのに契約しないって、どういうこと?」
七瀬が眉を寄せた。
「説明して。私に黙って決めたなら、怒るよ」
「黙ってない。今、相談してる」
「よろしい。続けて」
神谷は机に契約書を広げた。
『能力提供』『接触試験』『干渉耐性保持者の同席』。
七瀬の名前が印字された同意欄には、本人が触れてもいないチェックが入っている。
「向こうは俺たちが断っても、同意したことにする気かもしれない。だったら、こちらから条件を明文化したいんです」
「具体的には?」と職員。
「能力について俺がすでに記録した事実だけ、大学を通じて書面で伝える。直接会わない。能力を使わない。七瀬さんの参加を条件にしない」
七瀬は契約書を指で叩いた。
「私の名前が勝手に書かれてることも、抗議して」
「もちろん。七瀬さんのことは七瀬さんが決める」
職員は少し考えた。
「限定的な情報提供の申し出なら、大学側で文面を確認できます。ただし、相手の研究を承認したことにはなりません。資料は個人情報を除き、危険な実験を促す内容も含めないでください」
「分かりました」
神谷は書面を作った。
『私は、自分の能力が他者に与える影響を懸念しています。
被害防止に必要な範囲で、既に確認した事実の提供には協力します。
ただし、能力の実演、被験者の募集、商業利用、七瀬さんの実験参加には一切同意しません。
今後の連絡は大学の窓口を通してください』。
神谷は読み返し、署名した。
「これで、俺の意思は伝わるかな」
「伝わるよ」と七瀬。
「無視されるかもしれないけど、少なくとも勝手に『はい』にはされない」
職員は大学の正式な連絡窓口から文書を送付した。
数時間後、研究会から返信が届いた。
『神谷恒一氏の協力表明を歓迎します。
今後、共同実証の準備を進めます』。
「……は?」
神谷は画面を二度見した。
「実証は断っただろ!」
「都合のいい部分だけ抜き出してる」と七瀬。
さらに、添付された案内には『特級保持者が研究に参加』という文言があった。
職員の顔が険しくなる。
「これは協力条件の誤表示です。訂正と掲載停止を要求します。保存もしておきましょう」
神谷は唇を噛んだ。
「俺が協力すると言ったせいで……」
「違う」と七瀬。
「あなたは条件を明確にした。無視してるのは向こう」
その言葉に、少しだけ呼吸が戻った。
昼休み、佐伯に事情を話すと、唐揚げを箸で挟んだまま固まった。
「つまり神谷、悪の組織に『資料なら渡す』って言ったら、『人体実験に参加決定』って広告されたの?」
「そういうこと」
「通販で試供品頼んだら工場ごと買ったことになってるじゃん!」
「例えが大きすぎる!」
佐伯は笑いを引っ込めた。
「でもさ。お前の意思を勝手に書き換える組織が、人の感情を扱うって……怖いな」
神谷は頷いた。
「俺たちの『いいえ』を聞かない人たちに、人の心を預けられない」
午後、大学から訂正要求が送られた。
研究会はすぐには応じず、代わりに『安全な能力管理には継続協力が必要』とだけ返してきた。
「安全って言葉を、脅しに使うんだな」と神谷。
七瀬は椅子から立ち上がった。
「今日やったことは無駄じゃない。断った記録が残ったから」
「……うん」
「それに、私に相談してから決めた。そこは褒めてあげる」
「補習、終わり?」
「追試はまだ」
「厳しい!」
そのとき、神谷のスマホが震えた。
朝倉玲奈からだった。
『研究会の「安全」を信じないで』。
続けて、もう一通。
『私も最初は、協力するだけのつもりだった』。
神谷は七瀬に画面を見せた。
「……助けを求めてるのかな」
「分からない。だから、二人だけで会いに行かない」
「うん。相談室に見せよう」
神谷はスマホを握り直した。
協力すると宣言したのは、自分の意思で誰かを守るためだった。
その宣言さえ利用しようとする相手に、これ以上、自分たちの選択を奪わせるわけにはいかない。




