第三十一話:俺の能力を買いたい人間が、また現れた
大学の相談室には、三人の職員が集まっていた。
神谷と七瀬が提出したメッセージは、すでに学内警備へ共有されている。
「『一人で来てください』という要求には応じないでください」
担当者が言った。
「分かっています」
神谷は答えた。
隣の七瀬も頷く。
ただし、二人の間には少し距離があった。
昨日のことが、まだ完全には解決していない。
「それと、駅前で接触してきた女性について、来客記録を確認しました」
職員が資料を開く。
「朝倉玲奈という名前で登録されていますが、所属先として書かれた団体は、大学の正式な取引先ではありません」
「……やっぱり」
七瀬が呟く。
「団体名は?」
担当者が紙を示した。
『人間関係研究会』
神谷は思わず顔をしかめた。
「名前が無害そうすぎる」
「名前だけで判断はできません」と担当者。
「ただし、複数の学生に接触した形跡があります。学内への立ち入りについては確認を進めています」
相談が終わり、二人は廊下へ出た。
神谷は七瀬に声をかける。
「……昨日のこと、もう一度謝らせて」
「もう聞いた」
「うん。でも、俺、ちゃんと分かったから」
七瀬が立ち止まる。
「何を?」
「守りたいって思うのは俺の気持ち。でも、離れるかどうかは二人で決めることだって」
七瀬はしばらく神谷を見た。
「……そうだね」
「次は勝手に決めない」
「次がないのが一番だけど」
「それは本当にそう」
七瀬は少しだけ笑った。
「じゃあ、昼ご飯食べよう」
「……いいの?」
「お腹すいた」
神谷はほっとした。
その瞬間、スマホが震えた。
知らない番号からの着信だった。
二人は顔を見合わせた。
「出ないほうがいいかな」
「録音できる環境で、相談室の人に確認してから」
神谷は頷いた。
しかし、着信は切れた。
直後にメッセージが届く。
『正式な条件提示を行います。
拒否も自由です』
続けて、PDFのような添付ファイル。
神谷は開かず、相談室へ戻った。
担当者の前で確認すると、そこには契約書の体裁をした文書があった。
『特級感情誘導能力の独占使用権』
『契約期間:五年』
『対価:初年度一億円』
神谷は声を失った。
「……一億?」
七瀬も画面を見つめる。
「桁、間違ってない?」
「いや、ゼロが八個ある」
「神谷くん、計算できるんだ」
「今そこ!?」
だが、笑いはすぐに消えた。
契約書の末尾に、細かな条項がある。
『必要に応じ、対象者の心理反応を測定する』
『協力者の同席および接触条件は、研究会が指定する』
神谷は眉を寄せた。
「……これ、俺だけの契約じゃない」
七瀬も気づいた。
「私を『協力者』として扱うつもりだ」
神谷は画面を閉じた。
「断る」
「待って」と七瀬。
神谷が顔を上げる。
「断るのは賛成。でも、返信する前に証拠として保存して、相談室と警察に相談しよう」
神谷は頷いた。
「……そうだね」
担当者も言った。
「金額が大きくても、契約の正当性が確認できるわけではありません。脅迫と関連する可能性もあります」
神谷は契約書をもう一度見た。
一億円。
大学生が普通に生活していたら、まず目にしない金額だ。
でも、その数字の向こうに、誰かの自由を奪う仕組みが見えた。
「……俺の能力を買って、何をするつもりなんだろう」
七瀬が静かに答えた。
帰り道、神谷は契約書の金額を思い出していた。
一億円。
普通なら、人生が変わるほどの大金だ。
「七瀬さん、一億円あったら何する?」
「奨学金があれば返して、あとは貯金かな」
「現実的!」
「神谷くんは?」
「引っ越す。防犯設備がしっかりしたところ」
七瀬の表情が少し変わった。
「……そうだよね」
神谷は苦笑した。
「豪邸とか高級車じゃなくて、まず鍵の心配をしなくていい家が欲しい」
七瀬は黙って頷いた。
「でも、そのために人の気持ちを売るのは嫌だな」
「うん」
二人は駅前の交差点で立ち止まった。
神谷が言う。
「俺、能力があることをずっと不幸だと思ってた」
「今は違うの?」
「不幸な部分はある。でも、どう使うかは自分で決めたい」
七瀬は少し笑った。
「それなら、最初の一歩はもうできてるよ」
「……何?」
「一億円を断るって決めた」
神谷は目を丸くした。
「そう言われると、すごいことした気がする」
「まだ返信もしてないけどね」
「現実に戻すの早い!」
信号が青に変わった。
二人は歩き出した。
神谷は思った。
もし、あの能力がなかったら。
七瀬とは、ただ同じ学部の学生としてすれ違っていただけかもしれない。
それでも、能力を肯定する理由にはならない。
大切なのは、出会ったあとに何を選ぶかだ。
夜になって、神谷は契約書のコピーをもう一度見た。
『独占使用権』という文字が、やけに大きく感じられた。
能力は自分の意思で手に入れたものではない。
けれど、使い方まで他人に決められるのはもっと嫌だった。
神谷はノートに書いた。
『能力があることと、能力を提供する義務は別』
書いてから、七瀬に写真を送る。
『これ、合ってると思う?』
すぐに返事が来た。
『合ってる。
あと、私の協力を勝手に契約に含めるのも論外』
『だよな』
『一億円で私を雇えると思ってるなら、まず時給の計算からやり直してほしい』
神谷は笑った。
『時給いくらならいいんだ?』
『時給の問題じゃない』
『そうだった』
少し間を置いて、七瀬からもう一通。
『でも、ジュース一本なら相談には乗る』
神谷は声を出して笑った。
大金の契約書を前にしても、二人の会話はいつも通りだった。
そのことが、今夜は何より心強かった。
「人の気持ちを、値札のついた商品にするつもりなのかも」
神谷はスマホを握り直した。
一億円では、買えないものがある。
それを、相手はまだ理解していないらしい。




