第三十話:彼女じゃないと言ったら、七瀬が泣いた
翌朝、神谷のスマホに匿名のメッセージが届いた。
『七瀬さんが大切なら、距離を取ったほうがいい』
添付されていたのは、大学の正門で撮られた七瀬の写真だった。
神谷の指が冷たくなる。
また盗撮だ。
今度は、七瀬だけが写っている。
続けてもう一通。
『彼女だと認めるなら、彼女も対象になる』
神谷はすぐに保存し、相談室へ連絡した。
返信はしない。
一人で犯人を探さない。
それは七瀬と決めた約束だった。
なのに、頭の中では別の声が響いていた。
(俺と一緒にいなければ、七瀬さんは狙われないんじゃないか)
午前の講義が終わる頃、七瀬が教室へ入ってきた。
「神谷くん、メッセージ見せて」
「……もう知ってるの?」
「相談室から連絡があった。私の写真だから、私にも確認してほしいって」
神谷は頷いた。
七瀬は画面を見た。
表情が険しくなる。
「……また、勝手に撮ったんだ」
「うん」
「今度は私か」
神谷は唇を噛んだ。
「七瀬さん。しばらく、俺と一緒にいないほうがいいかもしれない」
七瀬は顔を上げた。
「どうして?」
「俺といると、危険だから」
「危険なのは分かってるよ」
「でも、今度は七瀬さんを狙ってる」
「だから一緒に相談するんでしょ」
神谷は返事ができなかった。
そこへ佐伯が近づいてきた。
「おーい、二人とも。なんか変な噂――」
神谷は反射的に言った。
「俺と七瀬さんは、付き合ってない」
佐伯が足を止めた。
「……え?」
周囲の学生がこちらを見た。
神谷は続けてしまった。
「彼女じゃない。だから、七瀬さんに俺のことで何か言うのはやめてほしい」
七瀬の顔から表情が消えた。
「……神谷くん」
声が小さかった。
神谷はその声を聞いて、ようやく自分の言葉の重さに気づいた。
七瀬は確かに、まだ正式な恋人ではない。
でも、今の言い方は違う。
二人の関係を、他人の前で勝手に切り離してしまった。
佐伯が困った顔をした。
「……悪い。俺、何も聞いてないことにする」
佐伯は離れていった。
七瀬はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「付き合ってないのは、事実だよ」
「……うん」
「でも、それを言うかどうか、私に聞いてくれてもよかったんじゃない?」
神谷は胸を突かれた。
第21話で、約束したはずだった。
勝手に決めない。
相手の意思を聞く。
なのに、自分は同じことを繰り返している。
「……ごめん」
七瀬は首を横に振った。
「謝るより、答えて」
「何を」
「私が危険だから離れたほうがいいって、誰が決めたの?」
神谷は黙った。
「私、怖くないわけじゃないよ。昨日だって、朝倉さんが神谷くんに近づいたとき、本当に怖かった」
七瀬の声が震えた。
「でも、だからこそ一緒に考えたいって言った」
「……うん」
「神谷くんは、私が隣にいることを迷惑だと思ってる?」
「そんなことない!」
思わず声が大きくなった。
七瀬の目が揺れた。
「じゃあ、どうして」
神谷は答えられなかった。
答えは分かっている。
怖いのだ。
自分のせいで、七瀬が傷つくことが。
でも、その怖さを理由に、七瀬の選択を奪っていいはずがない。
「……七瀬さんが傷つくのが怖い」
ようやく言えた。
七瀬は一度、目を閉じた。
「私も、神谷くんが傷つくのは怖いよ」
小さな雫が、頬を伝った。
神谷は息を呑んだ。
七瀬が泣いている。
あの七瀬が。
「……泣かせたかったわけじゃない」
「知ってる」
七瀬は涙を拭った。
「でも、守るって言いながら勝手に離れられるのは、嫌だよ」
神谷は近づきかけて、足を止めた。
「……手、握ってもいい?」
七瀬は少し迷った。
そして、首を横に振った。
「今は、少し待って」
神谷は手を下ろした。
「……分かった」
その返事を聞いて、七瀬は少しだけ笑った。
「そこはちゃんと聞いてくれるんだね」
「……今度こそ、ちゃんとする」
七瀬は深く息を吸った。
「今日の午後、相談室で話そう。私も一緒に行く」
「うん」
「でも、その前に少し一人にして」
「……分かった」
七瀬は廊下へ出ていった。
神谷は追わなかった。
追いたかった。
抱きしめて謝りたかった。
でも、それは自分が安心したいだけかもしれない。
今、七瀬が選んだのは、一人になる時間だった。
神谷はその選択を尊重した。
スマホが震えた。
知らない番号からだった。
『賢明な判断です。
次は一人で来てください』
神谷は画面を見つめた。
(……違う)
七瀬と距離を取らせたい誰かがいる。
その誰かの言葉に、今の自分は従いかけていた。
神谷はメッセージを保存し、相談室へ転送した。
そして七瀬にも、短く送った。
『さっきは勝手に決めてごめん。
新しい脅迫が来た。
相談室に共有した。
午後、一緒に話したい』
既読はすぐにはつかなかった。
神谷はスマホを伏せた。
待つことも、相手を尊重することの一つだ。
その日の午後。
相談室の扉が開くと、七瀬が先に来ていた。
目元は少し赤い。
でも、椅子を一つ空けてくれていた。
神谷はそこに座った。
「……来たよ」
「うん」
七瀬は前を向いたまま言った。
「まだ怒ってるからね」
「……分かってる」
相談室では、七瀬も自分の考えを説明した。
「私の写真が使われたからって、神谷くんと離れるように言われるのは納得できません」
担当者は頷いた。
「その気持ちは尊重します。ただ、通学経路や帰宅時間を特定されないよう、具体的な対策は考えましょう」
神谷は資料を見た。
大学の緊急連絡先。
警備室の場所。
危険を感じたときの対応。
派手な能力バトルとは程遠い、地道な手順だった。
でも、今の二人には必要だった。
「……俺、七瀬さんを守るって言いながら、相談することを忘れてた」
神谷が言うと、七瀬は少しだけ視線を向けた。
「うん」
「これからは、怖いときは怖いって言う」
「私も」
担当者が席を外し、二人だけになった。
神谷は机の端を見つめた。
「……昨日、手を握らないでって言われたとき、正直、すごく怖かった」
七瀬が顔を上げる。
「嫌われたと思った?」
「……少し」
七瀬はため息をついた。
「嫌いになったんじゃないよ。怒ってたから、少し距離が欲しかっただけ」
神谷は頷いた。
「うん。今なら分かる」
七瀬は手を机の上に置いた。
「今は、握ってもいいよ」
神谷はその手を見た。
「……本当に?」
「毎回確認するの?」
「大事だから」
七瀬は少し笑った。
「じゃあ、毎回ちゃんと答える」
神谷はそっと手を重ねた。
すぐに全部が元通りになるわけではない。
けれど、二人で話し合えば、少しずつ戻せるものもある。
七瀬は指先に力を込めた。
「次、勝手に別れ話みたいなことしたら怒るから」
「……付き合ってないのに?」
「そこは今、突っ込まない!」
神谷は久しぶりに笑った。
「でも、一緒に考えるのはやめない」
神谷は頷いた。
二人の間に、まだ手は繋がれていない。
それでも、同じ方向を向くことはできた。




